再びの侵略戦争許すな 9・18柳条湖事件から90年 日本軍は中国大陸で何をしたか

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週刊『前進』04頁(3211号04面01)(2021/09/20)


再びの侵略戦争許すな
 9・18柳条湖事件から90年
 日本軍は中国大陸で何をしたか


 中国の人々にとって、同時に日本の労働者階級にとって「9・18」は特別な日だ。1931年9月18日に、日本軍が中国東北部(満州)の柳条湖で鉄道を爆破した謀略事件(柳条湖事件)を起点とする「満州事変」をもって、日本帝国主義は中国東北部への侵略戦争に乗り出した。以来、41年のアジア・太平洋戦争開戦、45年の日帝敗戦に至る。この事件に始まる15年戦争の全過程で「皇軍」=天皇の軍隊は中国の人民から土地を奪い、残虐な大量殺人に手を染めた。この歴史は永遠に消すことができない。何よりも、切迫する米日帝国主義の新たな中国侵略戦争を絶対に許さないために、日帝による侵略の実相を改めてとらえ返そう。

朝鮮に続き植民地化狙う

日帝の侵略こそ日中戦争の本質

 かつて「日本がアメリカと戦争をして負けた」ことはよく知られている。だが、15年戦争の最大の実体をなしたのは中国への侵略戦争だった。周知のように、中国の側から日本に攻め込んだことなど一度もない。日帝は中国大陸へ一方的に出兵して全土で残虐な侵略戦争を行い、最後は中国人民の不屈の戦いの前に大敗北を喫した。これが15年戦争の本質であり、不動の歴史的事実だ。
 しかし、そもそも戦時中から国内では日本軍が都市を「陥落」させ、日の丸を掲げて万歳三唱するような場面だけが報じられ、日本人の多くは侵略の実態を知らなかった。さらに敗戦後、日帝は膨大な量の証拠を焼却して戦争犯罪の事実を消そうとした。
 それをいいことに、極右・排外主義者らは日本の戦争責任を認めず、恥知らずにも南京大虐殺すら「なかった」などと主張してきた。何より政府がこうした歴史偽造キャンペーンを主導し、愛国主義をあおり立てている。すべては新たな侵略戦争のためだ。

21カ条要求への抵抗運動を弾圧

 日露戦争に勝利した日帝は1905年、関東州と呼ばれていた中国・遼東半島を租借地とした。06年には国策会社「南満州鉄道(満鉄)株式会社」を設立し、侵略の足がかりとした。そして10年に「日韓併合」を強行して朝鮮半島を植民地化すると、中国東北部の分離支配へ動き出した。
 第1次世界大戦に乗じて中国・山東半島の青島の租借権をドイツから奪うと、15年には中華民国に21カ条の要求を突きつけた。これは山東省におけるドイツ権益の一切を日本に譲渡し、「満蒙」(中国東北部とモンゴル)の鉱山採掘権や鉄道敷設権を認めることなどを求めるものだった。
 何より、日本人を中国政府の「顧問」として政治・経済・軍事の実権を握らせること、警察官にも日本人を採用することなどの要求が中国人民の怒りに火をつけた。日帝は朝鮮を植民地化する過程でやったのと同じことを中国に対しても突きつけ、自らの支配下に置こうとしたのだ。
 これに対する抵抗運動の高まりの中で、日帝は「日本人居留民の生命と財産を守るため」として出兵を繰り返し、ついには31年の柳条湖事件をもって本格的な侵略にかじを切った。

侵略の実態隠す「満州事変」の語

 関東州や満鉄線の保護を名目に設置された陸軍守備隊は19年に「関東軍」として再編された。この関東軍の参謀は、侵略戦争の口実をつくるために数々の謀略を計画・実行した。
 28年には奉天(現・瀋陽)で満鉄線を爆破し、軍閥の指導者・張作霖(ちょうさくりん)を殺害。そして31年9月18日、奉天近くの柳条湖で満鉄線を爆破し、これを張作霖の息子・張学良の仕業とでっち上げて軍事行動を開始した。ここには植民地とされていた朝鮮軍の師団も合流した。
 以降、関東軍は4カ月で中国東北部の主要都市と鉄道を占領。翌年1月に昭和天皇ヒロヒトが「勅語」を発してこれを称賛すると、日帝の国策として満州侵略に乗り出していった。政府は巨額の臨時軍事費を計上し陸軍は大軍拡を進めた。内実は一方的な侵略戦争だったにもかかわらず、日帝は柳条湖事件に始まる過程を意図的に「満州事変」と呼んだ。「事変」とは「突発的な騒動」という程度の意味だ。卑劣にも戦時国際法をかいくぐるために「戦争」の語を避けたのだ。

かいらい国家でっち上げ

抵抗する人民を「テロリスト」と

 32年3月1日、日帝は中国東北部を中国から分断し、清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)を執政(元首)に据えて「満州国」をでっち上げた。「満日蒙漢朝の5民族」の協力をうたう「五族協和」などのスローガンが大義として掲げられたが、その実態は関東軍が全権を掌握する日帝のかいらい国家であり、日帝が資源を奪い市場を独占するための機構に他ならなかった。
 日本軍は住民から武力で土地を奪い、生きる糧を奪い、命を奪った。各地で民衆が抵抗闘争を展開したが、これに対しては「匪賊(ひぞく=テロリスト)」のレッテルを貼り、徹底的な殲滅(せんめつ)戦を行った。35年には華北へ侵略を拡大し、37年7月7日の盧溝橋事件以後、中国全土への侵略戦争に突入した。
 とりわけ中国北部においては「治安戦」を掲げ、抗日ゲリラ地区とみなした地域での住民虐殺を「治安維持」として正当化。中国の人民は日本軍の掃討作戦を「焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くす」という意味で「三光作戦」と呼び、怒りと憎しみの的とした。
 また、山西省などで住民の女性を建物に監禁して「慰安婦」とし、蹂躙(じゅうりん)したことも絶対に許されない犯罪行為だ。

住民から土地や食糧、資源強奪

 そもそも日本軍には食糧の補給計画すらなく、「現地調達」と称して住民から略奪することが前提とされていた。そしてアジア・太平洋戦争が始まると中国を「総兵站(へいたん)基地」と位置づけ、食糧に加えて資源を戦争遂行のために強奪。さらには村落を襲撃して成人男性を連行し、日本などでの強制労働に従事させた。
 また、国策として「満蒙開拓団」が組織され、全国から約30万人が入植した。しかし、その実態は「開拓」などではなく、軍人が住民から土地を奪い一般人を送り込む政策だった。日本軍は農業移民を侵略の手先として利用したあげく、敗戦間際にソ連軍が侵攻してくると幼児を含む住民を置き去りにして逃亡した。

国際連帯かけ日帝打倒を

戦後労働運動の原点は戦争反対

 「二度と戦争を繰り返してはならない」----。これこそが戦後の日本労働運動の出発点だ。支配階級が自らの利益のために始めた侵略戦争は数千万人のアジア人民の命を奪い、日本人も労働者民衆をはじめ310万人が命を落とした。
 しかし、「大元帥」として戦争を指揮した天皇ヒロヒトは処刑を免れ、天皇制は維持された。これへの怒りは戦後革命期における労働者民衆の大闘争の原動力となった。また、1960〜70年代のベトナム反戦闘争・安保沖縄闘争・入管闘争の高揚は日本労働者階級が日帝による侵略と加害の歴史をとらえ返す契機となった。

差別と排外主義打ち砕く団結を

 中国侵略に至る過程で見落としてはならないのは、中国の人々に対する徹底的な差別・蔑視があおられたことだ。政府自らが公式文書で、辛亥革命によって建国された中華民国の名ではなく軽蔑を込めた「支那」という呼称をあえて使い、「中国人は日本人より劣っており、その命は取るに足らないものだ」とキャンぺーンしたのだ。朝鮮人に対しても同様だった。これはユダヤ人を大量虐殺したナチスのヒトラーと同じ手口だ。何より、政府が率先して中国や韓国、北朝鮮をたたき、ヘイトスピーチをあおる現在の状況と重なる。
 労働者階級の敵は一つだ。侵略の歴史をはっきりと見据え、中国への新たな戦争を狙う日帝を打倒しよう。それこそが中国の労働者民衆と連帯する道だ。改憲・戦争攻撃と真っ向から闘う階級的労働運動をあらゆる職場に復権させよう。

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日帝の中国侵略関連年表
1894~95年 日清戦争、台湾を植民地化
1900年 日本が義和団蜂起鎮圧のため中国に出兵
04~05年 日露戦争
06年11月 南満州鉄道株式会社設立
10年8月 日本が朝鮮を植民地化
12年2月 辛亥革命で清朝が崩壊
14年8月 第1次世界大戦勃発
15年1月 日本が中国に21カ条要求
17年11月 ロシア十月革命
19年5月 中国全土で五四抗日運動
25年5月 5・30上海ゼネスト
27~29年 日本軍が山東出兵
28年6月 関東軍が張作霖を爆殺
31年9月 柳条湖事件
32年1月 天皇が関東軍支持の勅語
  2月 関東軍が満州全土を占領
  3月 「満州国」建国宣言
  9月 日満議定書調印
33年3月 日本が国際連盟を脱退
37年7月 盧溝橋事件
  12月 南京大虐殺
39年9月 第2次世界大戦勃発
41年12月 アジア・太平洋戦争開戦
45年8月9日 ソ連が対日参戦
  8月14日 日帝が無条件降伏

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