被爆2世の訴え ヒロシマを踏みにじるな 岸田の反核闘争つぶし許さぬ 反戦被爆者の会 中島健さん

週刊『前進』02頁(3293号01面02)(2023/05/08)


被爆2世の訴え
 ヒロシマを踏みにじるな
 岸田の反核闘争つぶし許さぬ
 反戦被爆者の会 中島健さん


 G7広島サミットはまごうことなき戦争会議です。日本のウクライナ参戦を決め、その上、日本が主導して中国に対する侵略戦争をG7の共同のテーマにするために開催されるものです。この間、駐日米大使のエマニュエルが、G7は「強固な核抑止が必要と再確認する場」だと主張し、G7外相会合では核廃絶は永遠のかなたの話にされてしまいました。「広島サミットは核廃絶を誓う平和の祭典である」といった「オール広島」の数カ月にわたる大キャンペーンは、それを覆い隠すためのデマに他なりません。
 何よりもそのことを示すものが、G7に異議を唱えるなら一切の集会もデモも禁止するという警視庁と広島県警による戒厳令ともいうべき弾圧です。反戦被爆者の会・全国被爆者青年同盟と共に、「G7は被爆者の眠るヒロシマで戦争会議をするな」と抗議に立ち上がりましょう。戦争会議を許すことは、再び広島を「軍都・廣島」に引き戻すことです。「ヒロシマ・ナガサキを繰り返すな」の誓いを今こそ行動で示す時です。
 廣島・宇品は1894年の日清戦争時に大本営が設置され、明治天皇が戦争指導した街です。臨時国会まで開かれ、その直前には日本初の戒厳令が敷かれて一切の異論が押しつぶされ、挙国一致がつくられました。広島への原爆投下はここから始まっています。だからこそ、戦後の広島では被爆労働者が立ち上がり「戦争反対!核兵器反対!」を訴え、1950年の朝鮮戦争下で迎えた「8・6」に際しては連合国軍総司令部(GHQ)の弾圧をうち破って反戦集会とデモをやり抜きました。それは、アメリカによる朝鮮半島での核兵器使用を阻止した根源的力であり、以後の日本労働運動と反戦運動との一体性を方向づけました。
 1971年4月の天皇ヒロヒトの広島訪問に対しては、首相の異議申し立てによってデモが禁止される中、400人のデモ隊が広大正門前で機動隊と激突し、戦犯天皇への怒りを表明しました。さらにこの闘いは、同年8月6日の佐藤栄作首相の広島訪問=被爆者抹殺政策・英霊化攻撃への実力抗議闘争へと爆発的に発展し、日本の階級闘争を揺るがす11月の沖縄返還協定批准阻止闘争の大高揚を決定づけました。
 私たち被爆者・2世・3世は、再び日本を戦争国家にするために岸田がヒロシマを語ることを許さない。どのような戒厳令的弾圧があろうとも、それを必ず食い破って闘いぬき、戦争する自国政府を打倒してこそ、世界の労働者と団結し、文字通り国境も戦争もない世界を手にすることができると確信しています。5月19日、原爆ドーム前に結集し共に闘いましょう!
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