映画評 「福田村事件」 「なかったこと」にしてはならない 大虐殺の史実を現代に問いかけ

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週刊『前進』04頁(3316号04面05)(2023/10/24)


映画評 「福田村事件」
 「なかったこと」にしてはならない
 大虐殺の史実を現代に問いかけ


 関東大震災から100年の今年9月1日に公開することをめざして、ドキュメンタリー作家の森達也氏が初の劇映画として作った映画である。朝鮮人・中国人大虐殺の問題に真っ向から切り込んだ、画期的な挑戦である。
 千葉県の福田村(現野田市)で実際に起きた、香川の被差別部落の行商団に対する集団虐殺事件を再現する。史実にのっとりつつ、物語に仕立てている。「朝鮮人と間違えて」殺された事件だが、そもそも「朝鮮人なら殺していいのか」ということが核心問題なのだということも含めて、そこで起こった事件の全体像を克明に描写している。
 朝鮮の植民地支配の残酷さを体験し教職を辞して故郷に戻ってきた男性、シベリア出兵で夫が戦死した女性と義母、「大正デモクラシー」を体現するような世襲の村長、忠君愛国思想に固まった在郷軍人会の男性など、様々な個性の村人が、大震災後の軍隊・警察が流したデマ宣伝の中で、どのように大虐殺の惨劇に突き進んでいったかが緊迫感をもって描かれている。
 映画は、大虐殺の現実を報道しようと奮闘する女性新聞記者と、それを押しつぶそうとする編集長との葛藤を描くことによって、これが今日の問題であることを強烈に主張している。心に刺さるせりふが劇中に数々あるが、それぞれが現代に生きるわれわれへのメッセージと受け取れる。
 関東大震災後の朝鮮人・中国人大虐殺は、何よりも日本帝国主義国家権力による国家犯罪である。政府は戒厳令を発し、「朝鮮人の暴動」なるデマを流し、軍隊・警察による朝鮮人逮捕・監禁・暴行、果ては虐殺を行い、政府や警察の通達によって民衆を虐殺の加担者、実行者にした。
 帝国主義戦争を内乱に転化したロシア革命、日帝による朝鮮植民地支配に抗議して燃え上がった3・1独立運動、日本の米騒動などの民衆の決起に恐怖した支配階級は、日本と朝鮮の労働者の分断を図った。そこには内乱と革命の現実性があったのだ。
 「記録が見当たらない」と言って朝鮮人大虐殺をなかったものとする松野博一官房長官発言は、大虐殺の擁護そのものであり、それ自身が今日的な国家犯罪である。世界戦争が始まり、日帝が中国侵略戦争に向かう中で、歴史修正主義が前面化しているのだ。100年前の問題ではなくまさに今日の問題だということだ。映画はこういう日本の現実に危機感を持つ森監督を始めとしたスタッフ、キャストの全力投球の結晶である。
 森監督は、普通の人が同調圧力に弱いことを懸念し「群れる」ことの危険性を強調しているが、その警鐘が階級的団結の否定になってはならない。労働者階級人民が民族、国境を越えて団結し、帝国主義を打倒することによってしか、戦争も搾取もヘイトクライムもなくならない。そのことを考えるきっかけとしても、この映画は実にいろいろなことを教えており、ずっしりと重く問いかけている。
(高田隆志)
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