米日帝の中国侵略戦争阻む沖縄闘争の爆発を 基地撤去へ不屈の闘い続く沖縄

週刊『前進』04頁(3342号03面01)(2024/04/29)


米日帝の中国侵略戦争阻む沖縄闘争の爆発を
 基地撤去へ不屈の闘い続く沖縄

(写真 全軍労を先頭に決起した1971年11・10沖縄全島ゼネスト【那覇市】)

(写真 1971年4月の全軍労第3波ストに際し、コザ市【現・沖縄市】の嘉手納基地第2ゲート前に結集した牧青行動隊の白ヘル部隊)


 米日帝国主義の中国侵略戦争―世界戦争への本格的突入を前にして、この戦争の最前線の戦場にされようとしている沖縄で巨大な怒りが渦巻き、新たな闘いが始まっている。戦後沖縄の闘いは1971年の2度にわたる全島ゼネストを一つの頂点として、絶えず米軍基地と日米安保を揺るがし、今日まで不屈に闘われてきた。その歴史を振り返り、新たな安保・沖縄闘争の爆発をかちとるための路線的核心を明らかにしたい。

①沖縄戦と本土からの分離
 住民を動員し凄惨な地上戦

 すでに日本帝国主義の敗戦が確実となっていた45年1月、大本営は「帝国陸海軍作戦計画大綱」を策定。千島、小笠原、台湾とともに沖縄を「皇土防衛」のための「縦深作戦遂行上の前縁」と位置づけ、米軍が上陸した際には「極力敵の出血消耗を図りかつ敵航空基盤の造成を妨害す」と決定した。同年2月、元首相・近衛文麿が天皇への上奏文で「敗戦は遺憾ながらもはや必至」「国体護持(=天皇制存続)のため速やかに戦争終結の方途を講ずべし」と進言したが、天皇ヒロヒトは「(国体を護持した上での講和は)もう一度戦果を挙げてからでないと難しい」とこれを拒否。天皇制存続のためだけに全人民を犠牲にして戦争を継続するという、犯罪的な悪あがきを決め込んだ。
 こうして「捨て石」とされた沖縄で、45年3月26日の米軍の慶良間諸島上陸から9月2日の降伏文書調印まで、全住民を巻き込む凄惨(せいさん)な地上戦が展開された。沖縄に配備された日本軍(第32軍)は住民に「軍官民共生共死の一体化」を強制し、戦闘のみならず補給・兵站(へいたん)・救護などあらゆる軍務に動員した。戦火を逃れて避難した住民をガマ(自然洞窟)から追い出し、水や食料を強奪し、泣き叫ぶ乳幼児を虐殺し、降伏すら禁じて「集団自決(集団強制死)」を命じた。
 16歳で沖縄戦を経験した島袋文子さんは、辺野古基地建設に着工した安倍政権(当時)を「戦争で死んだ人の血の混じった泥水をすすってみろ!」と弾劾し、95歳になった今も辺野古に通い続けている。南西諸島の戦場化を前提とする米日帝国主義の中国侵略戦争とは、この沖縄戦の「再来」以外のなにものでもない。戦後沖縄闘争の原点となってきた「沖縄戦を繰り返すな」の血叫びを、今こそ日本労働者階級の共通の決意としなければならない。
 他方で米軍は、戦後のアジア支配・世界支配の観点から、沖縄の戦略的重要性を戦争中に強く意識していた。米太平洋艦隊司令長官・ニミッツ元帥は、沖縄上陸直後に「米国海軍軍政布告第1号」を出し、南西諸島の軍事占領と日本による同地域の施政権の停止、米軍政府設立を宣言した。そして戦争終結後、マッカーサー最高司令官率いる連合国軍総司令部(GHQ)が46年1月に「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」を発し、沖縄をGHQ統治下の本土と分けて米軍の直接支配下に置いた。この時すでに米軍は、約182平方㌔メートル(沖縄本島面積の約13%、そのうち44%が元耕作地)を軍用地として占拠していた。
 アメリカ帝国主義の対日戦後処理は、①日帝の完全非武装化、②天皇制の存続(統治形態の民主化=象徴天皇制への移行)、③沖縄の分離と軍事拠点化を3本柱とした。47年5月の憲法施行後、マッカーサーは沖縄の軍事拠点化を米帝のアジア戦略の柱とすることを公言。これに飛びついた天皇ヒロヒトは同年9月、側近を通じて密かにGHQにメッセージを送り、「米国の長期にわたる軍事占領を希望する」と伝え、沖縄の売り渡しを申し出た。
 そして中国の国共内戦で共産党軍の勝利が濃厚となった49年5月、米国家安全保障会議(NSC)は沖縄の長期保持を決定。同年7月にはマッカーサーが「日本は共産主義を阻止する防波堤」と演説し、続いて米議会で沖縄基地建設予算5000万㌦が計上された。50年6月の朝鮮戦争が始まると、軍用地接収と基地建設が一気に加速された。

②米軍政下で「核の貯蔵庫」に
 高まる「基地の島」への怒り

 そもそも帝国主義とスターリン主義の分割支配による戦後世界体制の成立過程で、米帝にとって最大の難問となったのは、戦争終結直後からアジア全域で爆発した戦後革命と民族解放・革命戦争をいかに鎮圧するか、そしてこの地域の恒常的な軍事支配体制をいかに確立するか、ということだった。米帝はその答えを日帝との特異な軍事同盟、すなわち日米安保体制の確立と沖縄の分離・軍事拠点化に見いだしたのである。
 こうして51年9月にサンフランシスコ講和条約と日米安保条約が締結され、52年4月28日の両条約発効により、沖縄は憲法も適用されない無期限・無制限の軍政下に置かれた。さらに米帝は朝鮮戦争を前後してアンザス条約(米・豪・ニュージーランド安保条約)、米比相互防衛条約、米韓相互防衛条約、米台相互防衛条約、東南アジア条約機構(SEATO)を締結、欧州の北大西洋条約機構(NATO)と並ぶアジア・太平洋地域の軍事同盟網を張り巡らせた。そしてその結び目にある沖縄を「太平洋の要石(キーストーン)」と呼び、これらの軍事同盟が沖縄を拠点に機能する仕組みをつくり上げた。
 53年の土地収用令の布告後、沖縄では「銃剣とブルドーザー」による土地強奪が本格化し、武装米兵の襲撃、暴行、家屋の破壊や放火、抵抗した人々への弾圧が繰り広げられた。そしてこの過程で大量の核兵器が持ち込まれ、沖縄は約20種類1300発もの核兵器を貯蔵する「アジア最大の核兵器庫」とされた。56年6月の米上院議員プライスによる連邦議会への調査報告書(プライス勧告)は、沖縄の戦略的価値はその地理的条件とともに「原子兵器を貯蔵または使用する権利に対して何ら外国政府の制限を受けない」ことにあると強調し、「無制限の核貯蔵庫」=沖縄を確保し続けることを強く求めた。
 だが、このプライス勧告を機に「島ぐるみ」の土地闘争が爆発し、米軍支配に対する初の全島的総反乱が爆発した。この闘争はいったんは条件闘争となって収束するが、それまで完全な無権利状態を強いられてきた沖縄の人々が闘争を通じて得た自信は大きかった。そして60年には沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が結成され、この本土復帰闘争と一体で労働運動も高揚局面に入っていくのである。
 他方で米帝は65年2月、北ベトナムへの空爆を開始し、ベトナム侵略戦争へ本格的に突入した。日帝は日米安保体制のもとでこの戦争を支え、沖縄米軍基地からは連日「黒い殺し屋」と呼ばれた戦略爆撃機B52が空爆に飛び立った。それ以前から沖縄では、59年宮森小学校への米軍機墜落事故(小学生11人を含む17人が死亡、210人が重軽傷)を始めとした数々の事故、基地からの毒物の流出、米兵の凶悪犯罪などが常態化していたが、ベトナム戦争はこれらをさらに激増させた。この現実に住民の怒りと闘いが爆発する中で、佐藤栄作首相(当時)は65年に沖縄を訪問し、「沖縄返還」に向けた対米交渉の開始を約束した。だが佐藤=日本政府の狙いは、基地を残したまま施政権だけを日本に「返還」し、日米安保体制のもとで沖縄をあくまでも「基地の島」として維持することにあった。
 以上のようなベトナム戦争の激化と日本全土の出撃基地化、沖縄人民の本土復帰・基地撤去の闘いの大高揚、そして米日政府によるペテン的「沖縄返還」の攻撃に対し、「70年闘争をいかに闘うのか」ということが日本労働者階級に、そしてあらゆる政治党派・潮流に問われることとなった。

③70年安保・沖縄闘争の爆発
 日帝打倒へ巨万の実力闘争

 革共同は66年に開催した第3回全国大会で、「安保粉砕・日帝打倒」を掲げて70年闘争を闘うことを決定した。そして佐藤首相ベトナム訪問阻止の67年10・8羽田闘争を武装闘争として貫徹することを決断した。
 「日米同盟政策は......日帝の存立と東南アジア侵略の成否をかけて展開される日帝の基本的な政治=外交政策である。......このように安保の是非と日帝の存亡が密着しているとき、安保反対は同時に日帝に対する態度の明確化(=日帝打倒)に裏うちされていなければなんら力とならないのである。......安保を必要としている日帝の体制そのものを打倒するという考え方にたつ以外に安保闘争の革命的発展はありえない。帝国主義打倒に向かって闘い抜くという観点のないところに70年安保闘争の発展はありえない」(68年8月12日付「前進」第396号清水丈夫論文)
 このような断固たる確認のもと、革共同を主力とする革命的左翼は10・8羽田闘争以来、国家権力・機動隊の阻止線を突破する実力闘争を展開。社会党・共産党といった既成指導部の敵対と制動を打ち破り、巨万の民衆が「日帝打倒」に向かって決起する新たな情勢を切り開いた。同時にわれわれは、本土復帰闘争に立ち上がる沖縄人民の存在と闘いに接近し、その重みを全身で受け止め、米軍支配下の沖縄の現実を打破しようとする沖縄人民の必死の闘いが日帝との非和解的な全面激突に行き着かざるを得ないことを明確にして、「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」の総路線を確立。沖縄奪還闘争を70年闘争の最大の決戦課題として闘うことを決断した。
 このような本土の革命的左翼の闘いと沖縄の闘いが結びつくことを恐れた国家権力は、69年4・28沖縄デー闘争の前日に革共同の本多延嘉書記長(当時)らに破壊活動防止法(破防法)を適用したが、4・28闘争はこの弾圧を打ち破り、総勢15万人の大デモ・実力闘争となって爆発した。沖縄では、同年2月4日に予定されたゼネストが既成指導部の裏切りのもとで挫折させられた直後だったが、この4・28闘争の衝撃を受けて革命的左翼の結集が始まり、8月の全学連の嘉手納基地突入闘争を経て10月には沖縄県反戦青年委員会が結成された。「復帰協のそうした限界を突破し、人民自身の実力闘争で帝国主義を打倒しようとする反戦派の思想と行動が沖縄にももたらされた。......抑圧の根源・戦争の根源である帝国主義(国家権力)を、われわれ自身の実力闘争で打倒していかなければならない。これがわれわれの思想の根本である」(『沖縄県反戦ニュース』第5号)。

④全軍労の決起と全島ゼネスト
 「死すべきは米軍基地だ!」

 沖縄こそ日米安保の矛盾と犠牲の集中点であり、労働者階級人民の怒りの総反乱を生み出す拠点=「革命の火薬庫」であり、ゆえに沖縄闘争の爆発の中にこそ日帝打倒=日本革命勝利の道があること、そして沖縄の人々が求めてやまない「基地のない平和な沖縄」も、基地と安保によって成り立つ米日帝国主義を打倒して労働者階級が真に社会の主人公となっていく中でこそ実現できること----これらのことを鮮明にさせた「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」の総路線は、何よりも69年12月に始まる基地労働者への大量解雇攻撃との対決の中でその真価を問われることとなった。
 米日帝国主義は72年5月「沖縄返還」を前に、沖縄闘争の主力をなす基地労働者の組合=全沖縄軍労働組合(全軍労)を破壊するための大量解雇攻撃に踏み込んだのだ。これに既成の全勢力が闘えず、全軍労幹部も早々に条件闘争へ逃げ込もうとする中で、われわれは次のように訴えた。
 「基地労働者こそ基地撤去の主体であり、そのためにこそ基地に居座らねばならない。......基地労働者は、戦争に手を貸してしか生きられない自己の屈辱をより多い賃金でごまかすのでなく、基地をこの手でなくす力へと凝集しなければならない。......決然立って基地に足を踏まえ、逆に米軍をこそ基地の外に、金網の外に、海の外にたたき出すべきである。それ以外にどこに生活の途があるというのか。どこに人間として生きる道があるというのか。この基地の内乱―基地の奪還―基地の撤去によって自らの生き方を貫く闘いこそ、日本帝国主義の根底をふきとばす闘いなのである」(69年12月15日付「前進」第462号)
 このアピールは全軍労の青年労働者の心をとらえ、その思想は70年2月の全軍労牧港支部青年部(牧青)の結成へと結実。「労働者は死んではならない。死すべきは基地だ」のスローガンとそのもとでの数々の創造的かつ大衆的な実力闘争(強制就労闘争、毒ガス移送阻止闘争、牧青行動隊のピケットライン防衛闘争など)を生み出していった。この牧青の闘いは基地労働者全体を一気に獲得し、ついに全軍労は71年5月の臨時大会で「一切の軍事基地撤去」のスローガンを決定、同年5・19、11・10全島ゼネストを全人民の先頭でけん引したのである。
 全軍労牧港支部は、72年3月の無期限ストを打ち切った全軍労本部の裏切りを乗り越え、単独で2日間のストを継続。さらに「5・15」以降も、米軍ですら手が出せない「基地内決起」を何度も実現し、そのたびにベトナムへの爆撃機の飛行を止めた。その後、相次ぐ大量解雇と活動家のパージで闘いはいったんは抑え込まれていく。だが全軍労の闘いは、労働者が帝国主義打倒に向かって本気で決起したときには、帝国主義の巨大軍事力すら無力化できるということを歴史に刻印した。それは単なる職場闘争・改良闘争の積み上げの結果では断じてなく、本土と一体の安保・沖縄闘争の爆発、そして「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」という革命の路線・展望と結びつくことによって初めて可能となったのである。
 全島ゼネストと連帯し、星野文昭同志、大坂正明同志らを先頭に闘われた71年11・14渋谷暴動闘争は、70年闘争の最高の到達点である。そして星野同志、大坂同志への憎悪に満ちた攻撃は、日帝権力中枢がこの闘いにどれだけ恐怖したのかを証明しているのだ。

結語にかえて

 本土「復帰」後、沖縄労働者階級は基地被害と高い失業率、非正規職化、低賃金、貧困を強いられてきた。95年の少女暴行事件に対する10万人決起は、「復帰」後も変わらない「基地の島」の現実に対する根底的な怒りの爆発にほかならない。以後、辺野古新基地建設に対して四半世紀を超える不屈の闘いが続き、いま再びの「沖縄の戦場化」が迫る中で、臨界点を超えた怒りは新たな安保・沖縄闘争の爆発の条件を広範に生み出している。これを抱え込んだまま戦争に突き進む以外にないことこそ、日帝の最大の弱点なのだ。
 「中国侵略戦争同盟としての日米安保同盟を粉砕する闘い、沖縄・日本全土における反基地闘争、安保粉砕・日帝打倒の闘いを『連帯し、侵略を内乱へ』の戦略的総路線のもとに闘いぬくことこそが、米帝と全帝国主義の延命をかけた中国侵略戦争―世界戦争を実際に阻止し、反帝・反スターリン主義世界革命の道を切り開く決定的な環をなすのだ」(革共同9回大会第2報告、本紙3336号)。
 9回大会路線のもと、4・28闘争に続く5・15沖縄現地闘争、6・9反戦闘争を闘い抜き、日本革命の展望を開く安保・沖縄闘争の爆発を今こそかちとろう。
〔水樹豊〕

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中国侵略戦争阻止! 沖縄の軍事要塞化止めよう!
戦争進める岸田たおそう!
「復帰」52年5・15沖縄闘争
■5月19日(日)
◎「復帰」52年5・15沖縄集会
 午後2時30分開始(2時開場)
 テンブス館ホール(那覇市牧志3―2―10)
◎国際通りデモ
 午後5時30分 牧志公園集合、6時デモ
■5月18日(土)
◎陸自勝連分屯地へ抗議&デモ
 午後3時30分 陸自勝連分屯地正門
◎青年労働者集会
 午後7時 うるま市健康福祉センタ ーうるみん
■5月20日(月)
◎辺野古現地闘争
 午前8時30分 辺野古ゲート前
◎陸自那覇駐屯地申し入れ
 午後0時30分 那覇駐屯地ゲート前
主催 改憲・戦争阻止!大行進沖縄

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