労働者の国際連帯で岸田打倒へ 関東大震災朝鮮人・中国人虐殺100年 9・1反戦デモを闘おう

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週刊『前進』04頁(3307号03面01)(2023/08/21)


労働者の国際連帯で岸田打倒へ
 関東大震災朝鮮人・中国人虐殺100年
 9・1反戦デモを闘おう

(写真 都立横網町公園の追悼碑の前で開催された9・1朝鮮人犠牲者追悼式典【2021年9月1日 東京・墨田区】)

(写真 童画家・河目悌二が描いたと思われる「朝鮮人虐殺の図」【高麗博物館発行パンフレットより】)

誰が「朝鮮人暴動」の流言を流し戒厳令下の虐殺を強行したのか

 ウクライナ戦争が泥沼化する中、自民党副総裁・麻生太郎が台湾に乗り込み、台湾防衛のために「戦う覚悟」を公言した。これは麻生個人の暴言ではなく、岸田政権の中国侵略戦争突入宣言そのものだ。
 この世界戦争下、関東大震災時に強行された朝鮮人・中国人虐殺から100年を迎える。日本帝国主義の侵略戦争と植民地支配が引き起こした虐殺は、今に至るも真相究明がなされず、名前もわからぬまま膨大な遺骨が関東一円に眠っている。この歴史を直視し、戦争を絶対に止めるために闘おう。
 1923年9月1日、マグニチュード7・9の大地震が関東一帯を襲った。東京、横浜周辺は夜明けから豪雨だったという。雨が上がり、暑さが蒸し返した午前11時58分、大地震は起こった。折からの強風にあおられた火災が猛威を振るい、延焼は3日朝まで続いた。東京市の44%、横浜市の80%が焼失、被災者は約340万人、死者は約10万5千人に上った。
 この大災害の渦中、「朝鮮人が暴動を起こしている」「井戸に毒を入れた」などの流言が各地に広がり、なんと6千人を超える朝鮮人、800人もの中国人が虐殺された。
 「たしか三日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍(やり)で突いたり、鉄の棒で突きさしたりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました」----当時かぞえで15歳だった少年の目撃談だ(ほうせんか編著『風よ鳳仙花の歌をはこべ』48㌻)。
 しかしなぜ、ここまで残虐な殺しが、被災直後に各地で強行されたのか。「朝鮮人暴動」の流言を流したのは誰か。誰が「朝鮮人暴動」を恐れ、虐殺を図ったのか、真相に迫りたい。
 8月28日に首相・加藤友三郎が死去、内閣は総辞職。9月1日時点で、後継・山本権兵衛内閣は成立しておらず、前任内閣の内務大臣・水野練太郎、警視総監・赤池濃、内務省警保局長・後藤文夫が大震災後の治安管理を主導した。水野は3・1独立運動後の朝鮮総督府の政務総監であり、赤池は総督府警務局長として共に朝鮮人民の激しい抗日闘争に震え上がった体験者だ。赤池は9月2日、朝鮮人暴動の流言に接したとして「余は其瞬間に一部不逞(ふてい)鮮人は必ず不穏計画や暴挙を行うだろう」と思ったと回想している。「不逞鮮人」は朝鮮人への蔑称。「不逞」には「不平を抱き、反逆をたくらむ人」の意味合いがある。
 1日午後1時10分、陸軍近衛第一師団が東京の非常警備に出動、赤池警視総監も午後4時半、出兵要請。午後3時ころ、警視庁の記録では、朝鮮人・社会主義者による「放火多し」の流言が初出している。震災直後の「富士山大噴火」などの流言に比べ、朝鮮人・社会主義者を名指しした流言は、戒厳令発布を背景とし「権力が自ら放ち、教唆し、絶対化して再賦与した関係が成立」(姜徳相著『関東大震災』)したのだ。
 そして夜半から墨田区四ツ木橋などで朝鮮人虐殺が始まる。2日午後から夕、東京市と隣接5郡に戒厳令を一部施行、武器使用も認める。午後5時、警視庁が各署へ「不逞者取締」を厳に行うよう命じる。後藤警保局長が、各地方局長に「朝鮮人が不逞の目的を遂行しようと放火等している。すでに東京府下には一部戒厳令施行、各地も朝鮮人の行動に取締を」の電文を、海軍船橋無線送信所へ伝令に持たせる(打電は3日)。
 出動した軍を「歓呼の声」で迎えた、各地で結成された自警団、さらに在郷軍人(日清・日露戦争などを体験し退役した軍人。戦時の動員に即応できるように全国組織として帝国在郷軍人会が発足した)らによって戦場さながらの朝鮮人虐殺が実行された。
 この虐殺について、山田朗明治大学教授は「戦争が生んだ植民地支配、その植民地における暴力的支配が国内に持ち込まれた」結果だと指摘している。まさに朝鮮植民地支配を継続する日帝中枢の国家意志として強行されたのが、震災下の朝鮮人虐殺なのだ。

中国人労働者が集団虐殺された

 9月3日から4日にかけて東京府南葛飾郡大島町(現・江東区)周辺で地域に集住していた中国人労働者400人以上が殺された。第1次大戦後の恐慌で中小企業の倒産が相次ぎ、失業者が激増。その苦境の中、中国人たちが22年9月に設立した「僑日共済会」は、労働者の生活と権利擁護、さらに社会主義運動の拠点になっていた。
 戒厳令で出動した軍のもと、共済会と中国人労働者せん滅計画が実行された。3日朝、警察と在郷軍人が中国人の宿舎をまわり、「安全な場所に誘導するから、所持金を身に着けて待機する」ように命じた上、時間・地域を分けて広場に集めて虐殺したのだ。その現場が、現在の江東区東大島文化センター前の駐車場だ。共済会委員長だった王希天(ワンシーティエン、27歳)も旧中川の逆井橋で軍に惨殺された。
 3日夜、南葛労働会の川合義虎ら10人が検挙され、亀戸警察署で虐殺される。朝鮮人虐殺の惨状が海外メディアに知られるところとなり、「不逞鮮人の背後に社会主義者やロシアの過激派」という流言を創作して乗り切りを図ったのである。この時検挙された朴烈と金子文子は「大逆事件」をでっち上げられた(25年)。

日帝は台湾・朝鮮を植民地とし中国侵略戦争へ動き出していた

 関東大震災は、日帝が朝鮮半島を足がかりとして中国への侵略戦争に乗り出していく過程で発生した。日帝は1894~95年の日清戦争により台湾を植民地とし、1904~05年の日露戦争では朝鮮・中国へと出兵してロシアと戦った。
 そして1910年、日帝は韓国の植民地化=「韓国併合」を強行。全権を握る朝鮮総督府を新設し、陸軍大臣・寺内正毅が天皇直属の初代総督に就任した。以後、朝鮮での土地調査事業や産米増殖計画などで朝鮮の人々の土地も食料も文化も奪い、憲兵と警察とが一体となった徹底的な暴力支配を行った。これにより多くの人々が生きるために日本に渡ってきた。
 同年に日帝がでっち上げた幸徳秋水らの「大逆事件」は、こうした戦争と侵略・植民地支配に異を唱える人々への見せしめとして行われた社会主義者への大弾圧だった。

17年ロシア革命がアジアに波及

 その後、第1次世界大戦のただ中で1917年ロシア革命が起こった。世界初の共産主義革命の勝利は新たな時代の到来を全世界に告げ知らせた。日本国内での労働争議も激発する中、朝鮮半島、南サハリンと地続きの地で起こったロシア革命に大打撃を受けたのが日帝だった。1918年から22年までのシベリア出兵(ロシア革命への干渉戦争)に際しては「帝国自衛」や「居留民保護」が叫ばれ、最大時で7万人を超える日本兵がシベリアに送り込まれた。日本軍は、朝鮮半島と接する沿海州で抗日運動を闘っていた朝鮮人パルチザンを標的とし、「治安維持戦」と称して村落を焼き討ちした。
 一方で、シベリア出兵に伴うコメ価格の高騰を契機とする米騒動は全国へと広がり、1カ月半にわたって暴動が爆発。内閣を総辞職に追い込む大闘争となった。鎮圧のため動員された軍隊は9万人以上に及ぶ。
 そして1919年3月1日、京城(現ソウル)の学生たちを先頭に朝鮮独立を求める3・1独立運動が火を噴き、3カ月にわたり朝鮮半島全土で闘われた。これに先立つ2月8日、東京で朝鮮人留学生らが独立宣言を発した。ロシア革命直後の東京は、多くの朝鮮人・中国人留学生らが学び政治活動を行う拠点となっていた。日帝はすぐさま軍隊を差し向け、残忍に弾圧した。朝鮮半島以外のサハリンや間島を含め、7500人に上る朝鮮人が虐殺されたとも言われる。同年には中国で5・4運動が闘われ、日本帝国主義を打ち倒すことこそが朝鮮・中国、そして日本の労働者階級の最大の任務となっていた。

民族解放闘争を恐れ〝血の弾圧〟

 関東大震災時に戒厳令の発令を主導することになる水野、赤池らは、こうした血の弾圧の後に朝鮮に乗り込み、日帝に刃向かう朝鮮人民の闘いに恐怖し、憎しみを募らせた。それが関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺に直結した。
 民族解放闘争の爆発に震え上がった日帝は、天皇のもとでの支配に屈しない人々を「内なる敵」=内乱の主体と規定し、徹底的な弾圧を加えた。最大の焦点はロシア革命の勝利に続こうと立ち上がる日本人労働者と朝鮮人労働者を分断し、対立させることで革命へのうねりを抑え込むことにあった。何より、最大の団結破壊である戦争は一切の攻撃の基盤をなした。
 3・1以来、日本の植民地支配を揺るがす朝鮮人を意味する「不逞鮮人」という語が官憲やメディアによって急速に垂れ流され、民衆の差別意識と恐怖をあおりたてた。21年には警視庁が特別高等警察(特高)課に「内鮮高等係」を設置。「要視察人」の名簿を作成し、日常生活や集会発言などを徹底的に監視した。

日朝中労働者は団結求め闘った

 大震災の直前の1920年代、ロシア革命を契機として日本人労働者と朝鮮人労働者との結合は確実に進んでいた。22年初頭にモスクワで開かれた極東勤労者大会には日本の労働組合や朝鮮人団体が多数参加し、共に「日本の労働者階級は、中国と朝鮮の労働者に、兄弟のように手を伸ばしている。日本の労働者階級は極東人民の解放のための全体的な革命的団結のうちに、その正しい場を占める」と宣言している。同年のメーデーでは約30人の朝鮮人労働者が初めて参加。東京では「植民地解放」がテーマとなり、大阪でも「日鮮労働者団結せよ」のスローガンが掲げられた。7月には日本共産党が非合法に創立されている。
 亀戸事件で虐殺された川合義虎は「朝鮮植民地の絶対解放」を訴え、朝鮮人活動家の金鐘範は、朝鮮の解放は、朝鮮人だけでなく日本の無産階級の使命でもあり、逆もまた然りだと訴えた。「帝都・東京」における日朝労働者の団結の深化と広がりは、日帝中枢を恐怖にたたきこんだ。
 しかし、当時の日本労働者階級が乗り越えられなかった課題は決して小さくない。朝鮮人の多くは鉱山やダム、道路工事などの過酷な現場で働くしかなかったが、賃金は日本人の半分ほどにとどまり、住居や食事に至るまで徹底的に差別されていた。にもかかわらず日本人労働者の多くは朝鮮人労働者を、悪らつな資本家に対して共に闘う仲間としてとらえることができなかった。むしろ戦後恐慌下で「限られた職を朝鮮人に奪われる」という恐怖感を植え付けられてもいたために、日本各地で朝鮮人労働者への虐待・虐殺事件が横行したのだ。中国人労働者に対する敵意も同様にあおられていた。何よりも求められていたものは、支配階級による日朝中労働者の分断・対立を許さない労働組合の闘いと、その指導に責任を取る革命党の建設だった。これは現在も変わらないテーマだ。
 関東大震災後、日帝は治安維持法の制定(25年)、張作霖爆殺事件(28年)を経て、31年の柳条湖事件(満州事変)をもって始まる15年戦争へと突進していく。国家総力戦体制構築に向けた決定的な転機をなしたものこそ関東大震災後の戒厳令発令と朝鮮人・中国人虐殺、それを通した日本労働者階級の階級意識解体=権力の側への取り込みだった。日本軍が15年戦争でアジアの民衆に対して行った虐殺と人権蹂躙(じゅうりん)の原型はここで示されていた。

侵略戦争に踏み込んだ岸田政権 労働者は今こそ〝侵略を内乱へ〟

 震災直後、両国の被服廠(しょう)跡の空き地に布団や家財道具を運び込んで避難していた人々が火災旋風に飲み込まれ、3万8千人が犠牲になった。その地が現在、東京都慰霊堂が建つ墨田区横網町公園であり、ここに1973年に朝鮮人犠牲者追悼碑が建立された。
 翌74年から毎年9月1日に追悼式典が行われてきた。歴代の東京都知事が追悼文を寄せてきたが、小池百合子は就任の翌2017年から送付を拒否。これに呼応しレイシスト団体「そよ風」が追悼碑近くで「朝鮮人虐殺はなかった」などと叫んで追悼式典を妨害する事態が始まった。彼らが言う〈朝鮮人虐殺否定論〉とは、殺害はあったが「朝鮮人のテロ行為に対する自警団側の正当防衛による死者のみ」だから、「虐殺」などと非難することではないという許しがたい歴史の偽造だ。これこそ日帝の侵略戦争と植民地支配の歴史を居直り、新たな侵略戦争へ駆り立てる攻撃だ。
 反戦闘争を真正面から闘う階級的労働運動の課題として、100年前の歴史を見据え、乗り越え、朝鮮・中国をはじめとするアジア--全世界の労働者階級とともに帝国主義打倒の革命を完遂しよう。
 「朝鮮人・中国人虐殺を二度と繰り返さない!」「戦争絶対反対!」の9・1反戦デモに集まろう!

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関東大震災をめぐる近現代史関連年表
1875 江華島事件。日本が朝鮮に対し武力で開国   を迫る
1876 日朝修好条規(不平等条約)締結
1894 日清戦争。東学農民軍を弾圧(~95)
1895 閔妃殺害事件(乙未事変)
1909 日本政府が韓国併合を閣議決定。安重根、
   ハルピンで伊藤博文を射殺
1910 韓国併合。朝鮮総督府設置、土地調査事業
   の開始。日本で「大逆事件」でっちあげ
1914 第1次世界大戦(~18)
1917 ロシア革命
1918 シベリア出兵(~22)、米騒動
1919 3・1独立運動
1922 極東勤労者大会
1923 9・1関東大震災。発生から3時間後には
   警視庁が「社会主義者および朝鮮人の放火
   多し」と流言を飛ばす。翌2日には東京市
   と隣接5郡に戒厳令公布。3日には内務省
   警保局長が「朝鮮人が放火等している」と
   各地に電文。「自警団」が各地に結成、大
   虐殺が強行される。亀戸警察署内では軍が
   労働運動家ら10人を殺害し、東京憲兵隊本
   部では大杉栄らが殺害される
1925 治安維持法公布
1931 柳条湖事件(満州事変)
1937 盧溝橋事件、日中戦争開始。南京大虐殺
1939 第2次世界大戦始まる。「募集」形式で朝
   鮮人強制連行を開始
1940 「創氏改名」(名前の日本名への変更)実施
1942 官による朝鮮人労働者「募集」
1944 朝鮮人に対し国民徴用令による徴用開始
1945 日本無条件降伏=朝鮮解放
1948 大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国成立
1965 日韓条約締結
1973 墨田区横網町公園内に「関東大震災朝鮮人
   犠牲者追悼行事実行委員会」が追悼碑を建
   立。翌74年から追悼式典開催
1982 難民条約批准、入管法制定。在日朝鮮人か
   ら始まった指紋押捺拒否運動が高揚
2000 石原慎太郎都知事が、東京都総合防災訓練
   において「三国人」が震災時に騒動を起こ
   す、として自衛隊を参加させる
2012 朝鮮学校の高校無償化制度からの排除決定
2017 小池百合子都知事が9・1追悼式典への追
   悼文を拒否(以降、拒否を継続)。レイシ
   スト団体「そよ風」が追悼式典妨害を開始

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関東大震災朝鮮人・中国人虐殺100年
戦争と植民地支配が引き起こした虐殺
二度とくり返さないために戦争を絶対とめる!
9・1錦糸町→亀戸反戦デモ
 9月1日(金)
   午後6時 錦糸町駅南口でリレートーク
   午後7時 丸井ビル前からデモ出発
 主催 改憲 戦争阻止!大行進 東部、改憲 戦争阻止!大行進 東京

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