ミャンマー人民と連帯し日帝打倒を 上 戦前から現在まで続く日帝の侵略・略奪の歴史

週刊『前進』04頁(3206号04面01)(2021/08/16)


ミャンマー人民と連帯し日帝打倒を 上
 戦前から現在まで続く日帝の侵略・略奪の歴史


 2月1日の国軍クーデター以来、ミャンマーの労働者民衆は決死の闘いを継続している。国家公務員を先頭とする市民不服従運動(CDM)が労働組合のストライキと結びついて発展し、新自由主義下で育った「民主化世代」の青年たちが社会を根本から変革する闘いの先頭に立っている。この闘いは着実に国軍を追い詰め、崩壊させつつある。「日本軍がビルマに残した最悪のもの」といわれる国軍に立ち向かうミャンマー労働者民衆の闘いに日本労働者階級はいかに応えるべきか。現在まで続く日帝のミャンマー侵略の歴史を2回にわたって明らかにしたい。

アジア・太平洋戦争で占領

豊富な資源狙い独立運動を利用

 日本帝国主義とビルマ(現ミャンマー)との深いかかわりはアジア・太平洋戦争時にさかのぼる。1930年代後半、日帝は東南アジアを「世界通商上の要衝」「帝国の産業及び国防上必要欠くべからざる地域」と位置づけ、「南進」を国策とした。「欧米の支配からの解放」「大東亜共栄圏」をうたった日帝の狙いは、米英帝国主義に代わってアジアを自らの支配下に置き、帝国主義戦争を継続するために豊富な資源を略奪することだった。
 41年12月8日、真珠湾攻撃と同日のマレー半島侵攻をもって東南アジアへの侵略を開始した日本軍は、英植民地だったビルマでの独立闘争を利用するためにビルマ独立義勇軍(BIA)の育成に乗り出した。日本軍の謀略組織「南機関」が民族運動家の青年30人を脱出させて軍事教練を実施。独立を約束し、ビルマへ侵攻する日本軍に同行させた。現在の国軍のルーツであるBIAのビルマ側リーダーがアウンサンスーチーの父アウンサンだった。
 ところが、ビルマを占領した日本軍は約束を破って軍政を敷き、陸軍省のもとで油田や鉱山に三菱石油や三井鉱山などの大資本が群がった。43年、日帝は独立運動リーダーの一人バモーを首班とする「独立」を認めたが、条件として日本との「共同防衛」を約束させ、日本軍の駐屯や軍事基地使用を要求した。中国東北部に建設した「満州国」と同様に、見せかけの「独立」のもとビルマを利用しつくすことが目的だった。

軍政下で住民の徴発や略奪行う

 侵攻―軍政開始から敗戦までの過程で日本軍はビルマをはじめ東南アジア諸国を踏みにじり、労働者民衆から命も物資も奪った。
 陸上輸送路確保のために強行されたタイとビルマを結ぶ泰緬(たいめん)鉄道の建設工事(42〜43年)には、連合国軍の捕虜に加えてビルマやタイ、マレーシアなどの労働者が動員された。深い密林を切り開く過酷な作業に加え飢餓や伝染病で数万人が命を落とし「死の鉄道」と呼ばれる。
 日帝の敗色が濃厚になった44年9月、日本軍はインパール作戦(連合国側が中国・蒋介石を支援していた輸送路「援蒋ルート」の遮断を狙いビルマからインドの英軍拠点インパール攻略をめざした作戦)でも住民を徴発し家畜を略奪した。

「戦後賠償」は侵略の継続

戦後世界情勢が賠償の性質規定

 日帝は敗戦後、アジアへの侵略と植民地支配への責任をとることなく延命してきた。その出発点である戦後賠償問題には、戦後の東アジアを取り巻く状況が大きく影を落とした。
 そもそも46年段階で、連合国側の基本方針は日本の軍国主義的復活を不可能にすることを重視し、工業設備を撤去して侵略を受けた国々に移転する「撤去賠償」だった。しかし、49年の中国革命と中華人民共和国建国、50年朝鮮戦争勃発を背景に「反共のとりで」としての日本の重要性が高まるなか、米帝国主義は「日本の早期の経済復興が自由主義陣営の強化に資する」と判断した。こうしてサンフランシスコ講和条約は日本の戦争責任をあいまいにしたものとなった。連合国側は原則として賠償請求権を放棄し、損害を受けた国が希望する場合は「役務」の提供を行うとした。
 そして日帝自身もこのことを積極的に利用した。当時の大蔵大臣・池田勇人は52年に著書で「東南アジア諸国が日本をモデルとして経済成長を実現すれば、西側にとっての安全保障上の懸念は払拭(ふっしょく)しうる」と書いている。

日帝が経済協力の名で市場獲得

 ビルマは講和条約締約国ではないが、いち早く日本と個別折衝を行った。54年に「日本・ビルマ平和条約及び賠償・経済協力協定」調印後、日本政府はダムや鉄道、発電所の建設・運営など役務と生産物による「賠償」を開始。狙いは「調達される物資、役務の対象を日本製品に限定した資金をアジア諸国に供与することにより、日本の産業にとっての市場確保を後押しするとの効果」(外務省ウェブサイト)だった。
 こうして焼け跡から成長を開始していた日本の重化学工業は安定的な市場を獲得し、戦前は欧米の独占的市場だった東南アジアに日本企業が次々と進出。財界には侵略戦争への反省などなく「賠償から商売へ」という言葉すら流行した。
 当然にもこのような「賠償」が戦争で大きな被害を受けた労働者民衆に届くわけもなく、それはむしろ「国家の復興」や「経済建設」の名のもとに日帝の経済侵略を容認する歴代の軍事独裁政権を支えてきた。これこそが日本とビルマの「特別な関係」の内実だ。
 54年を起点として、日本政府は矢継ぎ早にアジアへの経済侵略のための体制を整えていった。55年には外務省アジア局内に「賠償部」と「アジア経済協力室」を設置。63年には「経済技術協力協定」を締結した。以降、政府開発援助(ODA)を通じてアジア諸国を経済的に従属させていった。工業化プロジェクトによる国営工場や発電所、鉄道などのインフラ整備がその柱となった。
 その後72年には円高を契機に直接の資本投下に踏み切り、「戦後処理」からむき出しの経済侵略へと転換した。80年代前半には日本からビルマへのODA供与がピークになり、2国間援助の8割を日本が占めるまでになった。(佐々木舜)

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ミャンマー関連年表
1886年 全土がイギリスの植民地に
1941年 ビルマ独立義勇軍(BIA)結成
1942年 日本軍がビルマ独立義勇軍とともにビルマに侵攻
1943年 東条内閣がビルマに「独立」を認める
1945年 対日武装蜂起勃発
1948年 ビルマ連邦として独立
1954年 日本・ビルマ平和条約、賠償・経済協力協定調印
1962年 軍事クーデターにより将軍ネウィンが大統領に
1988年 戒厳令下で学生や労働者民衆が大規模デモ
    軍部のクーデターによりソウマウン国防相が全権掌握
    アウンサンスーチーらが国民民主連盟(NLD)結成
1989年 日本政府が軍事政権を承認、政府開発援助(ODA)を順次再開へ
1990年 総選挙でNLDと民族政党が圧勝。軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否し、民主化勢力への弾圧を強化
2008年 新憲法が成立。国会の25%を国軍司令官の指名枠とするなど、国軍に大きな権限を残した内容だった
2011年 テインセインが大統領となり「民政移管」
2015年 民政復帰後初の総選挙でNLDが圧勝
2016年 スーチー側近のティンチョーを大統領とする新政権が発足
2020年 総選挙でスーチー議長率いるNLDが大勝
2021年 2月1日、軍事クーデターにより国軍総司令官ミンアウンフラインが全権を掌握。労働者民衆が武装闘争も含めた不屈の闘いを継続

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