■マルクス主義・学習講座 労働組合と国家――資本主義国家と闘う労働組合(9) 丹沢 望

月刊『国際労働運動』48頁(0460号04面01)(2015/01/01)


■マルクス主義・学習講座
 労働組合と国家――資本主義国家と闘う労働組合(9)
 丹沢 望


目 次
はじめに
第1章 労働者と国家の闘い
   ・階級対立の非和解性の産物としての国家
   ・国家に対する階級闘争の歴史
   ・革命の主体、労働者階級の登場
   ・マルクスの労働組合論(以上、4月号)
第2章 労働組合の発展史
   ・初期の労働者の闘いと国家による弾圧
   ・マルクスの労働組合論
   ・パリ・コミューンと労働組合
   ・サンジカリズムの台頭(以上、5月号)
   ・ロシア革命と労働組合
   ・30年代のアメリカ労働運動(以上、6、7月号)
   ・労働者階級の自己解放闘争と労働組合(以上、9月号)
   ・暴力について
第3章 パリ・コミューンと労働組合
   ・労働組合と革命(以上、10月号)
   ・コミューン時代の労働組合
   ・労働の経済的解放(以上、11月号)
第4章 ロシア革命と労働組合
   ・05年革命とソビエトの結成(以上、12月号)
   ・12年プラハ協議会の決定的意義
   ・1917年2月革命と労兵ソビエトの設立(以上、本号)
   ・労働者国家を担う労働組合

05年革命とソビエトの結成(つづき)

▼血の日曜日
 05年1月22日は午後2時に冬宮(ロシア皇帝の宮殿)前に集まることになっていた。工場街にある組合各支部から労働者が冬宮を目指して朝から行進を始めた。ガポンは先頭に立った。参加者の総数は10万人近かった。市内要所に軍隊が配置され、阻止線が張られていた。行進が阻止線に来ると騎兵に蹴散らされ、なおも進もうとすると一斉射撃が浴びせられた。非武装の労働者は次々と銃弾に倒れた。死者千人、負傷者4千人と言われる。
 それは、階級激突が極限的に行き着くところに行ったことを鮮明に示した。皇帝への幻想が一挙に打ち砕かれた。プロレタリア革命の火ぶたが切られた。
 レーニンは、この事態に直ちに態度表明を行った。
 「きわめて偉大な歴史的事件がロシアにおこっている。プロレタリアートはツァーリズムに反対して立ちあがった。プロレタリアートは政府によって蜂起に駆りたてられたのだ。......何千もの死者と負傷者――これがペテルブルグにおける一月九日(旧暦)の血の日曜日の総決算である」(レーニン「ロシアにおける革命の始まり」レーニン全集第8巻)
 翌23日からストライキは全国に広がり、1月だけでもスト参加者は44万人に達した(それまでの10年間のスト参加者は43万人)。
 レーニンは4月にロンドンでロシア社会民主労働党第3回大会(ボルシェビキ単独)を開いた。ここでレーニンは、05年革命の前半を総括し、ロシア革命の政治的戦術を決定した。プロレタリアートと農民の革命的民主主義的独裁論である。
 「プロレタリアートは、実力で専制政府の抵抗をおしつぶし、ブルジョアジーの動揺性に左右されないようになるため、農民大衆を味方にひきつけて民主主義的変革を最後まで遂行しなければならない。プロレタリアートは、実力でブルジョアジーの抵抗をおしつぶし、農民と小ブルジョアジーの動揺性に左右されないようになるため、半プロレタリア大衆を味方にひきつけて社会主義的変革をやりとげなければならない」(『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』)。
 大会で、プロレタリアートがブルジョアジーから革命の主導権を奪うためには労働組合を党の支柱にしなければならないことが鮮明に提起された。全党が労働組合活動に突入し、各地区組織が大量の党員を工場に送り込み、労働組合を結成した。
 大会ではさらに武装蜂起が中心議題となった。ツァーの専制支配を打倒することはロシアの民主主義革命の任務であるが、そのためには暴力革命が必要であり武装蜂起に勝利しなければならない。大会はレーニンが起草した武装蜂起についての決議を採択した。ただ、この大会での武装蜂起の決議は、武装蜂起と労働組合と労働組合運動の関係について触れることができなかった。
 この問題の回答は、05年革命における労働運動の発展がソビエトを生み出すことによって、さらにソビエトが武装蜂起の機関になることによって実践的に明らかになった。
 5月以降、労働運動の発展につれてツァーは、労働者の圧力のもとで部分的にであるが労働者が労働組合を組織することを認めざるをえなくなった。いち早く合法的な地位を獲得した労働組合は、ペテルブルグの印刷労働組合であった。これを機に合法的な労働組合が次々に結成された。
 日露戦争の大敗に見られた帝政の腐敗への怒りも爆発し、労働者のストライキとデモが猛烈な勢いで前進し、一部の地方の政治デモとストライキが武装蜂起へと発展していた。労働者の労働組合結成への要求はますます高まっていた。労働運動の高揚、日露戦争の敗退は、陸海軍を大動揺させ、軍隊内の革命的機運を高めた。6月、戦艦ポチョムキンの水兵の反乱が起きた。戦艦ポチョムキンはオデッサに入港し、労働者階級人民との結合を求めた。プロレタリア革命における労働者階級と軍隊との結合が現実のものとなった。
 10月、ペテルブルグの労働者は港湾、造船、木工、皮革など40あまりの労働組合を建設した。モスクワでは50を超える労働組合、オデッサでは30を超える労働組合を建設した。労働組合がひとつの重要な政治勢力として登場したのである。
 10月冒頭、ロシア社会民主労働党モスクワ委員会は、モスクワで政治ゼネストを行うことを決定した。ゼネストは全ロシアを席巻した。
 10月中旬には、ゼネストのなかでペテルブルク、モスクワなどを始めとして、初めての労働者ソビエト(労働者評議会)が結成された。これは労働者の自己権力であり、パリ・コミューンを引き継ぐものだった。専制政府に対抗する労働者の権力であった。
 革命の恐怖におののいたツァー政府は10月17日、言論、集会、結社の自由、人格の不可侵を認めた。さらに「ロシア議会を開設する」との詔書を発表した。空約束で革命の波を押しとどめようとしたのだ。
 ペテルブルクのソビエトはトロツキーが指導していたが、12月3日に、ツァー国家権力の弾圧によって解体された。モスクワのボルシェビキは、武装蜂起の方針を決め、その方針に従って12月7日にモスクワ・ソビエトが政治ゼネストに突入し、15万人がストライキ、街頭デモに進出し、警官隊と激突した。政府は軍隊を動員し、労働者はバリケードを1千カ所に築き武装蜂起した。戦闘は9日間続きモスクワ・ソビエトは敗北した。
 レーニンは「一九〇五年の春にはわが党は地下のサークルの連合体であったが、秋にはそれが、何百万というプロレタリアートの党になっていた」と述べている。
 05年革命は、来る17年のロシア革命本番のリハーサルであった。05年革命があったから17年革命に勝利できた。レーニンは05年革命をあらゆる意味で徹底的に教訓化した。
 ボルシェビキは再び非合法化されたが、必死で工場内に非合法・非公然の前衛党の細胞をつくり、非公然的に労働者を組織し、労働運動を発展させようとした。

12年プラハ協議会の決定的意義

 1912年1月、プロレタリア世界革命に向かっての闘いにおいて決定的な一歩が踏み出された。プラハ(現在のチェコ共和国の首都)で開かれたロシア社会民主労働党第6回協議会(12年プラハ協議会)である。レーニンは亡命先のスイスのチューリヒから参加した。
 05年革命に対するロシア・ツァーリズムの帝国主義的反動の大破産、飢餓と失業者の増大に現れた社会経済危機、1910年末に始まった労働運動の再高揚という情勢の中、12年1月に3年ぶりの党協議会(党大会に準ずる)が開かれた。
 03年の大会以来、ボルシェビキとメンシェビキは、レーニンとマルトフの党規約をめぐる論争(民主的中央集権主義か、否か)を通して決定的に対立していた。この12年プラハ協議会において、レーニンはメンシェビキとはっきりと決別した。ボルシェビキ党として、革命党として自らを確立する道の第一歩を踏み出した。
 レーニンとボルシェビキは、一方で非合法党を解散しようと主張するメンシェビキの解党主義、他方で革命的議会主義を放棄し「第3国会から社会民主党議員を召還せよ」と主張するボルシェビキ内召還主義の二つの傾向と闘い、メンシェビキなどと最後的に決別し、自己を党として確立する協議会をかちとった。協議会は、現在の情勢における「革命的危機の成長」を確認し、「農民を率いるプロレタリアートによる権力の獲得」をめざすことを宣言した。協議会は「現情勢と党の任務についての決議案」で、「ありとあらゆる合法的可能性を、いままでよりも広く利用し、プロレタリアートの経済闘争を指導する能力をもち、プロレタリアートのますます頻繁になる政治的進出を一手に指導することのできる、ボルシェビキ党の非合法組織を再建するために強力に活動する必要がある」と特別決議を上げた。労働運動に猛然と進撃し、メンシェビキ、エスエル(社会革命党)との労働運動をめぐる党派闘争に勝利していった。
 プラハ協議会で、ボルシェビキは、①解党主義に勝ち抜き単一のボルシェビキ党を確立したこと、②党と労働組合の一体的闘いへの決起が確認されたこと、③帝国主義への革命的大衆行動として「飢餓との闘争」が提起されたこと、④第4国会選挙闘争への決起が訴えられたこと、⑤機関紙活動(特に合法日刊紙「プラウダ」の創刊を決定)の意義が強調されたこと――これらの点で重要な意義をもち、1917年のロシア革命の勝利に直結する出発点となった。
▼労働運動の大衆的高揚
 12年4月のシベリア・レナ金鉱のストライキ労働者170人の虐殺は、全ロシア・プロレタリアートの抗議ストライキの嵐を呼び起こした。労働運動の革命的高揚は、第1次世界大戦が開始されるまで2年間にわたった。
 「一九一二―一九一四年代は、ロシアにおける新しい壮大な革命的高揚のはじまりを意味した。われわれは、ふたたび世界未曽有の偉大なストライキ運動の目撃者となった。大衆的な革命的ストライキは、一九一三年に最低に見積もっても一五〇万人の参加者をまきこみ、一九一四年には参加者は二〇〇万人をこえ、一九〇五年の水準に迫った」(レーニン『社会主義と戦争』)
 そして、1914年、第1次世界大戦の勃発に際し、第2インターナショナルの社会排外主義、祖国防衛主義への転落に反対して、レーニンとボルシェビキは「帝国主義戦争を内乱へ」の路線を鮮明に掲げ、ロシア革命を勝利に導いた。
 ロシア革命はなぜ勝利できたのか。それはツァーリズム下での非合法・非公然の闘いの試練などに耐えて鍛えられ生き残った党が、プラハ協議会以降、メンシェビキと決別し、労働組合・労働運動と結びつき、それと一体的に密着して闘う拠点をつくり、まさに労働組合・労働運動に内在した強固な勢力・潮流として根を張り、革命的情勢の到来の中で正しい指導性を発揮して闘ったことによってである。革命的情勢に「革命的階級の能力」、具体的には闘う労働運動とそこに強固に内在した党の闘いが結びついた場合にのみ、革命は勝利できることを教えている。
 実質的な党大会である党協議会の次の第7回が開かれたのは17年2月革命後の4月(レーニンが4月テーゼを提起)である。

1917年2月革命と労兵ソビエトの設立

 1917年2月23日(グレゴリオ暦3月8日)、首都ペテルブルグで国際婦人デー闘争が行われ、繊維産業の女性労働者がストライキを決行し、街頭デモをした。デモは数万人規模にまで拡大し、さらに市内の労働者の大半が参加するまでになった。皇帝ニコライ2世はデモを鎮圧するよう命令した。26日、市内中心部のネフスキー大通りのデモに警官隊が発砲し、労働者市民に多数の死傷者が出た。
 ツァーの大虐殺に怒りが高まり、軍隊の反乱が始まった。反乱兵の規模は数万人に達していた。反乱兵と労働者は内務省・軍司令部・警備隊司令部・警察・兵器庫などを襲撃し、武器を手に入れていた。27日にはモスクワで、3月初めには他の都市でも革命が始まり、軍の部隊もそれに同調しつつあった。
 2月27日にペトログラート労働者兵士代表ソビエトが結成され、ブルジョアジーは対抗する国会臨時委員会を成立させた。3月2日に国会臨時委員会がつくった臨時政府が樹立され、ロシア皇帝ニコライ2世が退位し、人民の憎しみの的、ロシア帝政はここに打倒された。
 ソビエトは、ブルジョアジーの臨時政府との協調路線をとった。臨時政府は、これまで通り帝国主義戦争を継続し、ブルジョアジーと地主の機関という本性をさらけ出した。
 革命の口火を切った女性労働者の決起は、一見すると自然発生的決起のように見えるが、実際には、ボルシェビキの地区党の指導の下に、職場での闘いを積み重ね、強い団結をつくり上げていた労働者の組織的な決起だった。この決起が拠点地区全体に伝わり、さらに全市の労働者が呼応した巨大な闘いとなり、首都を防衛する軍隊のほとんどすべてが労働者の闘いを支持して反乱を起こすことで首都での革命が勝利した。
 軍隊の反乱は労働者による日常の軍隊に対する組織活動の結果であった。もともと軍の兵舎は労働者の闘いを抑え込むために、労働者地区に隣接して設置されていた。工場にも労働者を抑え込むために兵士が配置されていた。その結果、その多くが農民出身である兵士と労働者の交流が密になり、兵士は労働者に日常的に獲得されていった。そして2月の労働者の決死の決起が兵士を最後的に獲得した。
 だが、それは全体としてみれば、いまだ自然発生的決起であり、労働組合がまだ禁止されているなかで、革命的に組織された女性労働者の必死の呼びかけにこたえる形での労働者の決起であった。したがって、それは資本や国家権力との組織的な闘いのなかで政治的に試練を受けた労働者の闘いではなく、革命をどのように発展させていくべきかについても明確な展望を持ったものではなかった。
 だから、2月革命に勝利した労働者は、国家の問題についてさまざまな幻想をもっていた。ブルジョア自由主義者と右派社会主義者の連合によってつくられた臨時政府を容認し、メンシェビキや社会革命党などが主流派のソビエトを選出したのも、労働者がまだ労働組合内での闘いを経て革命に向かっての政治的理論的武装を成し遂げていなかったからだ。
(以上第9回)