〈再録〉在日台湾人元日本兵 林歳徳さんに聞く 〝闘う日本人と一緒に闘う〟 団結し差別・排外主義と対決を
週刊『前進』04頁(3426号04面01)(2025/12/15)
〈再録〉在日台湾人元日本兵 林歳徳さんに聞く
〝闘う日本人と一緒に闘う〟
団結し差別・排外主義と対決を

(写真 林歳徳さん 在日台僑元日本兵。1918年5月23日、台湾・嘉義県生まれ。37年10月、日本軍に強制徴用。38年1月、南京大虐殺を目撃し、反戦逃亡。著書『私の抗日天命』【社会評論社】。2008年4月27日逝去、享年89)
以下は、日本軍軍属として強制徴用され南京大虐殺を目撃した台湾省出身の在日中国人、故・林歳徳さんの私たち闘う日本人へのメッセージです。(2000年4月の本紙1953、54号に掲載されたインタビュー・抜粋)
同年4月9日、石原慎太郎都知事(当時)が陸上自衛隊練馬駐屯地の式典で自衛隊員を前に行った「三国人」発言を断罪したものですが、これは「台湾有事は日本の存立危機事態だ」と公言し中国侵略戦争に踏み切った高市への断罪そのものです。
林さんと私の出会いは1970年代の激闘の渦中でした。林さんは「飲水思源、心懐祖国、誠心為人民服務」(水を飲むときには源を思い、胸には祖国を抱き、心から人民大衆に奉仕する)を生活憲法とし、闘う労働者人民に熱い心を寄せ、共にあり続けました。1972年、日本郵便逓送を労災事故で解雇された林さんは、その後、東急管財に入社し明治大学の守衛として実直に勤務しました。ところが82年に大学への家宅捜索に協力しないことを理由に突然解雇されました。解雇撤回を勝ち取りましたが、在宅勤務と称する出勤停止でした。この時、林さんの生涯を記録した『私の抗日天命―ある台湾人の記録』を林さんと編集・出版。林さんが主催する「日本のアジア侵略史を考える市民講座」を開始し、12年余をかけて、アジア侵略史を掘り起こしました。
「天皇制日本帝国ある限り、アジアに平和は来ない」と訴え続けた林さんは、私たちを日本の未来を切り開く「星火団」と呼び、闘いの場には常に共に闘う林さんの姿がありました。私は林さんを思う時、「天皇制日本帝国」をわが手で倒さなければならないと肝に銘じています。
(入管法と民族差別を撃つ全国実行委員会・十亀トシ子)
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私は南京大虐殺を見た
揚子江に数珠つなぎの死体
石原慎太郎は、南京大虐殺はウソだ、数がウソだと言っている。彼が言っていることはデタラメ。なぜデタラメかというと、彼は南京大虐殺の現場も見ていないし、調査もしていない。私は1937年10月、19歳で軍夫として強制徴用され、台湾の湖口の練兵場で訓練を受けていた。38年1月15日、出発前日に漢口攻略に行くとわかった。しかし上海に上陸すると、急きょ南京に向かって歩き出した。南京に着いたのは1月下旬で、日本軍が南京を陥落させた12月13日からは1カ月以上たっていた。
私が現地で見た時、南京城の内側、外側、揚子江の堤防や港に死体がいっぱい山と積んであった。それよりもっと恐ろしかったのは、揚子江に数珠つなぎで、中国人の死体が24時間連続して海に向かって流れていたことだ。
死体を処分できない。できるわけないんですよ。全部殺した、殺し尽くした。南京大虐殺は、3軍9個師団の日本軍の総攻撃による完全な三光政策だった。
推定では40万人
いったいどれほどの中国人が殺されたのか。正確な数はわからないが、私の考えでは、40万人は殺されているはずです。私は88年に北京に行った時、その当時中国の首都である南京にどれくらいの人口がいたのか、調べた。当時の南京は百万の人口がある。さらに日本軍に攻められて、多くの人が南京城内に逃げ込んだ。そこに37年12月13日、日本軍が総攻撃して入った。
その時、南京の城の中は逃げた人間でいっぱいなんだ。そこを機関銃やら爆弾やらで全部殺したわけだ。全滅に等しい。この実態を見なければならない。
天皇の三光作戦
南京大虐殺の実行部隊の総指揮官は、中支方面軍の松井石根大将だ。これは第11代台湾軍司令官で鬼将軍で有名。このもとに第10軍と上海派遣軍があった。第10軍の柳川平助中将は第13代台湾軍司令官。これも鬼将軍ですよ。そして上海派遣軍が皇族将軍の朝香宮鳩彦中将だった。南京攻略は、この3軍9個師団で行われた。南京攻略作戦の前に天皇裕仁は松井と朝香宮を呼んで、首都南京を徹底的につぶせと言っている。それで南京に降り立った朝香宮の第一声が、「中国人の捕虜を全部殺せ」という命令だった。この虐殺の責任は天皇裕仁にある。
なぜ鬼になった 南京城の揚子江側にある門を一つだけ開けておいた。ここから揚子江に逃げてくる。門を出た所で機関銃隊が、両方から皆殺しにするわけだ。当時、機関銃隊隊員で、戦犯で帰ってきた人が証言している。
その彼が書いた本を私にくれた。戦犯になって反省して鬼から人間に返ったと書いてるが、なぜ人間が鬼になったのかを書くべきだと、私は批判した。なぜなら、裸で生まれた時はみんな善良であった。ところがその善良な日本人が、侵略魔天皇制日本帝国という組織管理と組織的教育、管理と教育によって天皇の軍隊として、天皇の銃を持って、天皇の帽子をかぶって南京に行って、殺したのと違いますか。
私も台湾で、日本は神の国であると教えられた。神国日本の中国侵略のことを、悪い中国人を懲らしめるために、日本が助けに行ったのだと教えられた。
それで私は徴用されて、南京の虐殺現場を見て、これが神国日本の聖戦ということを初めて知った。
私が脱走を決意したのは、侵略戦争もある程度しずまって、家宅捜索に出た時のことだ。
老女殺され、反戦脱走決意
私は上等兵と2人で大きい百姓家に入った。上等兵は左から、私は右から入った。するとおばあさんが5カ月ぐらいの赤ちゃんを抱いていて、土間に頭をつけて助けてくれって言うんだ。そのおばあさんが顔を上げた時びっくりした。顔の形、輪郭が私のお母さんそっくり。とにかく僕は、2人をかめの奥に隠してすぐに飛び出して、上等兵に「異常ありません。行きましょう」って報告した。庭まで出たら、赤ちゃんが泣いたんだ。「きさま異常ないって言って、いるじゃないか」と殴られた。私は「おばあさん歩けないし、赤ちゃん、敵にならない」と言ったが、「このばあさんは連絡員になる。赤ん坊は大きくなったら八路軍になる」と、今度は銃床で殴られ立てなくなった。
それで上等兵が、おばあさんと赤ちゃんをそのままくし刺しだよ。悲しかった。あの晩、兵舎に帰って一晩眠れなかった。なんとかして逃げようと、反戦脱走を初めて決意した。けれど逃げるに逃げられない。
38年10月に漢口陥落、私たちは南方へ回されることになり、台湾の高雄で待機した。その時に3日間の休暇をもらって帰った。その晩に母が発熱、母も父も私の帰りを待っていたように死んだ。その場から弟と東京に逃げた。
これが、皇民化された私が、日本軍隊員として聖戦に行ったいきさつ。だから南京の現場を忘れることができない。
俺は忘れない!
今、日本の国民はこの歴史の真実を知らないという。俺は知ってる。俺は忘れない。だから、「日本国臣民と国民が『知らない・忘れた』と頑張っても、中国人の心には『知ってる・忘れない』!」と書いたビラをまいている。南京大虐殺を反省もしないで、さらに戦争をふっかける石原という野郎、承知しない! こういう大罪人は中国の言葉で、「罪不容誅」という。犯した大罪は、殺してもなお足りない。大罪人です。
私たちはどうすればいいか。私は、闘う日本人といっしょに命ある限り闘う。
戦後、台湾人・朝鮮人を襲撃
〝発言〟は計画的
4月9日、石原慎太郎は自衛隊を前にして「三国人が凶悪犯罪を繰り返している。大災害が起きた時には大きな騒擾(そうじょう)事件すら想定されるから治安出動せよ」と言った。石原は(朝鮮人・中国人を)殺すためにデタラメを言っているんだ。関東大震災の時はデマを流したが、今度の石原発言は計画的だ。偶然じゃない、デマじゃないから、そこが恐ろしいんですよ。
これを言った人間は、日本帝国首都である東京都の知事だ。都知事が、計画して、自衛隊に治安出動を要請すると言ったわけだ。石原はけしからんけれども、その石原を育てた土壌がある。その土壌、すなわち石原を選んだ都民の責任があるんだよ。これを僕は言いたい。侵略魔石原を辞めさせるのは、都民の、日本人の責任である。
戦後、在日台湾人を追い返す大弾圧があった。そのころ僕は新橋駅の近く、烏森口の桜田小学校の脇で長靴を並べて売っていた。
1946年6月に起きた新橋事件、その延長に渋谷事件が起きて、露天商をしていた台湾人が5人殺された。警察公認のヤクザの仕業だった。被告は台湾人だけで、日本人は裁かれなかった。裁判も傍聴したが、有罪となった者は全員、台湾に強制送還された。
戦後、旧植民地出身の台湾人・朝鮮人は「第三国人」と呼ばれ、「日本から追い出さないと暴動が起きたら大変だ」と言われた。日本語ができるし、天皇制日本帝国の罪状を知っている。だから恐れたんだ。
まずGHQの力を借りて船で送り返したけれど、俺たちみたいに居残っているでしょ。今度は徹底的にいじめるわけだ。そのいじめ方が入管令だ。
法務省入国管理局の参事官だった池上努が、「在日外国人は、煮て食おうと日本の勝手だ」と言った。彼は正直だよ。なぜ正直かというと、根拠がある。それは入管令24条。そこにイロハのイからヨまで15項目に該当すれば退去強制できるとある。失業しても、病気になっても、全部対象だ。これは少し変わっただけで今も入管法に残っている。石原もひどいが、池上はもっとひどい。われわれを食うと言っているんだよ。なぜこれを問題にしないか。
小さい火種でも
私は祖国に帰れない、故郷に帰れない。さんざん痛めつけられ、苦しめられて日本にいる。私は闘う日本人といっしょに闘う。21世紀は、私たち闘うアジア人民の21世紀だ。今82歳だがまだまだ闘う。中国の言葉でこういう言葉がある。「星々之火烈燎原 団結就是力量」——小さい細々の火種でも、やがて大きい平野を焼き尽くすことができる。今、闘う日本人は少ないけれど、いっしょに団結すれば、団結は大きな力になる。私はこういう精神で日本人といっしょにやっている。