●特集 安倍打倒! 4月杉並選挙へ! Ⅲ 革命勝利へ宣伝と組織化ボルシェビキの選挙闘争 プラハ協議会と選挙闘争 第4国会選挙の実践と教訓

投稿日:

月刊『国際労働運動』48頁(0463号03面03)(2015/04/01)


●特集 安倍打倒! 4月杉並選挙へ! Ⅲ
 革命勝利へ宣伝と組織化ボルシェビキの選挙闘争
 プラハ協議会と選挙闘争 第4国会選挙の実践と教訓



■プラハ協議会の地平

 1912年1月、プロレタリア世界革命に向かっての闘いにおいて決定的な一歩が踏み出された。プラハ(現在のチェコ共和国の首都)で開かれたロシア社会民主労働党第6回協議会(12年プラハ協議会)である。
 05年革命に対するロシア・ツァーリズムの帝国主義的反動の大破産、飢餓と失業者の増大に現れた社会経済危機、1910年末に始まった労働運動の再高揚という情勢の中、12年1月に3年ぶりの党協議会(党大会に準ずる)が開かれた。
 03年の大会以来、ボルシェビキとメンシェビキは、レーニンとマルトフの党規約をめぐる論争(レーニン「党組織のひとつに自ら参加する」、マルトフ「党の指導と統制の下に積極的に活動する」)を通して決定的に対立し、全面的な路線的対立に発展していた。12年プラハ協議会において、レーニンはメンシェビキとはっきりと決別した。ボルシェビキ党を単一の党として、革命党として自らを確立する道の第一歩を踏み出した。
 協議会は、現在の情勢における「革命的危機の成長」を確認し、「農民を率いるプロレタリアートによる権力の獲得」をめざすことを宣言した。協議会は「現情勢と党の任務についての決議案」で、「ありとあらゆる合法的可能性を、いままでよりも広く利用し、プロレタリアートの経済闘争を指導する能力をもち、プロレタリアートのますます頻繁になる政治的進出を一手に指導することのできる、ボルシェビキ党の非合法組織を再建するために強力に活動する必要がある」と特別決議を上げた。労働運動に猛然と進撃し、メンシェビキ、エス・エル(社会革命党)との労働運動をめぐる党派闘争に勝利していった。

協議会の五つの意義

 プラハ協議会で、ボルシェビキがかちとったものは、以下の諸点である。
 ①解党主義に勝ち抜き単一のボルシェビキ党を確立したこと、②党と労働組合の一体的闘いへの決起が確認されたこと、③帝国主義への革命的大衆行動として「飢餓との闘争」が提起されたこと、④第4国会選挙闘争への決起が訴えられたこと、⑤機関紙活動(特に合法日刊紙「プラウダ」の創刊を決定)の意義が強調されたこと。
 これらの獲得した地平が、1917年のロシア革命の勝利に直結する出発点となった。
 各項目ごとに確認していきたい。
▼解党派をたたき出し単一の党を確立
 協議会は、この解党派がこれまでと同じ主張を出版物でも繰り返したことから、「解党派は党を脱退したもの」と正式に認めた。つまり、メンシェビキの多数を占めた解党派を社会民主労働党からたたき出し、ボルシェビキの単一の党を確立した。
▼党と労働組合の一体的建設
 「党活動の形態を、あらゆる種類の合法的な労働者団体のできるだけ広い網に取り巻かれた非合法の党細胞をつくるという道によって、いっそう発展させることが、労働運動の中で始まっている活性化により可能となっている」ことを確認し、以下の方針を決定した。
1、党と労働組合の一体的建設
 「非合法の党組織は、経済闘争の指導にもっとも活発に参加し、この分野で、非合法の党細胞と労働組合との、とくに労働組合内の党細胞との協力を、同じくまた、労働組合運動の個々の活動家との協力を打ち立てることが必要である」と。
 すなわち、ここでは党と労働組合の一体的建設論を打ち出している。
2、地区党建設論
 「職業別に組織されている労働組合内の党細胞を、地方的条件を考慮しながら、地域別に構成された党細胞と結びつける」ことが望ましいと。
 ここでは産業別に組織されている労働組合の党細胞を、地区党として構成し建設する地区党建設論を打ち出している。
3、合法的な団体での活動
 「合法的な団体、すなわち組合、読書室、図書室、労働者娯楽団体のなかで社会民主主義的活動を行う際に、組合の機関紙を普及させ、マルクス主義的に指導し、社会民主党議員の国会演説を利用し、労働者出の合法的な講師を養成し、地区別、街区別の委員会その他の選挙委員会を第4国会選挙に関連してつくり、都市自治機関の選挙に関連して社会民主主義の扇動を行うことが必要である」と。
 労働組合を軸とする合法的団体の活動を重視し、国会選挙や自治体選挙と結合して革命の宣伝を行うことを訴えている。
4、非合法の党細胞強化
 非合法の党細胞を強化し、増やし、新しい柔軟性に富む組織形態を探求し、各都市に指導的な非合法的組織をつくり、強化することを提起している。
5、マルクス主義の普及
 宣伝サークルに非合法の社会民主主義文献と合法的なマルクス主義文献を普及させることを提起している。
6、機関紙活動
 機関紙活動については、この後の項目で述べる。
▼「飢餓との闘争」
 ここでは、飢餓と闘う農民を断固支持し、飢餓と闘う大衆闘争を呼びかけている。
 「ロシアの2千万人農民の飢饉は、ツァーリと農奴主的地主の階級によって抑圧された農民大衆の、まったく耐え難い状態」を示すものである。特に土地政策が、「農奴主的地主の階級によって導かれている限り、政府の農業政策は必ず失敗し、ロシアの農業は多少とも正常なブルジョア的発展ができない」ことを農民に訴えるべきだとしている。
 党は、農民の間に、「飢饉がツァーリズムとその政策全体と結びついていること説明」し、党の綱領であるツァーリ君主制の打倒、民主的共和制の樹立、地主の土地の没収という要求を普及させるべきだと言っている。
 そして飢餓に苦しむ農民への「義援金を社会民主党議員団か労働新聞など」へ送付するようにし、党の特別細胞をつくって「飢民救済のグループや委員会に入る必要性がある」と大衆運動を展開するように訴え、労農同盟を発展させるように求めている。
▼第4国会選挙闘争
 冒頭に「選挙における党と、同じく国会内における将来の社会民主党議員団の主要な任務は社会主義的階級的宣伝と労働者階級の組織化である」ことを確認している。革命を組織するための選挙闘争であることを確認している。
 当面の選挙における党の主要なスローガンとして
(1)民主的共和制
(2)8時間労働日
(3)すべての地主の土地の没収
の三つを提起している。
 この三つのスローガンについては、後に詳しく述べる。
 そして選挙戦における党派闘争の重要性を以下のように確認している。
 党は「ツァーリ君主制と、それを支持する地主・資本家の諸党と容赦なく闘い、それとともに、ブルジョア自由主義者(カデットを先頭とする)の反革命的見解と彼らの偽りの民主主義とを断固として暴露しなければならない」と述べている。
 さらに「プロレタリアートの党の立場をすべての非プロレタリア政党からはっきりと区別して、民主主義グループ(トルドビキ、ナロードニキ、エス・エル)のエセ社会主義の小ブルジョア的本質、また大衆的革命闘争の諸問題で彼らが動揺するところから生じる害毒をも説明すること」を強調している。
▽具体的な実践方針
 そして以下の具体的な実践方針を提起している。
 1、非合法の党細胞が直ちに選挙の準備にとりかかるために、こうした党細胞を緊急につくること。
 2、合法的出版物を強化し拡大するために、しかるべき注意を払うこと。
 3、すべての選挙は、労働組合その他のすべての労働者団体と緊密に同盟して行われなければならないこと。
 4、労働者クーリアから国会議員を選出することが保証されている6県(ペテルブルグ、モスクワ、ヴラジーミル、コストロフ、ハリコフ、エカテリノスラフ)では、労働者クーリアの選挙を組織的、先導的に準備すること。
5、労働者出の選挙代表の集会は、国会にいったい誰を労働者から選出すべきかを、党の非合法組織の決定に基づいて決めること。
 6、政府が党の候補者を迫害、逮捕等々しているから、警察の手口に即応して、その策動と暴力を骨抜きにすること。
 7、党の候補者は、党中央委員会の統制と指導のもとに、党の地方非合法組織とグループによって統制され、選挙に関する指令が与えられる。
 8、選挙に関する具体的な指令を出す権限を中央委員会またはそれが任命する機関に与える。
 これが第4国会選挙闘争の方針であるが、これがどのように実践されたかは次の「選挙闘争の教訓」の項で詳しく述べる。
▼機関紙活動の意義
 協議会は、「社会民主主義を文献によって体系的に扇動し、規則的かつ頻繁に発行される非合法の党新聞を特に規則正しく普及させることは、非合法の細胞にも、合法的な労働者団体内の党細胞にも、組織上のつながりをもうけるうえに大きな意義をもちうる」と提起した。
 さらに協議会は、党の合法的日刊新聞「プラウダ」を発行することを決定し、多くの努力を払ってわずか3カ月後の4月22日に創刊号を発行した。
 レーニンは、論文「半年間の活動の決算」(全集第18巻190㌻の冒頭)で、「日刊の労働者新聞を組織したことで、ペテルブルグの労働者は、歴史的な大事業をなしとげた」とペテルブルグの労働者の協力で創刊にこぎつけたことに謝辞を述べ、「誰がどうやってロシアで日刊労働者新聞を創刊したかを示す資料は、労働者の醵金(カンパ)の資料である」と言い、その資料を表で示している。

 「この小さな表(表1)から、転換の日としての4月から5月の全意義がはっきりと現れている。それは闇から光明へ、受動期から積極性への、孤立的な人の行動から大衆の行動への転換期であった」と。さらにここには「大衆的エネルギーの総体、自分自身が参加することによって労働者新聞を支持し、普及させ、方向づけ、創刊しようとする諸グループの決意を示している」と言っている。
 そして政治新聞の意義について、「労働者にも政治新聞が必要であり、とくに第4国会の選挙を行うために必要である」と強調している。
 「プラウダ」には、毎号数十通の労働者からの通信が載り、労働者の苦しい生活、警察の横暴や資本家の虐待を訴えていた。毎日、ストライキ闘争の記事が載り、労働者をさらなるストライキ闘争へと導いた。「プラウダ」は、百万人の労働者と結びつき、労働者階級の新聞となった。ブルジョアイデオロギーと闘い、社会主義革命を宣伝・扇動し、工場に組織をつくり、拠点をつくる武器になった。
 そして、日刊「プラウダ」は、第4国会選挙闘争の最大の武器になったのである。

■選挙闘争の実践と教訓

 では、ボルシェビキの選挙闘争はどのように実践されていったのか。レーニンは、選挙に関する多くの論文を発表している。いかに革命の準備にとって選挙闘争を重視していたかが分かる。レーニン全集の中から五つの論文を紹介していきたい。

組織建設強化のための選挙闘争

 レーニンは、協議会を直前に控えた11年の10月に論文「選挙カンパニアと選挙綱領について」の中で次のように述べている。
 「反革命時代の第1期(07年から11年の5年間)は明らかに終わった。昨年のデモ、学生運動、農村の飢饉、ストライキの波は反革命時代の新しい時期の始まりを、はっきりと示している。宣伝、扇動そして組織の強化が日程に上っている。その手ががりは来るべき選挙である」と。
 そして「国内のありとあらゆるところで、大工場で、住民のあらゆる層とグループの間で、党の非合法細胞が直ちに創意に富んだ活動を開始することが必要である」と述べている。
 当時のロシアのボルシェビキ党の現状はどうなっていたのか。
 「多くの地方には、完全に形の整った党組織がまったくなかった」。あるのは党に忠実な労働者が個々に、あるいは小さなグループで存在していた。
 だから「細胞(この言葉は、小さな、弾力性に富んだグループや、サークルや、組織を作らなければならないという思想を表している)を創意に基づいて組織することが、第一の任務でなければならない」「何とか『手がかり』をつけ、系統的な活動を始めることが出来さえすれば、たとえ二人か三人でもいい」という状態であった。
 つまり、選挙闘争は、権力の弾圧によって壊滅的な打撃を受けた党が、革命の高揚期に向かって党を組織化するために決定的なきっかけになったということである。
 そして「わが党の現状では、ロシア国内の中央指導部が出来上がる時を『待つ』という戦術ほど危険なものはない」。なぜなら「警察の追及による困難が計り知れないほど大きい」から待機主義ではなく、積極的に直ちに選挙闘争に取りかかるように訴えている。
 そこで、「直ちに宣伝と扇動を発展させるためのありとあらゆる措置(非合法印刷所、リーフレット、合法機関紙、『合法的』社会民主党員のグループ、輸送連絡、その他等々)をとり、創意ある地方細胞の組織化を進めるべきだ」と強調している。そして全国の党がありとあらゆる所で、全力で選挙闘争に決起することを訴えている。

時代認識と路線を訴え階級的団結を固める

 ここでは、レーニンの論文「1912年1月のロシア社会民主労働党全国協議会のスローガンとメーデー運動」を取り上げたい。
 レーニンの亡命先に1枚のペテルブルグのメーデー配布用のビラが届いた。このビラに署名しているのは、党のペテルブルグ委員会ではなく、個々の社会民主主義グループであり、さらにエス・エル派の1グループもあった。
 なぜこうなっているのか。
 「これは党の現状を示している。すなわち指導的な委員会または中央部はたえず検挙されているが、工場内の、労働組合内の、地区内の細胞それ自体が存在していることで、絶えず新たな細胞が発生している状態にある」と。
 ペテルブルグ委員会は検挙によって一掃されたが、その時、地下細胞がどういう活動をしているのかがこのビラで初めて知ることができた。
 「委員会は一時破壊されたが、それを構成する工場の細胞は自分たちの力を結集して『地下組織』を再建し、委員会の仕事を続けた。メーデーの準備を続け、他の社会民主主義グループとの連絡を回復した。エス・エルの労働者グループさえも1月協議会のスローガンで引き付けた。彼らは、生きた革命の事業におけるプロレタリアの統合の意義をよく理解していた。そこで取り上げられたのは、大衆にとって論争の余地のないスローガンだけである」
 ビラに取り上げられたのは、1月協議会の選挙スローガンであった。
 ペテルブルグの労働者たちはビラの中で書いている。「われわれのスローガンは、憲法制定議会、8時間労働日、地主の土地の没収であるべきだ」と。続けて「ツァーリ政府を打倒せよ! 6月3日の専制憲法を粉砕せよ! 民主的共和制万歳! 社会主義万歳!」と。
 レーニンは、「われわれは、ロシア社会民主労働党の協議会が掲げたすべてのスローガンが、ペテルブルグのプロレタリアートによって受け入れられ、新しいロシア革命の第一歩を飾ったことを知る」と賛辞を送っている。
 エス・エルの代表者は、このビラの件について次のように語った。
 「指導的中枢を失った社会民主党の細胞が、ありとあらゆるグループとの間に連絡を回復し、考え方のいかんを問わずすべての労働者を引き付け、彼らのすべてに自分たちの党のスローガンを説いたという事実である」
 労働者党員が労働者に向かって、1月協議会の提起する「時代認識と路線」を真正面から提起し、まさに階級の指導部として登場し、それが正しいがゆえに労働者の支持を受けていったことが他党派からも語られている。
 まさに党と労働組合の一体的建設、地区党建設の模範となる闘いである。この闘いで、党の団結、労働組合の団結、労働者階級の階級的団結が強まり、革命に向かっての労働者階級の階級形成が進んだのだ。

改良主義ではなく革命を

 レーニンは、論文「改良主義者の政綱と革命的社会民主主義者の政綱」の中で、12年の上半期の情勢を、ロシアにおける革命的高揚の表れと述べている。それは政治的ストライキの参加者数が、12年上半期の5カ月間に51万5000人に達していることにも示されている。
 12年4月のシベリア・レナ金鉱のストライキ労働者270人の虐殺は、全ロシア・プロレタリアートの抗議ストライキの嵐を呼び起こした(34㌻のコラム参照)。
 トルキスタン、バルチック艦隊、黒海における兵士や水兵の反乱とその企ては、長年にわたる反革命の横行と労働運動の衰退ののちに、ロシアに新しい革命的高揚が始まったことを示している。
 第4国会の選挙闘争は、この高揚の中で闘われた。
 レーニンは、「ボルシェビキにとって選挙とは、政治的取引や、空約束や威勢のいい声明で票をあさるのではなく、自覚したプロレタリアートの基本的諸要求と政治的世界観の原則(つまり「時代認識と路線」)のために扇動を行う特別なきっかけにすぎない」と述べている。
 改良主義者によって革命が起こるか起きないかの論議が行われているが、それは革命と無縁の客観主義者の論議であって、それを決める決定的要因のひとつがわれわれの宣伝・扇動である。宣伝・扇動によって、労働者階級が社会の真の主人公であり、労働者階級が団結すればこの社会を根本的に変える力を持っていることに確信を持つことができるのだ。
 レーニンは、今、党がなすべきことは、「立憲的革命の空想性を批判すること、全面的にあらゆる手段をつくして革命的高揚に協力すること、そのために選挙を利用すること」だと述べている。
 続けて「われわれは自分がなすべきことをしよう、この仕事(プロレタリア世界革命の事業)は決して無駄には終わらないだろう。この仕事は、大衆の奥深く、民主主義とプロレタリア的自立性の種をまくだろう。そしてこの種は、明日は民主主義革命の芽となり、明後日は社会主義革命の芽となるだろう」と、労働者階級が今闘っている革命の事業が必ず芽となり実を結ぶものになると、プロレタリア革命への不動のマルクス主義の信念を述べている。
 そして「社会民主党に第4国会の政綱が必要なのは、選挙にかんしても、選挙のさいにも、選挙についての論争でも、革命の必要性、緊要性、不可避性を、もう一度大衆に説明するためである」と。
 だから「社会民主党は、その政綱によって第4国会の有権者に、立憲的改革ではなく共和制であり、改良主義ではなく革命であると簡単明瞭に言っている」と言っている。
 つまり改良主義ではなく、ツァーリ専制の根本的打倒のために、始まっている革命的高揚に加わるよう求めるために、そして社会主義革命を実現するために選挙闘争を闘うのだと熱烈に提起している。

ペテルブルグ選挙を全国の力で闘おう

 レーニンは、論文「ペテルブルグ選挙の意義」の中で、「ペテルブルグの第2都市クーリアの選挙は第4国会選挙における選挙カンパニア全体の中心である。ペテルブルグだけは、労働者の定期刊行物が出ている。それは権力によるあらゆる追及、罰金、逮捕、検閲当局の圧迫にもかかわらず出ている」とペテルブルグにおける闘いの地平を評価している。
 そして「日刊新聞がなかったなら、選挙は不明朗な事業になってしまい、大衆的啓蒙という選挙の意義が薄れてしまう」と、日刊新聞「プラウダ」が出ていることの意義を確認している。
 そして「ペテルブルグの第2都市クーリアの選挙は、直接選挙であるからここでは選挙闘争は、他の地方よりもはるかに明確に党派的に出来る」とペテルブルグ選挙の意義を述べている。
 「全ロシアの注意は、ペテルブルグの選挙闘争に向けられている。全ロシアの支援もここに集中されなければならない。ロシアの隅々からきわめて他方面的な援助がなければ、ペテルブルグの労働運動は、『敵』を自力で打ち破ることはできないであろう」とペテルブルグ選挙を全国の力で闘おうと呼びかけている。

選挙の総括

 レーニンは、論文「選挙の総括」で、第4国会選挙闘争の総括を提起している。
 レーニンが最も力を入れたペテルブルグを始めとする4大都市クーリア選挙の結果は表2の通りである。


 4大都市のすべてで社会民主党員はカデットと闘い、ペテルブルグとモスクワでは、第2位であったが、残念ながらいずれでも敗北した。リガでは第1次選挙では、第1位であったが、過半数に達しなかったので再投票で、カデットとオクチャブリストとの連合に敗北した。
 レーニンは、この結果について「カデットが占めてきた都市民主主義派の代表権独占には終わりが来ようとしている」とし、「五つの都市全部で独立の代表を出して自由主義派から代表権を闘いとることである」と総括している。
 協議会でも真っ先に取り組むべき重要な労働者クーリアにおける選挙結果はでどうであったのか。
 第4国会では、選挙法は、ペテルブルグ、モスクワ、ヴラヂーミル、コストロマ、エカテリノスラフ、ハリコフという六つの工業県でだけ、労働者クーリアからの国会議員の選出を保障していた。
 六つの県のすべてからボルシェビキが議員として選出された。選挙の相手はメンシェビキであった。労働者クーリアの選挙は、詳しくは「ロシアの選挙制度」(35㌻)を見て欲しいが、工場が選挙の単位になっている。工場の労働者の人数で選挙人が割り当てられいる。
 労働者クーリアの選挙で勝利するということは、工場選挙に勝利することの積み重ねである。工場でボルシェビキはメンシェビキを圧倒したのだ。これは、労働者階級の大多数がボルシェビキ党にしたがっていることを雄弁にものがたるものである。表3が示すように労働者クーリア選出のボルシェビキは6名、メンシェビキ・解党派は3名で、この点でもボルシェビキが勝利した。
 レーニンは、労働者クーリアをめぐる選挙でメンシェビキに勝利したことを絶賛している。

■選挙の三つの標語

 レーニンは、第4国会選挙の三つの標語について、論文「選挙カンパニアと選挙綱領について」(レーニン全集第17巻285㌻)で展開している。
 三つの標語とは
(1)民主的共和制
(2)8時間労働日
(3)すべての地主の土地の没収
 である。順番に述べていきたい。

民主的共和制

 レーニンは、「民主的共和制には政治的自由の真髄がある」と述べている。
 この間、ツァーリや首相ストルイピンらの君主制が行ったことは何か。
 それは「二つの国会の解散、ポグロムの組織、黒百人組の徒党にたいする支持と黒百人組の『英雄』たちへの恩赦、6月3日のクーデター、その後の一連の『小クーデター』」であった。ロシアの国家権力の歴史とは、「ツァーリ君主制こそ、黒百人組的な地主の徒党の集中点であり、官吏の横暴、略奪や公金横領、人民に対する系統的な暴行、政敵に対する迫害と拷問を比類ない規模に広げた」のだ。
 こうした暴虐な君主制に対して、政治的自由をめざす闘争の中心に普通選挙権の要求を置くことは無意味である。
 そこで「ロシアのブルジョア革命が未完成であること」「ロシアは革命的危機へ向かっていること」を明らかにし、「革命の必然性を論証し」、「勝利に満ちた、中途でとどまらない運動に目標を示し、真に自由な、真に一新されたロシアを求めている大衆の中に熱情を呼び起こすようなスローガンを与えるように、政治的自由のための扇動を行うべきである」と。
 それが「民主的共和制」のスローガンである。
 民主的共和制のスローガンには、普通選挙権、団結の自由、人民による裁判官と官吏の選挙制、国家による労働者保険、常備軍を人民の武装と取り替えることが含まれている。この民主的共和制の要求は革命のスローガンである。

8時間労働日

 「資本主義ロシアにおける労働時間」(北海道大学・荒又重雄1964年)によると、1905年1月の大ストライキの波がロシアに広がったとき、ボルシェビキは8時間労働日を扇動した。労働者の力が強いペテルブルグの車両工場やプチロフ工場などで8時間労働日を断行した。その他の工場では法定の11時間半労働を1時間か30分を短縮させた。官営軍需工場では10時間労働を9時間に短縮させた。
 10月の革命の高揚期には、ボルシェビキの8時間労働制が実力で導入された。ネフスキー造船・機械工場など多くの工場で実施された。革命で労働者階級は実力で自由な政治的な時間・空間をかちとったのだ。
 革命の高揚が過ぎて、ツァーリ反革命は、労働者がかちとった8時間労働日やその他の集会の自由などのあらゆる1905年革命の獲得物を取り上げた。実際に資本によって8時間労働日は破棄され、労働時間は延長された。
 労働条件と生活条件を改善するための闘争の真っ先に置かれているのが8時間労働日である。そして8時間労働日の要求は革命のスローガンであった。1917年のロシア革命は、全労働者に対して8時間労働日を宣言した。

すべての地主の土地の没収

 ヨーロッパ・ロシアでは3万人に満たない地主が7千万デシャチーナの土地を所有(1戸あたり2300デシャチーナ)しているのに対して、1千万戸の農家が7千万デシャチーナ(1戸あたり7デシャチーナ)を所有するに過ぎない(1デシャチーナ=約1ヘクタール)。
 「こんなに狭い『分与地』では、農民は生きていくことができず、ただ徐々に死んでいくしかない。12年の飢饉で示されたように、幾百万の農家が恒常的な飢餓状態にあり、不作のたびにロシアの農民経営を破壊し続けている」
 「農家はあらゆる形態の雇役を条件にして、地主から土地を借りなければならない。雇役とは、農民が土地を借りる代償として、自分の馬や農具で地主のために働くことである。これは、公式に農奴制と呼ばれていないだけで、農奴制の賦役と同じものである。大部分の地主は、賦役的経営以外の経営を営むことができない」
 この農村の耐え難い現状から生じた農民の決起が1905年革命のもうひとつの原動力となった。
 「ロシアの農村でストルイピンの『改革』に苦しむたえまないうめき声が続き、『新地主』および村巡査と住民の大多数の間にきわめて激しい形で闘争が生じており、かつて見られなかった不快や憎しみが増大しつつある時期には、このような地主の土地の没収の要求は、当然、民主主義的選挙綱領の中心に置かれなければならない」
 すなわち「国の経済生活と政治生活の全体にわたって、農奴制的抑圧のくびきを投げ捨てるためには、すべての地主の土地を没収することが必要なのである」
 以上を総括して「ボルシェビキの選挙綱領の核心と根源とは、次の一語で表現することができる。『すなわち、革命を目指して!』」と。
 すなわち、選挙闘争の三つの標語は、革命の要求であり、革命のスローガンである。

第1次世界大戦とボルシェビキ

 労働運動の革命的高揚は、第1次世界大戦が開始されるまで2年間にわたった。
 「1912~1914年代は、ロシアにおける新しい壮大な革命的高揚のはじまりを意味した。われわれは、ふたたび世界未曽有の偉大なストライキ運動の目撃者となった。大衆的な革命的ストライキは、1913年に最低に見積もっても150万人の参加者をまきこみ、1914年には参加者は200万人をこえ、1905年の水準に迫った」(レーニン『社会主義と戦争』)
 そして、1914年8月、第1次世界大戦の勃発に際し、第2インターナショナルの社会排外主義、祖国防衛主義への転落に反対して、レーニンとボルシェビキは労働組合の政治的ストライキの嵐で応えたのだ。そしてロシアの労働者階級は、ボルシェビキの「帝国主義戦争を内乱へ」の路線を鮮明に掲げ、労働組合の力でソビエトをつくりロシア革命を勝利に導いた。
 ロシア革命はなぜ勝利できたのか。それはツァーリズム下での非合法・非公然の闘いの試練などに耐え鍛えられ生き残った党が、プラハ協議会でメンシェビキと決別し、労働組合・労働運動と結びつき、そして新しい分野である国会選挙闘争を「合法的可能性」を開く闘いとして重視し、非合法組織がひどく破壊された場合にでも、革命に向かって日刊合法新聞「プラウダ」を発行して宣伝・扇動活動の範囲を広げ、それと一体的に密着して闘う拠点をつくったからである。
 まさに労働組合・労働運動に内在した強固な勢力・潮流として根を張り、革命的情勢の到来の中で正しい指導性を発揮して闘ったことによってである。
 革命的情勢に「革命的階級の能力」、具体的には闘う労働運動とそこに強固に内在した党の闘いが結びついた場合にのみ、革命は勝利できることを教えている。

参考文献(レーニン全集)
☆「ロシア社会民主労働党第6回プラハ全国協議会」(全集第17巻466㌻)
☆「選挙カンパニアと選挙綱領について」(全集第17巻285㌻)
☆「1912年1月のロシア社会民主労働党全国協議会のスローガンとメーデー運動」(全集第17巻108㌻)
☆「改良主義者の政綱と革命的社会民主主義者の政綱」(全集第18巻406㌻)
☆「ペテルブルグ選挙の意義」(全集第18巻138㌻)
☆「選挙の総括」(全集第18巻525㌻)