団結ひろば 投稿コーナー

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週刊『前進』04頁(3315号04面04)(2023/10/16)


団結ひろば 投稿コーナー

新小岩反戦デモに熱い反応
 改憲・戦争阻止!大行進東部 小泉義秀

 10月7日、大行進東部主催の新小岩デモが行われた。事前に新小岩駅周辺からデモコース一帯に5千枚のビラを配布。商店街も圧倒的に好意的で、いつになく注目を集めるデモになった。5、6日、当日と新小岩南口で事前に行った街宣へも様々な反応があり、多くの署名が集まり、11・19集会のチケットが何枚も売れ、参加表明があった。
 デモ前のリレーアピールが始まると参加者は100人を超え、さらに広場の横を通る女性や青年が立ち止まって合流し、「そうだ」「その通り」と声をかけてきた。写真を撮る人も多い。ここでもチケットが売れる。大行進東部の女性の司会で、基調報告は青年が行った。地元葛飾の労組の仲間、東部労組交流センターの仲間、交通労働者が続き、大行進杉並からかけつけた青年、そして全学連の仲間が発言してデモに向かった。
 前日、当日の街宣で出会った女性たちがそのままデモに参加し、11・19集会にも参加する意思表明をしている。飲み屋の中から手を振る人や、外へ出てきてビラを受け取り、「やっぱり岸田打倒だよな」「一緒に倒そう」と声をかける人など、デモのスタートからにぎやかな反応だ。部活帰りの高校生も手を振ってデモコールに反応してくれた。当日は全国労働組合交流センターの全国運営委員会の後でもあったので、全国から会議に来ていた仲間も参加してくれた。さらに10・21闘争から11・19集会へ攻め上ろう。

侵略戦争許さぬと埼玉デモ
 埼玉労組交流センター H

 9月18日、「ウクライナ戦争を今すぐやめろ!」「汚染水を海に流すな!」「中国への戦争反対!」「労働者・市民の力で戦争をとめよう!」を掲げ、さいたま市で反戦デモを闘い抜きました。この日は柳条湖事件から92年目。帝国主義の対ロシア戦争であるウクライナ戦争が世界戦争へと泥沼化・拡大する中、10代から80代まで40人の仲間が集まり、侵略戦争の歴史を絶対に繰り返さないと誓う行動となりました。
 街頭宣伝を始めるや、ビラまきを妨害する人が現れる一方で積極的に受け取る人も多く、励ましの声も寄せられ、私たちの登場が戦時下に分岐をつくり出していると実感しました。
 約1時間のアピールの後、デモに出発。圧倒的注目を受けながら意気軒高と行進しました。出発から解散までデモと一緒に歩道を歩き、解散地近くでは手を振ってくれた高校生も!
 交流集会では連帯あいさつと実行委員会からの問題提起の後、動労千葉の中村仁副委員長が「国鉄分割・民営化にストライキで反対し解雇された40名の原職復帰を絶対にかちとる。11・19集会の大結集で戦争を止めよう」と力強くアピール。さらに長崎被爆者、沖縄・与那国島の報告、自治体・教育労働者など、今こそ戦争絶対反対の闘いをつくり出す決意が次々と語られました。最後にさいたまユニオンが「退路を断って戦争に反対しよう! すべてを11・19大結集へ!」と締めくくりました。

芸備線廃線反対で申し入れ
 動労西日本 奥村毅

 動労西日本は9月21日、JR西日本中国統括本部(中統)と広島支社に対し、芸備線廃線化のための再構築協議会設置に反対する申し入れを行いました。その後、組合員を先頭に広島・岡山、関西から結集した仲間30人余りが、戦争反対・芸備線廃線絶対反対の広島駅周辺を一周するデモ行進を打ち抜きました。
 この闘いは、JR西との団体交渉での回答が、芸備線廃止に関して何一つ会社の見解を組合に伝えない全く不誠実なものであったことを弾劾して闘われました。また、会社が「赤字線区」芸備線の廃線化をもくろんで、10月3日にも再構築協議会の設置を国交省に要請しようとしていたことに対する先制的な反撃として取り組まれました。
 そして何よりも、この社前闘争は世界戦争の様相を呈しているウクライナ戦争への岸田政権の参戦化に対して、「絶対反対! 岸田を倒せ!」と訴え、怒りをたたきつける行動でした。
 社前の集会では、関西や地元・広島の自治体労働者から、ともに闘う熱烈なエールがありました。
 本社・窓口は「広島では申入書は受け取らない」と強硬な態度でしたが、原田隆司委員長を先頭に、断固として広島現地での闘いを打ち抜く決意を突きつけて、中統の幹部に受け取らせました。大勝利です。
 にわか雨が降る中を意気軒高とデモ行進を貫徹し、中統前での「芸備線廃線絶対反対」「団結ガンバロー」で締めくくりました。

高橋通夫同志の急逝を悼む
 革共同新潟県委員会

 9月21日、高橋通夫同志が79歳で急逝されました。
 高橋同志は1945年3月の東京大空襲で、焼夷(しょうい)弾の破片を受けてやけどを負いました。九死に一生を得たその体験が反戦反核を生涯のテーマとする同志の原点でした。
 同志は70年安保・沖縄闘争に参加、対カクマル戦を担い、東京西部地区委員会に所属して闘いました。新潟に戻ってからは小西反軍裁判支援にかかわり、同時に合同労組を結成して闘いました。就職した会社が倒産、労組委員長として先頭で労働債権確保を闘いました。高橋同志の実行力と人間味あふれる人格が組合員から信頼を得て、今日に至るまで付き合いが続いています。
 一貫していたのは反帝・反スタの革共同への信頼でした。党の路線転換の際にも、中央指導部への信頼を貫いて、団結を訴えました。それは決して権威におもねることではなく、批判すべきは批判し、団結するというスタイルを貫いていました。
 高橋同志は中国侵略戦争の切迫に対し、戦争絶対反対を街頭で情熱的に訴え続けました。「反戦闘争としての反戦闘争」の提起を待ちに待った提起ととらえ、県党全体をけん引しました。同志は誰にでも署名活動への協力を呼び掛け、「前進」も薦める積極性をもって、機関紙拡大の先頭に立ってきました。
 11月労働者集会には毎年欠かさず参加しました。何とかデモに参加したいと願っていた高橋同志の遺影をもって9・23芝公園集会・デモに参加したことは、せめてもの鎮魂でした。
 高橋同志! 革命運動の先陣を切って生き抜いた素晴らしい生涯でした。私たちは断固、革命勝利へ闘います。これからも私たちの闘いを見守ってください。

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