特集 安保・沖縄闘争 沖縄の怒りと結び中国侵略戦争阻止を
特集 安保・沖縄闘争
沖縄の怒りと結び中国侵略戦争阻止を
アメリカ帝国主義は「米国が直面した中で最も強力な敵」と中国を位置づけ、自らの延命をかけて日本帝国主義とともに中国侵略戦争にますます突進している。この戦争の「要」になるのが日本であり、沖縄だ。戦争を実力で阻む安保・沖縄闘争の歴史的爆発を今こそかちとろう。
進む沖縄の最前線基地化


今、沖縄で進んでいる事態は「中国の脅威から南西諸島を防衛する」ということではない。米日の側こそが圧倒的な軍事力で中国を挑発し、実際に侵略戦争の準備を着々と進めているというのが真相である。防衛相・中谷元が米側に提案した「ワンシアター構想」は、日本帝国主義による積極的な中国侵略戦争態勢構築の動きであり、日帝こそが戦争を推進している当事者であることを如実に物語っている。
東アジアに「戦域」設定
3月30日の日米防衛相会談で、中谷が対中国を念頭に「日本は『ワンシアター』の考え方を持っている。日・米・オーストラリア・フィリピン・韓国などを一つのシアターと捉え、連携を深めていきたい」とヘグセス米国防長官に提案したことがわかった。
「シアター」とは戦時に「一つの作戦を遂行する地域」を意味する軍事用語だ。米軍はフィリピンを正面とした「南中国海シアター」と、日本の南西諸島を正面とする「東中国海シアター」での中国侵略戦争のための準備を並行的に進めてきたが、「ワンシアター構想」とはこの二つのシアターを結合させるものだ。中谷をはじめ自衛隊・防衛省幹部は「トランプ政権下ではインド太平洋地域を日本がより一層引っ張っていく役割を担わないといけない」という考えでこの構想を提案したと言う。つまりこれは、中国侵略戦争において日帝が「米軍と共に大戦争を遂行する」ということにとどまらず、東南アジア諸国や韓国も含めた帝国主義戦争同盟の積極的な構築者として、まさしく米帝と並ぶ戦争放火者として登場する宣言なのだ。
会談後、ヘグセスは「日本は西太平洋で発生する有事で最前線に立つことになるだろう」と語り、その後の石破首相との会談でも「ワンシアター構想」に言及して歓迎した。
昨年5月に糸数健一与那国町長が都内で講演した際に、「日本は旧宗主国として台湾に対する責任を放棄してはならない」と語ったが、ワンシアター構想は、台湾を「自分の勢力圏」かのように扱い、その「防衛」のために東南アジアや朝鮮半島まで戦域に含めたもので、まさしく旧大日本帝国さながらの振る舞いである。名実共に帝国主義として登場する日帝を、絶対に許してはならない。
米日こそが戦争放火者
この「ワンシアター」における最前線が南西諸島だ。
防衛省は2025年度中にも、中国沿岸部に届く射程1千㌔メートル超の「12式地対艦ミサイル能力向上型」を九州・沖縄各地に配備することを狙っている。これ自体、沖縄を「臨戦態勢」にたたき込む暴挙だが、起きていることはそれにとどまらない。すでに日米共同図上演習「キーンエッジ24」(24年2月)では、「台湾有事」に際して航空自衛隊の戦闘機が台湾海峡を航行する中国軍艦をミサイルで攻撃することを想定した演習が行われていた。これまでの「南西諸島の防衛」という建前すら投げ捨てるこの「他国への武力攻撃」演習は、南西諸島のミサイル基地化が「防衛」のためではなく、侵略のための前線拠点化であることを明らかにしている。
米海兵隊の対中国作戦「遠征前進基地作戦(EABO)」は、南西諸島の島々に移動を繰り返しながら臨時基地を建設し、中国軍とミサイルを撃ち合う想定の作戦であり、沖縄を戦場とすることを前提にしているものだ。EABOには陸上自衛隊水陸機動団をはじめ自衛隊が全面的に参戦・協力して中国軍を打ち破り、中国本土に侵攻することが計画されている。
これと一体で、無人偵察機「MQ4(トライトン)」が新たに嘉手納基地に配備されるなど、沖縄では軍事拠点化が続いている。
またEABOに際し、先島諸島では「避難」と称して島から住民を追い出し、公共インフラや土地を全面的に利用することが狙われている。かつて太平洋戦争で激戦地となった硫黄島が、戦後に住民が帰ることすらできない軍事拠点にされた歴史が繰り返されようとしているのだ。
トランプ・石破を先頭とする米日帝国主義こそが戦争放火者だ。沖縄現地闘争に結集し、沖縄の怒りと連帯して闘おう。
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沖縄戦の再来を許すな!
天皇制存続のため「捨て石」に
「軍隊は住民を守らない」今も生きる血の教訓


アジア・太平洋戦争末期、沖縄は50万人以上の住民を巻き込んだ激烈な地上戦の舞台となり、米軍のみならず日本軍による虐殺や強制集団死によって県民の約4人に1人にあたる12万人以上が命を奪われた。そして今、防衛相・中谷元による旧日本軍司令官・牛島満の「辞世の句」賛美が示すように、中国侵略戦争を構える日本帝国主義は、自衛隊を「天皇の軍隊」としての侵略軍隊に変え、沖縄を再び戦火にたたき込もうとしている。
沖縄戦は、「国体護持」=天皇制存続を柱とする帝国主義支配の維持のために人民を犠牲にするという帝国主義戦争の本質をまざまざと示した。「軍隊は住民を守らない」という血の教訓は、戦後の闘いの原点として今に至るまで沖縄の人々の中に生きている。
「日常に軍隊が溶け込んでいく今の状況は沖縄戦直前をほうふつさせる」「伝えていかないと沖縄戦がなかったことになってしまう」----。沖縄戦経験者たちは今、再び急速に進む自衛隊増強・米軍基地機能強化に怒りを燃やし、あの戦争を絶対に繰り返してはならないと声を上げている。
本土決戦に向け時間稼ぎを狙う
アジア・太平洋戦争末期、劣勢に追い込まれた日本軍は「本土決戦」に向け、住民を動員して沖縄の軍事要塞(ようさい)化を進めた。こうして建設された基地の中には、嘉手納基地のように今も米軍に使用されているものもある。
1944年3月には第32軍が配備され、司令官・牛島満は住民に「軍官民共生共死の一体化」を命じた。日本軍の根こそぎ動員により、防衛召集を受けた人々に加え、住民2万2千人以上が防衛隊、2千人以上が学徒隊として戦闘や作業、看護に駆り出された。
また、32軍参謀長・長勇(ちょう・いさむ)の「戦場に不要の人間が居てはいかぬ、まず速やかに老幼者は作戦の邪魔にならぬ安全な所へ移り住」めという言葉が示す通り、米軍上陸前に進められた本島北部や九州、台湾への「避難」「疎開」は、戦闘要員にならない子どもや女性、高齢者を排除する手段に他ならなかった。その結果、44年8月には学童疎開船・対馬丸が九州で米軍に撃沈され1500人近くが死亡した。八重山諸島では、軍命によりマラリア有病地に避難させられた住民3700人近くが感染して命を落とした。
そして45年1月、大本営は新たに「帝国陸海軍作戦計画大綱」を決定。硫黄島や沖縄本島以南の南西諸島などを「前縁」として「皇土(天皇の土地)防衛」を図るというものだった。そして、米軍がこれらの島々に上陸した場合、「極力敵の出血消耗を図」るとしていた。沖縄は、「皇土防衛」のための「捨て石」と位置づけられたのだ。
日帝の敗戦が必至となった45年2月には、元首相の近衛文麿が昭和天皇ヒロヒトに「国体護持のため速やかに戦争終結の方途を講ずべし」と進言したが、ヒロヒトは「もう一度戦果を挙げてから」と降伏を拒み、自らの延命を図った。
日本軍が住民に「集団自決」強制
そして45年3月26日、米軍が沖縄本島南西部の慶良間諸島に、4月1日には本島中部の西海岸に上陸し、激しい地上戦が始まった。日本軍は5月下旬の時点で壊滅状態に陥りながら降伏せず、首里の司令部を捨てて10万人の住民が避難していた南部へ撤退。多くの住民を巻き込み、時間稼ぎのために戦闘を続けた。
組織的な戦闘は追いつめられた牛島が自殺した45年6月23日に終結したが、牛島は各部隊に「最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし」、すなわち「天皇のために死ぬまで戦え」と徹底抗戦を命じたため、その後も9月7日の降伏文書調印まで犠牲者は増え続けた。
そして、沖縄戦経験者が「米軍よりも恐ろしかった」と語るのが日本軍だ。
「日本兵は住民に銃剣を突きつけて『ここは日本軍が使う』と言って、隠れていた壕(ごう)から追い出しました。大切な食料を日本兵に奪われることも珍しくありません。壕の中で日本兵と一緒のときは、小さい子どもがいる母親は特に大変でした。暗くて怖いから子どもが泣くでしょ。すると『泣き声でアメリカ兵に見つかってしまう。静かにさせろ!』と、子どもの口をふさいで窒息死させてしまったこともありました。日本兵は住民を守ってくれませんでした。住民をアメリカへの盾に使っていたのです」(島袋文子さんの証言、森住卓著『沖縄戦・最後の証言』所収)
日本軍の本質を最も如実に示すのが、各地で起きた「集団自決」=強制集団死だ。軍事機密が米軍にもれることを恐れた日本軍は住民に捕虜になることを禁じ、「生きて辱めを受けるくらいなら自ら命を絶て」と命令した。こうして多くの人々が日本軍の配った手りゅう弾や鎌などを使って家族で殺し合うことを余儀なくされたのだ。慶良間諸島では約600人が犠牲になり、渡嘉敷島の「集団自決」で家族を亡くした男性は「島は一木一葉に至るまで軍の支配下にあり、(集団自決は)軍の存在なしには起きなかった」と語る。
日帝支配階級は戦後、こうして「天皇の軍隊」が住民の命を奪ったという史実を抹殺しようと必死になってきた。第1次安倍政権下の2007年3月には、高校の歴史教科書から「集団自決」における日本軍の関与と強制を示す表現が削除された。激しい抗議行動で記述は変更されたが、今も歴史修正主義との闘いの焦点であり続けている。
侵略と大虐殺の歴史くり返すな
沖縄戦における日本軍の残虐な振る舞いは、その直前の中国―アジア侵略と切り離して語ることはできない。牛島満と長勇は共に、1937年末から38年にかけての南京大虐殺に関与した人物だ。牛島が率いた連隊は住民・捕虜の虐殺や女性暴行、略奪に手を染め、中国大陸各地で残虐な「三光作戦」を実行した兵士らも沖縄へと転戦していた。捕虜大量殺害の責任者であった長は情報参謀として中国各地に「慰安所」を広げ、性奴隷制をそのまま沖縄に持ち込んだ。沖縄各地に140カ所以上も慰安所が造られ、朝鮮半島から連れてこられた女性たちが日本軍にあてがわれたのだ。
こうした歴史を美化し、再び繰り返そうとしているのが日帝・石破政権だ。沖縄戦の再来を絶対に許さず、米日帝の中国侵略戦争阻止へ全力で闘おう。
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辺野古新基地建設阻止を


95年10万人決起から30年
「私たちに、静かな沖縄を返してください。軍隊のない、悲劇のない、平和な島を返してください」----1995年10月21日、宜野湾海浜公園で開かれた「沖縄県民総決起大会」の壇上から、当時普天間高校の3年生だった仲村清子(すがこ)さんは、会場に結集した8万5千人を前にそう訴えた。同年9月に発生した普天間基地所属の海兵隊員3人による12歳の女子小学生への暴行事件に対し、仲村さんは、すべての基地、すべての軍隊を沖縄からなくさない限り、米兵の凶悪犯罪がなくなりはしないことを明確にさせ、全基地撤去まで絶対にあきらめることなく行動し続けることを全参加者に呼びかけたのである。この言葉は、今日まで30年にわたり、沖縄の反戦反基地の闘いを不屈に貫く多くの人々の共同の決意となってきた。
72年「復帰」から95年までの23年間で、米軍犯罪は県警が把握しただけで4784件、うち殺人・強盗・婦女暴行などの凶悪犯罪は511件に上った。この米軍の度重なる米軍犯罪への抑えがたい怒りと、「平和な島」への切なる希求に対して、米日政府が返した答えが「辺野古新基地建設」だったのである。
少女暴行事件を受け、大田昌秀沖縄県知事は米軍用地強制使用のための代理署名を拒否、10・21県民大会(他の会場も含めて10万人が決起)を経て県民の圧倒的多数がこれを支持した。このままでは在沖米軍の存在自体が違法状態に追い込まれるという未曽有の事態を前に、米日政府は急きょ「沖縄に関する特別行動委員会(SACO)」を設置。同時に日本政府は沖縄県を相手に裁判を起こし、これに敗訴した大田知事は後に軍用地の使用手続きを進めることになった。
そして96年4月12日、橋本龍太郎首相とモンデール駐日米大使が共同記者会見を開き、「今後5~7年以内の普天間基地の全面返還に合意した」と大々的に発表、あたかも米日が沖縄の声を受け止めて基地の整理・縮小に動き始めたかのように大宣伝した。だが、その3日後に発表されたSACO中間報告で「十分な代替施設の完成」が普天間返還の条件とされ、続いて12月のSACO最終報告で辺野古への「代替施設」建設案を提示、翌年1月に日米政府が合意に至った。こうして普天間基地「返還」は、「移設」と称する辺野古新基地建設計画へとすり替えられた。
97年12月の名護市民投票では、過半数を超える54%が辺野古新基地に反対票を投じた。ところが、99年に稲嶺恵一県知事や岸本建男名護市長が「使用期限15年・軍民共用空港」などの条件付きで基地受け入れを表明、同年12月には政府が建設計画を閣議決定した。
だが、辺野古現地では「命を守る会」を中心に基地建設阻止の不屈の現地闘争が始まっていた。2004年4月19日、那覇防衛施設局(現・沖縄防衛局)が辺野古沖でのボーリング調査に現れると、全国から駆けつけた青年労働者・学生らが地元住民と共に体を張って実力阻止闘争を展開。昼夜を問わぬ連日の座り込みと監視、海上阻止行動が闘い抜かれ、ついに502日目の05年9月2日、防衛施設局は1カ所の調査もできないまま調査用の海上やぐらを撤去した。海上基地建設計画は事実上の白紙撤回に追い込まれた。
工事計画は破綻している
ところが、米日政府は同年10月29日の外務・防衛担当閣僚会合(2プラス2)で、地元自治体と合意したこれまでの計画を一方的に破棄し、米軍キャンプ・シュワブから大浦湾側へはみ出す巨大基地建設計画を新たに発表。さらに翌06年5月、「米軍再編のためのロードマップ」に合意し、V字型2本の滑走路を持つ新たな基地建設計画を決定した。「使用期限15年・軍民共用空港」などの条件も一方的に破っておきながら、政府は1999年の時点で地元の合意は得たとして計画を進めているのである。
だが、この米日政府の暴挙への怒りは激しく、自民党沖縄県連すら「県外移設」を公約とせざるを得ない状態が続いた。これを覆したのが、2012年12月発足の第2次安倍政権下で党幹事長となった石破茂である。石破は13年11月、沖縄県選出の自民党国会議員5人を党本部に呼びつけて「辺野古移設容認」へと転換させ、これを受けて仲井眞弘多知事も「容認」へ転じた。石破が主導したこの一連の動きは「平成の琉球処分」などと呼ばれた。
沖縄県民の圧倒的多数が幾度も反対の意志を示したにもかかわらず、沖縄防衛局は17年2月、キャンプ・シュワブ沿岸での埋め立て工事を開始、同年4月には護岸工事にも着工し、18年12月には辺野古沿岸への土砂投入を開始した。だがこの間に、埋め立て予定海域北側の大浦湾に「マヨネーズ状」と言われる軟弱地盤が発見された。地盤改良には最深90㍍もの海底に計7万1千本の杭を打ち込む前代未聞の工事を要するが、防衛省はあくまでこれを強行するとして、昨年1月に大浦湾側での工事を開始、今年1月には杭打ち作業に踏み切った。もはや基地建設計画そのものは完全に破綻しているにもかかわらず、ただ沖縄の反戦反基地の「戦意をくじく」ためだけに、日本政府・防衛省は工事を強行しているのである。
少女暴行事件に対する怒りの10万人決起に始まり、沖縄の反戦反基地の揺るがぬ意志の象徴として不屈に闘い抜かれている辺野古現地闘争は、米日の中国侵略戦争を阻む闘いの最前線だ。5月沖縄闘争で大挙辺野古に駆けつけ、昨年に続く実力阻止闘争を闘おう。
辺野古新基地建設をめぐる関連年表 | |
1995年9月 | 米兵による少女暴行事件 |
10月 | 沖縄県民大会8万5千人―全島10万人が決起 |
96年4月 | 日米が5~7年以内の普天間基地返還で合意 |
12月日米政府、普天間の「代替」と称して沖縄本島東海岸沖に新基地を建設するSACO最終合意を了承 | |
97年1月 | 日米政府、辺野古への新基地建設案で合意 |
9月 | 日米安保ガイドライン改定 |
12月 | 名護市民投票で海上基地建設反対が多数に |
99年5月 | 周辺事態法成立 |
11月 | 稲嶺県知事、普天間代替施設として「15年使用期限付き軍民共用空港」の建設を表明 |
12月 | 岸本名護市長が稲嶺知事の要請を条件付きで承認。日本政府も同じく辺野古への「軍民共用空港」建設を閣議決定 |
2001年9月 | 9・11事件(10月、テロ対策特措法成立) |
03年3月 | イラク戦争開戦(7月、イラク特措法成立) |
6月 | 武力攻撃事態法など有事3法成立 |
04年4月 | 辺野古沖のボーリング調査開始を実力阻止 |
8月 | 沖縄国際大に普天間基地所属の米軍ヘリ墜落 |
05年9月 | 那覇防衛施設局、ボーリング調査を断念 |
10月 | 日米2プラス2で新たな基地計画発表 |
06年5月 | 日米政府、滑走路2本をV字に配置した辺野古新基地の新計画を含む「米軍再編ロードマップ」に合意。日本政府は新計画を閣議決定し99年の閣議決定を破棄 |
10年4月 | 県外・国外移設を求める県民大会に9万人 |
12年10月 | オスプレイ普天間配備反対県民大会に9万人 |
13年11月 | 自民党沖縄県連、「県外移設」の公約を覆し辺野古容認(→12月、同じく仲井眞知事が埋め立て承認) |
15年9月 | 集団的自衛権行使を含む安保戦争法成立 |
10月 | 翁長知事が埋め立て承認を取り消し |
17年2月 | 辺野古で海上工事着工 |
18年8月 | 県が埋め立て承認を撤回。県民大会に8万人 |
12月 | 埋め立て海域に土砂投入開始 |
19年2月 | 県民投票で7割が辺野古新基地に「反対」 |
21年1月 | 辺野古新基地への陸上自衛隊常駐計画が発覚 |
23年12月 | 軟弱地盤改良工事に伴う設計変更承認をめぐる代執行訴訟で県が敗訴 |
24年1月 | 国交相の代執行に基づき大浦湾埋め立て着工 |
25年1月 | 地盤改良のための杭打ち工事に着手 |
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72年「沖縄返還」とは何か
「基地の島」永続化狙う日帝に本土‒沖縄一体の怒りが爆発

米帝の戦後支配と4・28「屈辱の日」
アメリカ帝国主義は、戦後アジア・太平洋支配の戦略的要衝として沖縄を位置づけ、最初から沖縄を奪い取る目的をもって沖縄戦に突入した。
戦後、沖縄は島全体が米軍による軍事監獄と化し、住民は収容所に閉じ込められた。その間に、米軍は今の嘉手納基地など日本軍の基地を接収しただけでなく、自分たちに必要な広大な土地を軍用地として鉄条網で囲い込んだ。収容所から出た住民は住んでいた家がなくなり、難民化した。沖縄は本土と切り離され、1946年の国会議員選挙も日本国憲法も、沖縄人民を排除したものだった。
40年代後半、中国革命をはじめアジアの民族解放闘争が進み、米帝の戦後支配体制にとって沖縄の戦略的重要性が一層高まった。
一方、戦犯訴追を免れた昭和天皇ヒロヒトは、47年に連合国軍総司令部(GHQ)にメッセージを送り、アメリカによる沖縄占領の継続を要望した。沖縄戦では沖縄を「国体護持」のための捨て石にした日帝と天皇は、戦後は日帝と天皇の延命のための貢ぎ物として米帝に捧げると意思表示したのだ。日帝と沖縄のこの関係は一貫して本質的に変わらないのである。
50年朝鮮戦争を通して、米帝は沖縄の軍事的戦略的位置の重要性をますます確認した。サンフランシスコ講和条約で日本の独立を認めるのと引き換えに米軍による沖縄の分離支配を要求した。日帝もこれを認め、沖縄を売り渡すことで「戦後発展」の道に踏み出したのである。米軍の軍事占領の理不尽さに怒りを募らせてきた沖縄県民の大多数が日本への復帰を求めて運動した(復帰署名は有権者の72%に達した)が、日米両政府はこれを全く無視して52年4月28日、講和条約と日米安保条約を発効させた。後に安倍晋三が「主権回復の日」と称して記念式典(2013年)まで開いた4月28日を、沖縄県民は「屈辱の日」と名付けた。
ベトナム反戦闘い「島ぐるみ」闘争へ
52年に琉球政府が発足したが、県知事に相当する行政主席は米国民政府による任命制だった(公選になったのは68年)。このもとで、沖縄の労働者人民は、闘いなしには生活も権利も獲得することができなかった。
50年朝鮮戦争以降、沖縄の軍事基地をさらに拡大する攻撃が襲いかかり、「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる暴力的な土地取り上げが続行した。これに対する「島ぐるみ闘争」が営々と闘われた。65年には時の首相佐藤栄作の訪沖に対する抗議闘争が爆発した。
米軍はソ連、中国を標的とした核ミサイル基地を建設し、基地建設は一層強化された。60年代中ごろから激化した米帝のベトナム侵略戦争は、沖縄基地のフル稼働なしには成り立たない大規模な戦争だった。沖縄基地は、B52戦略爆撃機による渡洋爆撃など出撃、訓練、兵站(へいたん)、輸送の大拠点だった。
ベトナム反戦闘争と結びついて、沖縄の労働者人民は基地沖縄の現実を覆し本土復帰を求める闘いを強めていった。日帝は米帝との間で沖縄返還交渉を進めることを余儀なくされた。
死すべきは基地だ 全軍労先頭に決起
だが、米日帝が進めた沖縄「返還」政策は、沖縄の怒りと要求に応えるかのように装って、米軍基地の島・沖縄の永続化を、日本政府が前面に乗り出して図るものだった。さらに、自衛隊を沖縄に派兵して日帝自身がアジア侵略に乗り出すことを目的としていた。
69年11月佐藤訪米による日米首脳会談で72年返還が合意されるが、共同声明では「韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要」「台湾地域における平和と安全の維持も日本の安全にとってきわめて重要な要素」とうたい、ベトナムのみならず、朝鮮、中国に対する軍事的威圧をも目的として日米安保と沖縄基地を強化することを宣言した。72年「返還」政策とは、沖縄の施政権問題にとどまらず、日米安保強化、日帝自身の侵略帝国主義としての踏み出しを意味していた。
米軍のベトナム・アジア侵略を日米安保同盟をてこに日米共同の事業として推進すること、自衛隊自身の直接的なアジア侵略への一歩を図ること、などが目的とされたのである。
69年2・4ゼネストの挫折により、沖縄の闘いは既成指導部の制動下で壁にぶち当たることになったが、本土での全学連と反戦青年委員会を先頭とする70年安保決戦の爆発と合流することで、その革命的突破の道がついに切り開かれた。全沖縄軍労働組合(全軍労、復帰後は全駐労沖縄地本に)の青年を先頭に基地労働者の決起が爆発し、特に最も戦闘的に闘った全軍労牧港支部青年部の労働者は、「死すべきは基地だ!労働者は死んではならない」と宣言し、「解雇撤回・基地撤去」を掲げて闘い抜いた。そして71年には、沖縄返還協定調印・批准阻止を掲げ2度の全島ゼネストが闘われた。
沖縄奪還を掲げた11・14渋谷暴動闘争
66年の第3回大会で「安保粉砕・日帝打倒」を70年闘争の課題に据えた革共同は、67年10・8羽田闘争を経て68年に「沖縄奪還」のスローガンを確立し、69年4・28闘争以降の闘いで沖縄現地の闘いと合流し、それ以降71年全島ゼネストに至る沖縄の大激動を切り開いた。米軍基地は不可侵の聖域ではなく、突入し破壊して当然の対象となった。
「沖縄奪還(永久核基地化反対、本土復帰・基地撤去)、安保粉砕・日帝打倒」を掲げた69年4・28実力闘争は破壊活動防止法(破防法)弾圧を乗り越えて闘われた。そしてペテン的な沖縄返還協定の調印・批准の攻撃に対して、沖縄の労働者人民の71年5月と11月の二つのゼネストに応えて、機動隊による厳戒態勢を突破し渋谷の街を労働者の解放区にして闘おうと全人民に呼びかけ、闘った。それが71年11・14渋谷暴動闘争だった。
渋谷暴動闘争は、沖縄返還協定の攻撃に対する最も先鋭で最も激烈な反撃の闘いだった。だからこそ、日帝国家権力は、その報復として星野文昭同志に死刑求刑・無期懲役判決の攻撃を加え、44年間の投獄の末に医療を放棄し殺したのだ。星野同志への有罪判決は、「警官殺害」の目撃証言をねつ造して強行した国家犯罪だ。
同様に大坂正明同志は、46年間の指名手配の後、逮捕・起訴され、2023年12月懲役20年の有罪判決。でっち上げを許さず、控訴審で覆さなければならない。
辺野古新基地建設など米軍基地の強化、米兵による性暴力の多発、そして自衛隊の南西諸島軍事要塞(ようさい)化の現実、総じて米日帝の中国侵略戦争に向かっての今日の全攻撃を見れば、54年前の返還協定に反対して星野同志や大坂同志を先頭に巨万の労働者人民が闘ったことの正義性はあまりにも明白だ。
