寺尾差別判決51カ年糾弾!第4次再審闘争勝利! 10・31狭山全国統一行動へ 中国侵略戦争絶対阻止部落解放・日帝打倒を 革共同部落解放闘争組織委員会

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週刊『前進』04頁(3418号04面01)(2025/10/20)


寺尾差別判決51カ年糾弾!第4次再審闘争勝利!
 10・31狭山全国統一行動へ
 中国侵略戦争絶対阻止部落解放・日帝打倒を
 革共同部落解放闘争組織委員会

(写真 8月の東京高裁包囲・糾弾デモ。青年・学生を先頭に闘った)


 極右差別主義者・高市早苗の登場は、米日帝国主義の中国侵略戦争を加速するものだ。日帝は中国・アジア侵略戦争のために国家体制の転換を進め、差別・排外主義を総動員しつつある。高市は天皇制と靖国神社を賛美し外国人排斥を扇動する反革命だ。狭山闘争の緊迫は、米日帝の中国侵略戦争をめぐる階級的激突情勢と一体である。革共同部落解放闘争組織委員会は日帝打倒の内乱的決起の先頭に立つ。そして東京高裁・家令和典裁判長の3月退官前の狭山第4次再審棄却を阻止するため全力で闘う。階級決戦に恐怖し反革命に転落した石田一派を絶対に打倒する。女性差別・性暴力を居直り、革共同と全国の党員を逆に差別者呼ばわりし、労働者を蔑視し、デマで欺く反革命を許さない。1974年10・31寺尾差別判決51カ年糾弾の狭山闘争を闘い、11・2全国労働者集会へ進撃しよう。

再審棄却策動を粉砕しよう

 現在の東京高裁・家令の再審棄却策動を粉砕し、第4次再審闘争に勝利するために、改めて狭山闘争の実相と狭山差別裁判糾弾闘争の核心を訴える。
 明確にすべき第一は、石川一雄さんが青天白日の無実であることだ。石川一雄さんは女子高校生誘拐殺害事件とは全く関係がない。事件が起こった1963年5月1日は西武園に遊びに行き時間をつぶし、夕方家に帰って家族とテレビを見ていた。「殺害―死体を埋めた」とされる時間、「脅迫状を届けた」とされる時間にも家にいた。でっち上げ「事件現場」付近で石川一雄さんを見た人は誰一人いない。遺留品から石川一雄さんの指紋は全く検出されていない。「自白に基づく物的証拠」とされた物は、すべてでっち上げだ。
 明確にすべき第二は、捜査―逮捕―取り調べ―裁判の一切が部落差別だということだ。事件の概略は63年5月1日、埼玉県狭山市で学校帰りの女子高校生が帰宅せず、自宅に身代金を要求する「脅迫状」が届いた。女子高校生の自転車は自宅に戻されていた。2日に身代金受け渡し場所で警察が犯人を取り逃がし、4日、女子高校生は死体で発見された。警察批判が巻き起こり「重要参考人」が自殺する中、7日、国家公安委員長が差別的「犯人像」と共に「生きた犯人を捕らえろ」と号令し、地域の被差別部落へ集中的見込み捜査が行われた。聞き込み、違法・不当な筆跡・血液採取が強行され、石川一雄さん宅にも21日に刑事が来た。筆跡鑑定に使う「上申書」を書かせる際に「こうやって書くんだ、と刑事さんが一雄の腕をもって書かせた」と父・富蔵さんは証言している。その後の全過程は権力の部落差別犯罪そのものである。
 第三に、日帝が部落差別をもって人民を分断支配しようとする悪辣(あくらつ)な攻撃が狭山差別裁判だということである。
 64年の二審冒頭、一審で死刑判決を受けた石川一雄さんが「俺はやっていない」と決起した。68年には「自白調書」のねつ造を示す「筆圧痕」が暴露された。何よりも69年11月の浦和地裁占拠闘争、70年安保・沖縄闘争の激烈な発展の中で、狭山闘争は大衆的実力闘争として展開していった。
 石川一雄さんの根源的な部落完全解放の訴えは、戦後部落解放運動の体制内的な地域改善運動の制約を解き放った。部落青年が存在と未来をかけて決起し、狭山闘争は学生・青年労働者を先頭とした広範な労働者人民の一大階級闘争となった。72年11月、裁判長になった井波七郎は早期結審を公言したが、革共同の「死闘の6カ月」宣言と労働者人民の怒りで直ちに打倒され、代わって登場したのが寺尾正二裁判長である。

部落差別判決を許さない!

 寺尾判決は初めから「石川有罪」の結論のために書かれた徹頭徹尾、部落差別に貫かれた判決であり、国家による究極の部落差別攻撃だ。74年当時、寺尾は再開公判で石川一雄さんの体調を気遣うそぶりを示し、「部落問題を勉強している」などと理解者顔で幻想をふりまき、体制内指導部を武装解除させる一方、証拠・証人・現場検証の事実調べの一切を退けた。
 石川一雄さんは危機感をもって「決戦を迎えしわれの生死かけ 日帝・寺尾と差し違えるわれ」と8月の革共同集会にアピールを寄せた。そして、9月26日の石川一雄さんの最終意見陳述の公判闘争には、日本の裁判史上最大の11万人が結集し東京高裁を包囲した。
 だが、10月31日、寺尾裁判長は狭山闘争の圧殺のため、機動隊・警察権力を裁判所周辺に配置し無期懲役判決を出した。判決は強制された「自白」のみに依拠し、「自白」の矛盾の一切を「被告人がその場の調子で真偽を取り混ぜて供述」と言って切り捨てた。石川一雄さんを「うそつき」呼ばわりした露骨な差別判決であり、絶対に爆砕しなければならない。77年、石川一雄さんは下獄の際、「真実と正義は必ず勝つ」とメッセージを結んだ。
 今日闘われている第4次再審闘争は勝利以外にはありえない。19年間の第3次再審闘争過程で、「決定的証拠」とされた被害者の万年筆がねつ造されたことを証明するインク鑑定は、寺尾判決を根底から粉砕している。万年筆は警察が家宅捜索の際に石川一雄さん宅に仕込んだものだと示され、権力犯罪を完膚なきまでに暴いたのだ。石川一雄さんの遺志を引き継ぎ、実力で再審を貫徹しよう! 家令裁判長の3月退官前棄却策動を粉砕し、何としても事実調べを行わせよう。

差別糾弾闘争の革命的意義

 部落差別の根源は日本帝国主義だ。狭山闘争こそ国家による部落差別への糾弾闘争であり、部落解放闘争を日本革命の戦略的課題とする決定的闘争だ。部落差別糾弾闘争は、単に差別者、差別事象の告発にとどまらない。被差別・被抑圧人民、労働者人民が差別者・差別事象と対決し徹底糾弾し、自らを縛る差別イデオロギー・抑圧体制から自己を解き放ち、変革の主人公として自己形成し、労働者人民自身が権力を奪いとる闘いだ。差別者を変革(打倒し獲得する)して、差別と戦争を不可避とする帝国主義を粉砕する闘いである。糾弾権は、被差別・被抑圧人民にとって社会を変革して生きる権利であり、これまでの社会のあり方を変える革命権なのだ。狭山闘争を階級的差別糾弾闘争として闘い抜こう。
 今日まで続く部落差別は、日帝の人民分断支配の攻撃である。世界史的には資本主義の帝国主義段階への移行期(その前段過程)に、徳川幕藩体制=封建制を打倒し絶対主義天皇制権力として出発した明治政府は、米英らの懐に飛び込む形で日本の近代化=資本主義化を急激に進めた。そして後発資本主義=帝国主義としての形成・確立(天皇制ボナパルティズム権力への移行)に向けてその資本制的収奪機構の不可欠の要素として部落・部落差別を温存=再編し、金融資本的な再生産構造に組み込むとともに、アジア侵略と国内支配のための国家権力による部落差別を再生産し動員したのである。
 部落対策の最初の措置である1871年の太政官布告第61号(「エタ解放令」)は、近代化=資本主義化の必要性から身分的称号を表面的にやめただけのものであり、むしろこれを機に戸籍制度を整え、戸籍簿に「新平民」「旧えた」と記載し、人民分断をより強力に再編・継続したのである。戦後、戸籍法が変わっても、運動の力で廃絶される1970年代まで差別戸籍は温存された。ロシア革命の息吹が米騒動の発生などに示されるように高まる中、内務省は1921年、被差別部落の地域を調査し「全国部落統計表」を作った。これが今日まで繰り返される「部落地名総鑑」による差別の元帳だ。結婚差別、就職差別も日帝の支配構造の一環だ。部落差別の根絶、部落解放は、天皇制と日帝を打倒し、共産主義を実現する中にこそある。石川一雄さんの遺志を引き継いでプロレタリア革命を絶対にかちとろう。
 全国各地で10・31狭山統一行動に立とう。革命勝利の決定的水路を開く10~11月の大決戦を闘おう。融和主義粉砕、部落解放・日帝打倒の革命的部落解放闘争路線を狭山闘争の勝利を通して再確立しよう。

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10・31狭山全国統一行動
■東京
 ▼10・27東京高裁包囲糾弾デモ・要請行動
 10月27日(月)正午 日比谷公園霞門
 ▼10・31狭山闘争・渋谷デモ
 10月31日(金)午後6時30分 渋谷区勤労福祉会館
 主催 部落解放東日本共闘/全国水平同盟杉並支部
■関西 10月25日(土)午後6時 豊崎西公園(地下 鉄中津駅下車徒歩5分) 集会後、梅田デモ
 主催 全国水平同盟/関西労組交流センター
■広島 10月31日(金)午後6時 広島市西地域交流 センター(いきいきプラザ)1階会議室
 主催 部落解放広島共闘会議
■福岡 10月30日(木)午後4~6時 JR小倉駅南 口デッキ アピール行動
 主催 北九州部落解放研究会

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