大坂同志「殺人罪」はでっち上げ 検察側立証は完全に破綻 無実は明白 即時解放せよ

週刊『前進』04頁(3308号03面01)(2023/08/28)


大坂同志「殺人罪」はでっち上げ
 検察側立証は完全に破綻
 無実は明白 即時解放せよ

(写真 大坂正明同志)








(写真 1971年11月14日午後3時19分、神山交番前で機動隊の阻止線に向かうデモ隊。大坂同志は写っていない【撮影者が星野再審弁護団に提供】)

 1971年11・14沖縄返還協定批准阻止闘争(渋谷暴動闘争)を闘い「殺人罪」をでっち上げられた大坂正明同志の裁判は、東京地裁刑事第4部(高橋康明裁判長) で、昨年10月の第1回から連続的な33回の公判を経て、10月に論告と最終弁論を迎えるに至った。この裁判を通して、大坂同志への検察側のでっち上げが完全に暴かれ、その破綻は明らかになった。

群馬の学生に供述強いる

 戦争のための基地強化を狙うペテン的な沖縄返還協定の批准を阻止するため、白ヘルの学生と青年労働者150人は、1971年11月14日午後3時過ぎ、小田急線代々木八幡駅に降り立った。国家権力は1万2千の機動隊で首都を厳戒態勢におき、集会・デモを禁止し、闘争圧殺を狙っていた。白ヘル部隊はこの攻撃を打ち破り、渋谷に集まっている多くの民衆と大合流して闘いを爆発させるために、大向通りを渋谷駅に向かって走った。デモ隊のリーダーは星野文昭同志だった。
 神山交番の前で新潟県警の機動隊27人が大盾を構え阻止線を張っていた。機動隊はデモ隊に向かってガス弾を撃ち込んできた。デモ隊はこれに一丸となって突っ込み、火炎びんを投げ、一瞬で阻止線を崩壊させた。機動隊員は路地に逃げ込んだ。最後までガス弾の水平撃ちをしていた機動隊員は逃げ遅れ、デモ隊から怒りの鉄槌(てっつい)を浴び、翌日死亡した。闘いは夜まで続き、313人が現行犯逮捕された。

権力が報復的なでっち上げ強行

 警視庁は直ちに特別捜査本部を設置した。当初「西部反戦が中心か」「北部地区反戦の中に襲った者がいる」「女性活動家3人が捜査線上に浮かぶ」などと報道し、反戦青年委員会の労働者20人を事後逮捕したが完全黙秘の闘いによってでっち上げできなかった。
 翌1972年になり、星野同志がリーダーであったことを突きとめた権力は、高崎経済大学の星野同志をでっち上げの標的とし、群馬の学生13人を次々逮捕した。警察・検察は毎日、朝から夜まで、凶暴な取り調べで恫喝を繰り返し、少年4人を含む6人の学生に「星野が機動隊を殴打した」といううその供述を強要した。ARに対しては父親を警視庁の地下取調室にひき入れ、父親にARを殴らせるという違法な暴挙まで働いた。

崩れた「大坂が殴打」供述

 権力は、同年9月の三里塚第2次代執行阻止闘争の時に、星野同志と共に先頭で闘っていた大坂同志も、星野と一体に違いないとしてでっち上げを画策し、6人に「大坂も星野と共に殴打した」という供述を強要した。しかし、大坂同志は千葉工業大学の学生であり、群馬の学生たちと全く面識はなかった。そこで、AR、AO、ITの3人には「12日に工学院大学へ行った時に見た学生」を大坂だと供述させ、OTには「15日に法政大学で行われた総括集会で発言した男」が大坂だと供述させた。KRとSBには「大坂が殴打した」という供述はさせられなかった。こんなふざけたでっち上げで、2月21日、星野同志と大坂同志は「殺人罪」で指名手配された。

客観的証拠なく大坂写真もない

 大坂同志が殴打したことを「証明」する客観的証拠は皆無だ。当日のデモ隊を撮影した写真は、隠し撮りしていた警察官の写真、マスコミのカメラマンが撮影した写真、民間目撃者が撮影した写真など各種多数あるが、大坂同志は全く写っていない。
●裁判で「大坂が殴打した」供述を明確に否定
 検察官の「証拠」は群馬の学生5人のでっち上げ「供述」だけであった。ところが大坂裁判で証言したAOとITは「大坂さんの殴打は見ていない」と明確に否定した。OTは病気で証言できず、SBは死亡しており、KRは証人にすらなっていない。こうして、大坂裁判で「大坂が機動隊を殴打した」というでっち上げ供述を維持したのはARただ一人である。
 しかも前述の通り、ARは取調検事・中津川彰によって取調室に呼ばれた父親に殴られ、その激しいショックで黙秘を解いて権力の誘導通りの供述をしたのだ。この事実は、AR本人と中津川も法廷で認めたことである。拷問的な取り調べは憲法第36条違反であり、そこで得られた供述は証拠とすることができない(同38条)。
●二転三転するデタラメなAR証言
 ARの供述内容はデタラメだ。そもそも証言内容が二転三転している上に、ARは「大坂は白い服を着ていた」という事実と違うことを言っている。「白い服」という供述はAR以外に誰もしていない。検察官も大坂同志の服の色を特定できない。大坂同志は被告人質問で「私は焦げ茶のブレザーだった。当時それ1着しかもっておらず、それしか着ていない。白い服は汚れがめだつので、私が着ることはない」と証言し、「白い服」供述を弾劾した。
 また、ARは「神山交番の所で、大坂が1人飛び出して走り、逃げ遅れた機動隊の頭を正面から殴りつけた」と事実無根なことを供述している。このような供述はAR以外に誰もしていない。逃げていった機動隊員の供述の中にすらない。検察側の立証は完全に破綻したのだ。

殴打現場にはいなかった

●「闘争現場で見ていない」と証言
 群馬の学生たちは大坂同志を知らない。一方、大坂同志のことをよく知る2人の証人が証言した。弁護側証人YY(工学院大学)と検察側証人IK(埼玉大学)だ。2人とも「闘争現場で大坂は見ていない」と明確に証言した。
 さらに、殴打現場を目撃した2人(杉並反戦ITさんと南部反戦HSさん)は、「殴打現場に大坂さんのような体格の人はいなかった」と鮮明に証言した。
●大坂同志は工学院へ行っていない。群馬の学生と面識はない
 群馬の学生は12日に新宿にある工学院大学へ旗ざお作りに行った。その時大坂同志と会ったと言っている。ところが、大坂同志は工学院大学へ行っていない。千葉の学生が東京三多摩全学連の拠点となっていた工学院大学へ、11・14大闘争の直前に行く理由も必要もないのだ。
 また、大坂同志は15日に法政大学へ行ったが、14日に足を負傷していたので、全学連の執行部にその旨を報告し、集会には出ないで帰ったのだ。大坂同志と群馬の学生との面識の場は、完全な作り話であることが公判を通じて全面的に明らかになった。
 大坂同志はどういう行動をしていたのか。被告人質問で、弁護人の主尋問と検察官の反対尋問に対して大坂同志は以下の事実を明らかにした。
 「1970年から三里塚闘争を闘い、特に71年の2〜3月、7月と9月は強制代執行との闘いで機動隊との激しい攻防だった。当時、星野さんが行動隊長だった。私は彼の下で伝令やデモ指揮をしていた。私は地元の学生で、数多く三里塚に行っているし、地理にも詳しいということで抜擢(ばってき)された」
 「(11・14当日は)代々木八幡駅を降りて走った。井ノ頭通りとの交差点にパトカーがいた。止まっていてわれわれを監視しているように見えた。パトカーに火炎びんが投げられた。私は4、5人の仲間と一緒にパトカーを追いかけた。パトカーが走り去ったので、デモ隊が進む道に戻り、追いつくために必死に走った」
 「神山交番の所でデモの最後尾に追いついた。阻止線を張っていた機動隊の姿は見ていない」
 「機動隊への殴打現場と言われている所に来た時、すでに30人から40人くらいの人がいて、人垣の隙間から路上に倒れている機動隊員が見えた。私は殴打していない」
 大坂同志が無実であることは、このように鮮明になった。

反戦闘争爆発で大坂同志奪還へ

 大坂同志は、国家権力の凶暴な弾圧と52年にわたり不屈に闘い続け、「革命を必ずなしとげる非転向の党」「戦時に国家権力と闘って勝利する党」を身をもって示している。大坂同志と団結して、国家権力のでっち上げ弾圧を絶対に打ち破ろう。反戦闘争と結合した闘いとして、反弾圧闘争・大坂同志奪還闘争を広大に巻き起こし、大坂同志を必ず奪還しよう。

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11・14渋谷暴動闘争は正義

 大坂裁判で決定的に明らかになったことは、大坂同志が闘った1971年11・14渋谷暴動闘争の圧倒的正義性だ。
 当時、沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)の上京団の一員として沖縄返還協定批准に反対して闘った平良長政(たいら・ちょうせい)さんは、弁護側証人に立ち、11・14渋谷闘争が「沖縄県民の平和への血叫びに応えるものであり、沖縄県民として心強いものだった」と証言した。
 平良証人は、日本軍による集団自決強要や住民虐殺の実態を暴露し、「軍隊は民衆を守らない」「戦争絶対反対」と、沖縄民衆の思いを述べた。本土の捨て石とされた沖縄戦への怒り、天皇メッセージにより戦後アメリカに売り渡されたことへの怒り、過酷な米軍支配に対する怒り、戦争への怒り。71年の闘いに向かう民衆の歴史が法廷で語られた。そして平良証人は「即時無条件全面返還」という沖縄民衆の願いを踏みにじる返還協定を阻止すべく、沖縄では2度のゼネストが爆発したこと、11・14渋谷暴動闘争はこれに応えるものであったと証言した。
 検察官の反対尋問に対しても、「沖縄でも火炎びん闘争など当たり前だった」「沖縄を無視する政府の姿勢こそ卑劣」と言い切った。「沖縄を孤立させず、ともに闘ってくれた若い人たちに、本当にありがたいと思っている」と語った。
 沖縄県民の米軍政支配に対する怒り、本土復帰の要求を逆手にとって、「基地の島」沖縄の現実の永久化のために日帝は沖縄返還政策を推進し、「返還協定」の11月批准をもくろんだ。国家権力は、全学連に対する破壊活動防止法(破防法)の適用を始め、戒厳令的な弾圧態勢を敷き、闘いを封じ込めようとした。全学連、反戦青年委員会は渋谷で機動隊の弾圧を蹴破って闘い抜いた。
 大坂同志は、被告人質問で確信を込めてこのことを明らかにした。
 「沖縄県民の平和への願いを踏みにじり、核と米軍基地をそのままに、自衛隊基地まで増強するペテン的返還だった。2度のゼネストやコザ暴動など沖縄の巨大な闘いに本土の人民として応えなければならないと思った。暴動は抑圧された民衆の怒りの爆発である」
 その闘いの正義性は、何よりも今日の沖縄の状況、日本帝国主義の中国侵略戦争への大軍拡の動きを見れば明白だ。返還協定と72年5・15返還以後半世紀、沖縄の米軍基地はますます強化され、新基地建設が進み、さらに南西諸島への自衛隊配備が強行されている。まさに第2の沖縄戦の道ではないか。こういう攻撃を阻止するために渋谷闘争は闘われたのだ。
 今日、中国侵略戦争への攻撃の中で、労働者人民の反戦闘争を圧殺するためにこそ、国家権力は大坂同志への理不尽なでっち上げ殺人罪の攻撃を押し通そうとしているのだ。大坂裁判闘争は、再び戦争への道を許すのか否かのかかった、負けられない闘いである。

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無実の大坂正明さんを保釈しろ!
8・29東京地裁申し入れ行動
 8月29日(火)正午   裁判所前街宣
        午後1時 申し入れ行動
 主催 大坂正明さん救援会

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