被爆者の闘い 人間をかえせ 平和をかえせ 弾圧うち破り核廃絶叫ぶ

週刊『前進』04頁(3203号03面02)(2021/07/19)


被爆者の闘い
 人間をかえせ 平和をかえせ
 弾圧うち破り核廃絶叫ぶ


 広島・長崎の被爆者は戦後、米日政府による被爆者抹殺政策と反核運動への弾圧に抗して、反戦反核を不屈に訴えて闘い続けた。
 1945年9月、日本を占領したGHQはただちに「日本ニ与ウル新聞準則(プレスコード)」を発令し、原爆についての報道や表現を徹底的に取り締まった。栗原貞子、原民喜、正田篠枝、峠三吉らをはじめ多くの被爆者がGHQと警察権力の弾圧をかいくぐり、原爆の実相を告発する詩や小説、文芸誌などを非合法で発行した。
 他方、日本中の労働者が戦後革命に決起する中、広島でも多くの被爆労働者が労働組合を結成して立ち上がった。49年6月の日本製鋼広島工場での整理解雇に対する工場占拠闘争は、全市から支援者1万人が結集する大闘争となった。後に「反戦被爆者の会」の創設者となる小西のぶ子も、広島電鉄労組婦人部長・私鉄総連中国地本婦人部長として義弟の峠三吉と共に駆け付けた。峠三吉は、この闘いの中で「初めて怒りの詩を発表して労働者の闘いを理解するようになった」という(小西のぶ子遺稿集『炎の巡礼者』より)。
 50年6月に朝鮮戦争が始まると、GHQは「8月5日以降の一切の集会禁止」を通達し、平和祭や慰霊祭すらも不許可とした。6日は「一日中警察のトラックが警官を満載して広島市中を走りまわり、あらゆる集会を開かせまいと、〝戒厳令下の状況〟をつくりだした」(広島県労働組合会議編『広島県労働運動史』)。被爆者はこの〝戒厳令下〟を命がけで突破し、市内2カ所で非合法集会を開催、峠三吉は福屋デパートの屋上から反戦ビラをまいた。
 54年3月1日、ビキニ環礁での米軍の水爆実験でマグロ漁船・第五福竜丸が被爆した「ビキニ事件」を契機に、原水爆禁止署名運動が全国で巻き起こり、55年8月6日に広島で第1回原水爆禁止世界大会がかちとられた。翌56年には日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が結成された。だが原水禁運動はその後、「アメリカの核には反対だがソ連の核には賛成」「ソ連の『死の灰』なら喜んで浴びる」などと主張した日本共産党によって62年に分裂させられ、混乱と衰退を余儀なくされていく。
 社会党・共産党の泥仕合のもとで混迷を強いられた被爆者の闘いに新たな展開をもたらしたのは、青年労働者・学生を先頭に闘われた70年安保・沖縄闘争の爆発だった。68年、長崎県佐世保での米原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争では、全学連や反戦派労働者の実力デモに多くの長崎の被爆者が合流した。
 そして71年8月6日、佐藤栄作首相(当時)の来広と記念式典出席に対し、前年に被爆2世が結成した全国被爆者青年同盟(被青同)の実力闘争が闘われ、戦後26年間被爆者を見殺しにしてきた日本政府への怒りが爆発した。被青同のデモ隊は機動隊の阻止線を突破して式典会場に突入、これに応えて会場内の被爆者が佐藤につかみかかり、傘で殴り、椅子を投げつけ、ついに佐藤は車に乗せられて平和公園から逃亡するはめになった。以後、首相を招いた記念式典への抗議デモは、毎年被爆者・被爆2世を先頭にあらゆる弾圧や規制をはねのけて闘われ、8月6日を「反戦反核闘争の日」として歴史に刻みつけてきた。こうした被爆者の闘いのすべてを継承し、労働者民衆の団結と国際連帯の力で戦争阻止・核廃絶をめざす8・6ヒロシマ大行動が99年に始まった。
 2003年に始まった原爆症認定集団訴訟では多くの被爆者が原爆症の苦しみを訴え、被爆医師・肥田舜太郎の尽力もあり、放射能の内部被曝による健康被害を初めて司法の場で認めさせた。15年からの「黒い雨」訴訟も、画期的な勝利判決をかちとっている。
(敬称略)

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ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
(峠三吉『原爆詩集』序より)

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