葉山岳夫同志を追悼する 法廷を国家権力との死闘の場に変えて闘いぬいた生涯 革命的共産主義者同盟

週刊『前進』04頁(3288号04面02)(2023/04/03)


葉山岳夫同志を追悼する
 法廷を国家権力との死闘の場に変えて闘いぬいた生涯
 革命的共産主義者同盟

(写真 1月8日の三里塚旗開きで星野同志の碑の傍らに立つ葉山同志)

 弁護士の葉山岳夫同志が3月10日朝、逝去した。満86歳だった。葉山同志が生涯をかけて闘ってきた三里塚闘争、国鉄闘争が最大の決戦局面を迎え、これから勝利へ向かって進もうという矢先に同志を失ったことは、残念でならない。
 葉山同志は三里塚芝山連合空港反対同盟の顧問弁護団事務局長として、また動労千葉の顧問弁護団長として、長年にわたって重責を一手に引き受けて闘いぬいてきた。また60年安保闘争を全学連のリーダーとして闘ったのち、67年に弁護士となって以来、労働者・学生に対する日帝国家権力のあらゆる弾圧との闘いの先頭に立ち、2005年からは救援連絡センターの代表弁護士も務めてきた。国家権力と絶対非和解で闘う労働者や農民を権力の不当な弾圧から守り、その闘いの前進をともにかちとることを自らの使命として揺らぐことなく貫き通したその姿勢は、多くの弁護士をはじめ闘う人民からの圧倒的な敬意と信頼を集めてきた。
 葉山同志の弁護士活動を支えた根底にあったのは、日帝権力の理不尽な弾圧への激しい怒りとともに、資本主義・帝国主義そのものの打倒、全社会の根底的変革をめざして闘うという革命家魂だった。革共同にかけられた1969年破防法弾圧の初公判で冒頭、故本多延嘉革共同書記長は「われわれは階級闘争の犠牲者として法廷にやってきたのではない。日本帝国主義への告発者、闘争者、革命家としてやってきたのだ」と宣言したが、葉山同志はまさにこの精神を、すべての裁判闘争において弁護士の立場から貫き通した。
 70年安保・沖縄闘争とそれを引き継ぐ三里塚闘争、国鉄闘争は、日帝国家権力と労働者階級人民との互いに倒すか倒されるかの、生き死にのかかった階級決戦としてあった。日帝の側は闘争圧殺のために警察・機動隊や民間反革命勢力を総動員し、でっち上げ弾圧も駆使したむきだしの暴力で襲いかかった。ブルジョア法をも平然と踏みにじって行われたこの暴挙は、司法権力をもその手先にして仕掛けられた。これに対して一歩も退かず、法廷をも権力との死闘の場に変えて徹底抗戦しぬく先頭に立ったのが葉山同志だった。
 葉山同志にとって裁判闘争は単なる「犠牲者救援」のための闘いにとどまるものではなかった。国家権力の無法と犯罪性を徹底的に暴き断罪し、闘いの正義性を全社会に明らかにしていく戦場だった。そしてそれが敵権力をさらに土壇場に追いつめ、司法反動をも打ち破って個々の弾圧をも実質的に粉砕し、闘争全体の勝利を切り開いていく力となった。権力が反対同盟つぶしに総力をあげた重刑攻撃を最終的に粉砕した三里塚・東峰十字路裁判や、完黙・非転向の裁判方針を貫いて闘い、暴力行為等処罰法の適用を完全粉砕し職場復帰の勝利をもかちとった国労5・27臨大闘争弾圧裁判は、その典型例である。
 60年安保闘争を先頭で闘い、安保ブントを経て革共同に結集した葉山同志の革命家としての闘魂は、彼の全活動の中に最後まで貫かれてきた。革共同は、帝国主義国家権力との闘いに生涯を捧げた同志の遺志を受け継ぎ、必ず革命に勝利することを誓います。

■葉山岳夫同志略歴

 1936年神奈川県の農家に生まれる。56年東大入学、砂川基地拡張反対闘争に参加し負傷、逮捕。58年東大法学部自治会委員長。59年11・27国会突入闘争後東大構内での籠城闘争を闘い、60年安保闘争の先頭に立つ。
 63年司法試験合格。67年弁護士となり、直ちに三里塚反対同盟顧問弁護団の結成に参加。事務局長を引き受け、その後のあらゆる法廷闘争の先頭に立った。
 さらに67年10・8羽田闘争裁判、69年4・28破防法裁判や東大闘争裁判をはじめとして、国家権力との大激突となった裁判闘争を進んで担い、闘った。74年には反革命カクマルによる破防法弁護団会議への襲撃で重傷を負ったが、一歩もひるまず闘いを継続した。
 75年、富山裁判の主任弁護人に。「目撃証言」でっち上げを粉砕し一審無罪判決をかちとる。
 79年、動労千葉の分離独立に伴い顧問弁護団長に就任。以後、国鉄分割・民営化と闘う動労千葉を支え、1047名解雇撤回闘争解体攻撃に抗して国鉄闘争継続の先頭に立つ。
 2005年、救援連絡センター代表弁護士に就任。
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