マルクス主義・学習講座 労働組合と国家――資本主義国家と闘う労働組合 (10)最終回 丹沢 望

月刊『国際労働運動』48頁(0461号04面01)(2015/02/01)


マルクス主義・学習講座
 労働組合と国家――資本主義国家と闘う労働組合 (10)最終回
 丹沢 望


目 次  
はじめに
第一章 労働者と国家の闘い
   ・階級対立の非和解性の産物としての国家
   ・国家に対する階級闘争の歴史
   ・革命の主体、労働者階級の登場
   ・マルクスの労働組合論(以上、4月号)
第二章 労働組合の発展史
   ・初期の労働者の闘いと国家による弾圧
   ・マルクスの労働組合論
   ・パリ・コミューンと労働組合
   ・サンジカリズムの台頭(以上、5月号)
   ・ロシア革命と労働組合
   ・30年代のアメリカ労働運動(以上、6、7月号)
   ・労働者階級の自己解放闘争と労働組合(以上、
    9月号)
   ・暴力について
第三章 パリ・コミューンと労働組合
   ・労働組合と革命(以上、10月号)
   ・コミューン時代の労働組合
   ・労働の経済的解放(以上、11月号)
第四章 ロシア革命と労働組合
   ・05年革命とソビエトの結成(以上、12月号)
   ・12年プラハ協議会の決定的意義
   ・1917年2月革命と労兵ソビエトの設立(以上、1月号)
   ・労働者国家を担う労働組合(最終回、本号)

労働者国家を担う労働組合

▼レーニンの「4月テーゼ」
 4月3日、亡命先のスイスから、途中のドイツ(ロシアと戦争していた)を「封印列車」(列車外に出られないようにされていた)に乗って通過して帰国したレーニンは、ペトログラードのフィンランド駅で歓迎する労働者に向かって次のように演説した。
 「強盗的帝国主義戦争は全ヨーロッパにおける内乱の始まりである」
 「同志カール・リープクネヒト(ドイツの革命家)の要請に応じて、ドイツの人民が彼らの武器を彼らの資本家的搾取者に向けるときは遠くはないであろう。いつの日か、たとえそれが今日もしくは明日でなくとも、ヨーロッパの帝国主義全体が壊滅する日は来るだろう。諸氏が成し遂げたロシア革命は、それを開始し、新しい時代を開いた。全世界にわたる社会主義世界革命万歳!」
 この演説は、ロシアの現段階の革命はブルジョア民主主義革命であると思い込んでいたボルシェビキの労働者を驚かせた。レーニンは、現在進行中のロシア革命は、プロレタリア革命であり、社会主義革命であり、世界革命であることを力説したからだ。
 翌日(4日)、レーニンは自らの見解をまとめて党に提出した。これが「4月テーゼ」(「現在の革命におけるプロレタリアートの任務」)である。
 この内容は以下のようなものであった。
①戦争と平和の問題について。
 戦争は臨時政府のもとでもいまなお帝国主義的強盗戦争であるから「革命的祖国防衛主義」にいささかでも譲歩することは許されない。資本を倒さなければ、真に民主的な講和で戦争を終わらせることはできない。
②国家権力の問題について。
 「ロシアにおける現在の時期の特異性は、プロレタリアートの自覚と組織性とが不十分なために、ブルジョアジーに権力を渡した革命の初期の段階から、プロレタリアートと貧農層の手中に権力を渡さなければならない革命の第2の段階への過渡ということにある」とした。
 二重権力(ブルジョアジーの権力である臨時政府と、プロレタリアートの権力であるソビエトが両立)が革命主体(プロレタリアート)の立ち遅れによって生じたことを指摘し、プロレタリアートの変革を通してソビエトが臨時政府支持政策をやめ、全権力をソビエトに集中させ、プロレタリア独裁(=社会主義革命)を打ち立てるべきだと主張しているのだ。
 コミューン型国家としてのソビエト共和国を建設すること、すなわち「警察、軍隊、官僚の廃止(常備軍を廃止し、武装した人民で置き換える)」「官吏はすべて選挙され、いつでも変えることができるものにし、その俸給は熟練労働者の平均賃金を超えないようにする」ことが提案された。 ③「土地、パン」の課題について。
 土地国有化と雇農・農民代表ソビエトによる土地の処理、統合された全国的銀行と社会的生産と生産物の分配への労働者代表ソビエトによる統制によって解決する。
 ひとことで言えば、「すべての権力をソビエトへ!」のスローガンに集約される。一切はボルシェビキがソビエトのヘゲモニーを握ることにかけられた。
 4月テーゼをめぐる党内論争が始まり、4月14日のボルシェビキ・ペトログラード全市協議会で、レーニンの提案が賛成多数で承認された。
 レーニンは、革命の最初の段階でロシアの「国家権力はブルジョアジーの手に移った......この段階で、ロシアにおけるブルジョア革命またはブルジョア民主主義革命は終了した」と明言した。そして旧来の公式である労農民主独裁論を捨て去ることを求めた。
 労農民主独裁論は、05年ロシア革命の際に、レーニンが「民主主義革命における社会民主党の二つの戦術」で確立したものだ。
 それは、ロシアのプロレタリアートは、ブルジョアジーのヘゲモニーを許さず、プロレタリアートと農民全体との同盟である革命的民主主義的独裁のもとでブルジョア民主主義革命を達成し、プロレタリアートは農民の半プロレタリア分子の支持とヨーロッパの社会主義革命の援助を得て社会主義革命を完成させていくというものだった。
 しかし2月革命の現実はそれを超えていた。
 事実として「労働者・兵士代表ソビエト」の存在によって「プロレタリアートと農民の革命的民主主義的独裁」はすでに達成されていた。
 二重権力と言っても、首都ペトログラードでは、権力は事実上、労兵ソビエトの手中にあった。それはパリ・コミューン型国家の特徴を備えていた。
 ゆえに問題は、労兵ソビエト内部でプロレタリア的分子が小ブルジョア的分子から分離し、多数派となって主導権を握り、このような組織的闘いを通じて国家権力をブルジョアジーの臨時政府から労兵ソビエトに移行させることだった。これが社会主義革命であり、プロレタリア独裁国家の樹立であった。
 この4月テーゼの路線を4月末の社会民主党協議会で確認した。
▼『帝国主義論』の意義
 レーニンの4月テーゼの核心には「帝国主義論」の確立があった。レーニンは第1次世界大戦におけるドイツ社会民主労働党の裏切りと第2インターナショナルの崩壊を教訓として、世界革命の勝利をかけた実践的=理論的な闘いとして帝国主義の研究を進めた。
 1916年春に『帝国主義論』は書かれた。
 『帝国主義論』は、帝国主義段階におけるプロレタリア革命=世界革命の理論を基礎づける政治的・軍事的・経済的分析であり、「戦争と革命の時代」に生きるプロレタリアートの基本的な時代認識の土台である。
 帝国主義論は、帝国主義戦争を不可避とする帝国主義を「死滅しつつある資本主義」「社会主義革命の前夜」と規定している。帝国主義戦争の爆発が世界危機と革命情勢を成熟させることを明らかにした。革命党とプロレタリアートの戦略的任務として帝国主義戦争の内乱への転化、帝国主義の打倒、プロレタリア革命を提起している。
 レーニンは、第1次世界大戦において、祖国防衛を掲げて戦争協力に走った第2インター諸政党を批判したが、『帝国主義論』は、彼ら社会排外主義者の祖国擁護派への転落とその経済的基礎を明らかにし、帝国主義戦争の不可避性を論証することを通してカウツキーの超帝国主義論(帝国主義は相互に融和できるとし帝国主義戦争は不可避論に反対した)を粉砕した。
 この『帝国主義論』を持って、レーニンは17年2月革命に登場した。
▼『国家と革命』の意義
 『国家と革命』の内容は本学習講座のテーマであり、随所で繰り返し述べてきた。
 『国家と革命』は17年2月革命後、10月革命直前の8~9月にかけて執筆された。
 『国家と革命』の意義は国家とは階級対立の非和解性の産物であり、支配階級の階級支配の機関であること、ブルジョア国家とはブルジョアジーの階級独裁にほかならないというマルクス主義国家論の基本点を明らかにした。
 そしてプロレタリア革命はブルジョア国家(ブルジョア独裁)を粉砕する暴力革命として貫徹されること、ブルジョア国家を粉砕した労働者階級人民は、プロレタリアートの独裁(徐々に死滅していくように組織された労働者国家=プロレタリア民主主義)という政治形態のもとでの過渡期を経て、共産主義社会へ移行すること、これを開始したロシア革命の実践的・具体的な課題として提起している。
 レーニンは、「帝国主義論」とまだ執筆はされていなかったが「国家と革命」の内容をもって、2月革命を迎えたのである。
▼すべての権力をソビエトへ
 ボルシェビキが「4月テーゼ」の立場に明確に立った時に、ソビエト主流派のメンシェビキ、社会革命党(エスエル)は路線的動揺を深め、ついにブルジョア臨時政府に入閣した。敵陣営に移行したのだ。
 第1回全ロシア労兵ソビエト大会(6月3日~24日)では、中央執行委のメンバー構成は、メンシェビキ107、社会革命党102、ボルシェビキ35であった。
 一切の鍵は、労働組合の下に団結した労働者が、日々の資本および国家との闘いのなかで、革命的政治意識を獲得していくことができるか否かにあった。労働組合の建設が最重要の課題となった。
▼工場委員会の決定的意義
 ボルシェビキは、革命的情勢下で再び合法化された労働組合を、全力を投じて続々と結成した(6月末には140万人が労働組合や工場委員会に組織)。
 同時にボルシェビキは、工場単位で「工場委員会」という組織を作り、資本家や政府との闘いを全面的に展開した。労働者が資本家や政府との闘いを直接経験し、そのなかで政治意識を高め、正しい政治的判断ができるようになるには、なんとしても労働組合の中で団結して集団的に闘う必要があったのだ。労働組合という〝るつぼ〟の中でこそ、革命的労働者が育つということを、ロシアの前衛党はしっかりと把握していた。
 この闘いにおいて、工場委員会の闘いは特別の重要性を持った。工場委員会は工場の全労働者が参加する組織であり、全国各地で労働組合がない工場や所属する労働組合が日和見主義的な工場でも作られた。2月革命後、街頭闘争から職場に戻った労働者たちは、この工場委員会に結集して、8時間労働制の要求、反動的職員や管理者の追放、労働者や職員の任免権の獲得によって職場での資本との本格的闘いに突入した。
 2月革命で帝政は打倒されたが、資本家の支配が打倒・一掃されたわけではない。資本家は、臨時政府と連携してなんとか生き残ろうとしており、労働者階級による職場の支配を絶対認めない立場に立っていた。国営企業も私企業も、労働者による職場支配権の獲得に抵抗し、サボタージュやロックアウトと、革命的労働者の解雇、物資の隠匿、機材の撤去、移転、生産活動の停止などによって、革命的労働者の闘いを解体しようとしていた。
 労働者は生産が停止されれば、たちまち生活できなくなるばかりか、餓死の危険に直面する。だから労働者は、自己防衛のためにも、労働者自身の管理の下で生産を継続しようとしたのだ。労働者たちはそれを妨害する資本家たちは打倒されなければならないということを、工場委員会の下での職場の闘いによって強く感じるようになっていった。
 工場委員会に結集した労働者はこういう闘いに敵対する資本家や国営企業の管理者と対決しつつ、資本家による職場支配権を容認し、臨時政府の戦争継続政策を支持していたメンシェビキや社会革命党とも闘う必要があるということも認識し始めた。(メンシェビキはブルジョア革命論の立場から資本家の支配を容認していた)
 工場委員会は、既成の御用組合やメンシェビキなどの日和見主義的指導下で新たに設立された労働組合による労働者の闘いの抑制と対抗する決定的テコとなった。工場単位での闘争組織として形成された工場委員会は、現場の労働者の政治的・経済的要求をストレートに反映し、各工場の圧倒的多数の労働者の意思を体現して、産別中央指導部の日和見主義的指導をはね返して現場での闘いを戦闘的に展開した。
 当初、鉄道、教員、郵便、印刷、銀行などをはじめとする多くの労働組合の中央指導部のかなりの部分はメンシェビキや社会革命党によって占められていた。メンシェビキが、1905年の革命以降、合法的労働運動路線に転換し、17年に至るまで体制内労働組合を一定維持し、17年2月革命以降もその影響力を駆使して新たな労働組合を結成することができたからだ。
 だから既成の労働組合にだけ依拠して労働者階級を革命に組織することは困難であった。ボルシェビキはこういう事情を考慮し、工場という現場で労働者を直接的に組織する工場委員会を重視したのであった。
 だから工場委員会の闘いは、常に労働組合の中央指導部やソビエト指導部から妨害を受けたが、現場労働者は、職場での闘いの蓄積のなかで資本家や資本家と協力しているソビエトや労働組合中央指導部の反革命性を次第に見抜く力をつけていった。
▼ペトログラート市工場委員会の第1回協議会
 5月30日、元国会会議場であったタブリーダ宮殿で本当の労働者議会が開かれた。ペトログラートの367の工場委員会を代表する568人の労働者が参加した。労働者33万7464人を代表(ペトログラートの全工場労働者は当時46万人)した。この協議会ではボルシェビキが優勢を占めた。この会議で工場委員会が革命運動の重要な一環に位置づけされ、全国的に計画的・系統的に工場委員会運動が展開されるようになる。
 主要決議をレーニンが執筆し、ジノビエフが基調報告を行った。
 ボルシェビキは05年以降の労働組合の非合法化時代に、非合法の労働運動を必死で展開し、各地・各工場に組織網を形成していた。この労働運動は、帝政を打倒するための労働運動であり、メンシェビキの合法的労働運動とはまったく異なっていた。規模は小規模であったが、このような労働運動勢力が各工場に形成されていたことが、17年2月以降の工場委員会建設に重要な意味を持った。
 17年3月~10月。全国で工場委は2151の企業で創設(全企業9542企業の22・5%、200人以上の企業では68・7%の企業で工場委員会が形成)。実際にはさらに多いといわれており、基本的な工業中心地で労働者統制が実施されていた。
 拠点労組、拠点工場の決定性。ボルシェビキはビボルグ地区などをはじめとして各地区に拠点労組や拠点工場を持っていた。それぞれが数千から数万の動員力を持ち、指導部の指示があれば、いつでも直ちに闘争現場に駆けつけた。一工場や一地区での闘争を直ちに全体化し、闘争現場での力関係を労働者に有利に転換するためには、このような拠点工場、拠点労組は決定的な意味を持った。拠点労組を作り出すことは、革命期こそ重要なのだ。
▼ソビエトの革命化
 6月18日、全国で反戦デモが行われ、7月3日、武装労働者と兵士がペトログラートで街頭行動を開始した。これに対して翌4日、臨時政府の軍隊がデモ隊に発砲した。弾圧が激化し、レーニンは地下に潜った(7月事件)。
 ボルシェビキは、党と労働組合、工場委員会の密接な結びつきを強化し、革命の主体としての労働者の階級的獲得に力を注いだ。
 当初は日和見主義的勢力が主流派であったソビエトも、労働者の工場委員会の下での職場闘争が全国的に発展するなかで、急速に革命化していった。労働者たちは、ソビエト指導部のメンシェビキや社会革命党などが、工場委員会の闘いを妨害する勢力であり、職場闘争を真剣に闘う勢力ではないことを見抜き、資本家の支配を根本的に打倒する決意と戦略を持つボルシェビキを支持していった。
 ソビエトの基盤は労働組合であり、工場委員会や労働組合が職場闘争のなかで、国家と対決して闘うことを通じて革命的に鍛えられたことがソビエトを革命化したのだ。ソビエト内部だけで革命派と日和見主義派の力関係を変えることはできなかった。ソビエトの選出母体である工場委員会や労働組合の執行部権力を革命派が圧倒的に掌握することによってしかソビエト内の力関係を変えることができなかったのだ。
▼コルニーロフの反乱砕く
 労働組合は工場内の資本家との闘いだけでなく、戦争継続反対、臨時政府打倒デモ、革命党への弾圧反対デモ、コルニーロフの反乱粉砕などの政治闘争にも積極的に参加し、革命的情勢を切り開いた。
 8月、反革命軍はコルニーロフ将軍によって統合され、首都に進撃しようとした。
 だが、これを阻止したのも、鉄道労組によるストライキとサボタージュであり、労働者が工場を反革命の襲撃から防衛するために組織した赤衛隊であった。労働組合は労働者階級が政治的・思想的に武装する場所であったばかりでなく、労働組合を反革命勢力の襲撃から守るための武装自衛の場所でもあった。さらに、本格的な反革命軍の攻撃に対してこれを迎え撃つ民兵部隊を送り出すこともできた。労働者の武装は、このような反革命からの武装自衛の闘いを通じて意識的に進められた。
 コルニーロフの反乱をボルシェビキが先頭になって粉砕することによって7月反動は力を失い、ボルシェビキの権威は圧倒的に高まった。
 こうして工場委員会や労働組合は、10月革命の直前には、全国に職場闘争と反革命との闘いで鍛えあげられた革命的労働者からなる赤衛隊(2万人)を有していた。工場委員会や労働組合は、労働者の武装組織を将来の革命に備えて、武装自衛組織から独自の民兵組織へと発展させる主軸を担った。
 他方、革命化したソビエトは兵士ソビエトの下に結集する多数の軍隊を保有していた。これに対して、臨時政府側は首都においては少数の軍隊しか保有していなかった。力関係は革命的蜂起以前に労働者の側に圧倒的に有利なものになっていた。
▼武装蜂起で臨時政府打倒
 9月、レーニンは臨時政府打倒の武装蜂起を提案したが、古参幹部をはじめボルシェビキ中央委員会は直ちには賛成しなかった。しかし、権力掌握の準備は首都ソビエト議長のトロツキーのもとに進められ、10月12日、反革命からのソビエトの防衛という目的で軍事革命委員会が設置された。臨時政府は、ボルシェビキを攻撃したが、24日には首都の重要拠点はすべて革命派の兵士と労働者赤衛隊の手に制圧され、臨時政府は冬宮に孤立した。25日、軍事委員会は臨時政府の打倒を宣言、冬宮はわずかの戦闘の後に陥落した。
 その夜開かれた全ロシア労兵ソビエト大会で、ソビエト権力の行動綱領を盛り込んだアピール、「平和についての布告」「土地についての布告」をレーニンの提案によって可決した。レーニン首班、トロツキー外務人民委員の臨時労農政府、人民委員会議が選出された。だから10月革命はほとんど無血で労働者階級が勝利した。階級的な労働運動が全国的に発展すれば、こういう情勢を作り出すことは十分に可能なのだ。
 各地でケレンスキー側の反革命軍との内戦が戦われ、革命軍が勝利していった。
 ロシア革命は、帝国主義を打倒して初めて労働者階級が国家権力を握った革命であり、帝国主義から社会主義への世界史の過渡期を切り開いた。
▼労働者国家を担う労働組合
 10月革命後に建設された労働者国家は、国内に残存する反革命軍の攻撃と米・日・英などの帝国主義諸国の干渉戦争と対決しながら、社会主義社会の建設を進めるという困難きわまりない任務に直面した。この任務を担ったのも労働組合であった。
 労働組合は革命の過程で、工場の管理・経営を自力で担う経験を積み、政治能力・組織能力を持つ大量の労働者を生み出した。こういう能力を持った労働者が大量にいたから、労働者国家の危機を乗り切り、新たな社会の基礎を築くことができた。現場を知り尽くした労働者は企業の幹部を追放した後、ただちに生産計画や人員配置などの企業の運営を担った。
 労働組合は全国的組織網を持つ組織として、全国的生産計画の立案や情報の伝達などで有利な位置を占めていた。
▼軍事面ではどうであったか
 革命に参加した大部分の農村出身の兵士たちが10月革命後、農村に戻ったため、反革命軍や外国の干渉軍と対決したのは、革命の過程で工場を防衛する部隊として作られた労働者赤衛隊と民兵および一部の革命的水兵たちであった。
 だが、1918年以降激化した数十万人の国内反革命軍との内戦と、重武装の帝国主義干渉軍との革命戦争に勝利するためにはこれでは不十分であり、労農赤軍という新たな正規軍が創設された。
 この軍隊の主柱となったのも労働組合であった。労働組合はわずか数カ月で30万人の労働者を赤軍に送り、さらに農村に入って農民を赤軍に組織した。このため19年10月までに300万人の労農赤軍が建設された。労働組合のこのような闘いがあって初めて、ソビエトは内戦と干渉戦争に勝利することができた。
 こうした組織活動は労働組合なしには不可能であった(なお、この過程で、全人民を武装する民兵制度はいったん廃止された)。
▼「労働組合の国家化」
 他方、労働者国家の建設の面でも、労働組合は重要な役割を果たした。既成の国家機構を解体したソビエト政府は、「労働組合の国家化」という政策を打ち出した。
 この政策は、労働組合が、生産・分配管理や、食糧の調達、労働規律の強化などの本来国家が行うべき事業の責任を取り、国家の経済政策全般を管理する最高国民経済会議の主要メンバーとなるというものであった。
 社会主義社会の運営を労働組合に任せる政策。300万人の組合員と、数十万の経験を積んだ活動家を擁する労働組合はこの政策を圧倒的に支持し、革命的情熱に燃えて続々と国家活動に参加し、戦争と内戦で崩壊的危機に瀕した経済の再建に取り組んだ。
 この政策は、結果的には当時のロシアの労働者の政治的・文化的水準の問題を原因として、さまざまな経済運営上の混乱をもたらし、その変更を迫られた。だが、労働者国家の建設に多数の労働者が直接参加したことは、労働者が社会の主人公であることを自覚し、国家統治の経験を積む決定的契機となった
▼労働組合の役割の転換
 労働者が真に社会の主人公になり、国家活動の一切を担うためには、労働者は経済の管理能力を高め、統治能力を強化することが必要だった。そのためには、労働組合がそうした能力を獲得するための学校と位置づけられた(労働組合は共産主義の学校)。
 当面の国家の運営は、労働組合も部分的に参加するが、基本的にはソビエト国家の専門家や官僚に任される。だが、それをそのまま続けるわけではない。できるだけ早い時期に労働者自らが国家を運営できるようにするという観点から、こういう政策が採られた。社会主義社会の管理に参加しつつ管理を学び、労働組合が将来的にすべての国家運営を担当するようにすることが目的だった。
 管理の経験を積んだ大量の(人口の1割程度だが)の労働者の形成で、労働者階級は社会主義を建設できる(日本では労働組合への組織労働者は人口の2割程度だが、革命の過程で爆発的に増える)。
 レーニンは官僚主義との闘いのためにも、労働組合が大きな役割を果たすという点にも注目していた。
 以上のようにロシア革命において労働組合が果たした役割は決定的だ。労働組合に団結し、2月革命以降の闘いで鍛え上げられた労働者階級こそが、10月革命を勝利させ、労働者国家建設の事業を勝利させた主体だったのだ。労働組合に多くの労働者が結集し、革命的政治闘争に積極的に関与することなしにロシア革命を勝利させることは絶対にできなかった。
 この勝利の上に労働者階級は労働者国家の指導権を握り、階級そのものを消滅させ、国家を死滅させる過程に入るはずであった。だが、この闘いは未完に終わった。
 スターリンが党と官僚の独裁体制を確立し、労働組合を破壊することによって労働者国家を変質させたからだ。それは労働者自己解放の思想を解体し、世界の労働運動、革命運動に破壊的影響を与えた。
 このようなスターリン主義の反革命的影響力を今こそ一掃し、末期的危機に直面して絶望的な延命政策としての新自由主義政策を全面展開している資本家と資本家の政府を打ち倒すために、階級的労働運動を復権し、圧倒的に推進しよう。
(終わり)