●特集 安倍打倒! 4月杉並選挙へ! Ⅱ 革命勝利へ宣伝と組織化ボルシェビキの選挙闘争 1905年革命と選挙闘争 高揚と後退と沈滞期を闘う

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月刊『国際労働運動』48頁(0463号03面02)(2015/04/01)


●特集 安倍打倒! 4月杉並選挙へ! Ⅱ
 革命勝利へ宣伝と組織化ボルシェビキの選挙闘争
 1905年革命と選挙闘争 高揚と後退と沈滞期を闘う

(写真 「血の日曜日」。冬宮を目指して行進する10万人近くの労働者。この後、多くの労働者が軍隊による一斉射撃で銃弾に倒れた)

05年ロシア革命始まる

 日露戦争(1904〜05)は、強大なロシア帝国主義に対して、日本帝国主義がロシアの南下政策と対抗していた英帝国主義と同盟して、中国東北地方と朝鮮半島の支配権を奪い合う帝国主義強盗戦争であった。中国・遼東半島の先端部にある旅順(ロシアの強固な要塞があった)が日露の攻防の焦点だった。04年末、激戦の末、旅順が陥落した。この敗北でロシア皇帝(ツァーリ)の権威は地に落ちた。
 04年12月、バクー(現在のアゼルバイジャン共和国の首都)の労働者が大規模なストライキを行った。鎮圧に来た軍隊と闘い、ペテルブルグなどの労働者の連帯ストライキの支援を受けて勝利し、ロシア労働運動史上初の資本との団体協約を結び労働組合を認めさせた。
 04年12月にプチロフ工場で起きた4人の組合員解雇に対する陳情が認められなかったことから、05年1月16日、同工場のストが闘われた。プチロフの労働者は、司祭ガポンが指導していた「ロシア工場労働者会議」(警察労働組合)を通じてストライキを拡大する方針を決定した。この組織は合法的で活動の自由を持っていた。「労働者会議」の労働者の支持のもとでストライキは急速に拡大し全市に広がった。その数は、20日に382工場10万人に達した。
 22日の皇帝への直接請願行動が司祭ガポンによって呼びかけられた。請願の内容は、8時間労働日、超過勤務の廃止、労働者の法的保護、日露戦争の中止、憲法の制定、基本的人権の確立などで、搾取・貧困・戦争に喘いでいた当時のロシア民衆の切実な要求を代弁したものだった。
▼血の日曜日
 05年1月22日、工場街にある組合各支部から労働者が冬宮(ロシア帝国の宮殿)を目指して行進を始めた。ガポンは先頭に立った。参加者の総数は10万人近かった。要所に軍隊が配置され、行進が軍隊の阻止線に来ると騎兵に蹴散らされ、なおも進もうとすると一斉射撃が浴びせられた。非武装の労働者は次々と銃弾に倒れた。死者千人、負傷者4千人と言われる。
 翌23日からストライキは全国に広がり、1月だけでもスト参加者は44万人に達した(それまでの10年間のスト参加者は43万人)。
 1905年ロシア革命が勃発した。プロレタリア革命の火ぶたが切られた。皇帝への幻想が一挙に打ち砕かれた。
 巨大な労働運動の発展によって、堅固に見えたツァーリ専制体制は、大きく崩壊を開始した。
▼第3回党大会開く
 レーニンは4月にロンドンでロシア社会民主労働党第3回大会(ボルシェビキ単独)を開いた。ここでレーニンは、05年革命の前半を総括し、ロシア革命の政治的戦術を決定した。プロレタリアートと農民の革命的民主主義的独裁論を打ち立てた。
 大会で、プロレタリアートがブルジョアジーから革命の主導権を奪うためには労働組合を党の支柱にしなければならないことが鮮明に提起された。全党が労働組合活動に突入し、各地区組織が大量の党員を工場に送り込み、労働組合を結成していった。
 大会の中心議題は武装蜂起の方針であった。ツァーリの専制支配を打倒することはロシアの民主主義革命の任務であるが、そのためには暴力革命が必要であり武装蜂起に勝利しなければならない。大会はレーニンが起草した武装蜂起についての決議を採択した。
 5月以降、労働運動の発展につれてツァーリは、労働者の圧力のもとで部分的にであるが労働者が労働組合を組織することを認めざるを得なくなった。いち早く合法的な地位を獲得した労働組合は、ペテルブルグの印刷労働組合であった。これを機に合法的な労働組合が次々に結成された。
 日露戦争の大敗に見られた帝政の腐敗への怒りも爆発し、労働者のストライキとデモが猛烈な勢いで前進し、一部の地方の政治デモとストライキが武装蜂起へと発展していた。労働者の労働組合結成への要求はますます高まっていた。
 労働運動の高揚、日露戦争の敗退は、陸海軍を大動揺させ、軍隊内の革命的機運を高めた。6月、戦艦ポチョムキンの水兵の反乱が起きた。戦艦ポチョムキンはオデッサに入港し、労働者階級人民との結合を求めた。プロレタリア革命における労働者階級と軍隊との結合が現実のものとなった。

「ブルイギン宣言」

 この闘いの前進を抑えこむために、8月にツァーリ政府・内務大臣のブルイギンが、「ブルイギン宣言(憲法)」を勅令として出した。この宣言は「ツァーリを補弼する」議会の創設、信教の自由、農民の弁済額の減額を認めるものであった。しかしそれでもツァーリに対する人民の怒りは収まらず、さらにツァーリの諮問に応じるドゥーマ(国会)の創設に応じた。ところがドゥーマの権限が余りに小さいことと選挙権に制限が加えられていることが明らかになり、労働者人民の怒りはさらに高まった。

日露戦争を終結

 アメリカのポーツマスで8月10日から講和会議が開かれ、29日まで十数回の会談が続けられた。日本側が要求した賠償金と領土割譲をロシア側は受け入れず、交渉は難航したが、最終段階でロシア側が譲歩し、9月5日両国全権の間で日露講和条約(ポーツマス条約)の調印が行われた。
 ツァーリ政府は、なぜ譲歩したのか。戦争の継続がプロレタリア革命に至ることを恐れたからだ。ツァーリ政府は、対外戦争の敗北よりも国内の革命運動を恐れた。革命が成功すれば帝国主義者はすべてを失うからだ。
 05年ロシア革命が日露戦争を止めたのだ。

9~12月ストライキ闘争とソビエト結成

 ボルシェビキは、9~10月のストライキ運動を爆発させ、ブルイギン国会の反革命を粉砕し、権力の行政的・軍事発動を不能な状態に陥れた。
 10月、ペテルブルグの労働者は港湾、造船、木工、皮革など40余りの労働組合を建設した。モスクワでは50を超える労働組合、黒海沿岸のオデッサでは30を超える労働組合を建設した。労働組合がひとつの重要な政治勢力として登場したのである。
 10月冒頭、ボルシェビキ・モスクワ委員会は、モスクワで政治ゼネストを行うことを決定した。ゼネストは全ロシアを席巻した。
 10月中旬には、ゼネストのなかでペテルブルク、モスクワなどを始めとして、初めての労働者ソビエト(労働者評議会)が結成された。
 レーニンは、「労働者代表ソビエトは、ゼネラル・ストライキから、このストライキをきっかけとして、このストライキのために生まれた」と言っている。
 そして労働者代表ソビエトは、最初はストライキを組織していたが、その後、政治的ゼネストの組織化、武装蜂起などの革命的任務を担い、革命臨時政府の役割を担う組織となった。これは労働者の自己権力であり、パリ・コミューンを引き継ぐものだった。専制政府に対抗する労働者の権力機関であり、統治機構であった。
▼10月17日ツァーリ詔書
 革命の恐怖におののいたツァーリ政府は10月17日、言論、集会、結社の自由、人格の不可侵を認めた。さらに「ロシア議会を開設する」との詔書を発表した。ツァーリができる最大限の譲歩を行って必死に革命の波を押しとどめようとしたのだ。
 10~12月、革命と反革命の激しい攻防が続いた。
 ペテルブルグのソビエトはトロツキーが指導していたが、12月3日に、ツァーリ国家権力の弾圧によって解体された。
 モスクワのボルシェビキは、武装蜂起の方針を決め、その方針に従って12月7日にモスクワ・ソビエトが政治ゼネストに突入し、15万人がストライキに突入し、街頭デモに進出し、警官隊と激突した。政府は軍隊を動員し、労働者はバリケードを1千カ所に築き武装蜂起した。戦闘は9日間続きモスクワ・ソビエトは敗北した。

第1国会の選挙ボイコット

 最初の国会(第1国会)の選挙は、選挙法が05年12月に公布され、06年3月から4月にかけて実施された。全国87の県・州のうち、82に戒厳令を敷き、7万人以上の反政府勢力を投獄して、06年の初めの5カ月に450人に死刑を言い渡す中で行われた。
 にもかかわらず、ロシア革命の大波は収まらなかった。06年から07年6月まで、労働者階級と農民の革命運動は継続していた。05年にはまだ登場していなかった大都市の不熟練労働者や都市周辺の労働者、さらに農民運動が高揚し05年の時よりも拡大していた。軍隊の反乱も繰り返し起きた。
 ボルシェビキは、革命の高揚期がまだ続いているとして、選挙に対して積極的ボイコット戦術を採った。
 レーニンは、05年10月、ブルイギン国会が召集される可能性があるとした時、「これ(ブルイギン宣言)は無遠慮に制限された、身分別の間接選挙権にもとづいて、専制政府の下僕どもの監督と協力のもとに選出された、地主と大ブルジョアジーの代表者の諮問議会で、人民代表制という思想を真っ向から嘲笑するものだ」と弾劾していた。
 この基本的な立場から国会選挙に対して取るべき態度として、3点を提起した。
 1、このような選挙をボイコットする。
 2、選挙から遠ざかるのではなく、積極的にボイコットする。ボイコットの扇動を十倍にすること、集会を開くこと、選挙集会に力ずくで入り込むこと、デモ、政治的ストライキ等を組織する。
 3、武装蜂起のスローガンを掲げて闘うこと。乱暴に偽造された「人民」代議機関を政府が召集することに対して、真の代議機関を召集しうるのは臨時革命政府だけであり、その政府を樹立するためには武装蜂起の勝利とツァーリ権力の転覆が必要であることを扇動する。
 このボイコット戦術は、ペテルブルグの各工場での選挙で最も成功した。
 プチロフ工場では、4000人が選挙会に出席。機関車機械製造部門など最大の職場で労働者は選挙拒否を決議し、続々と解散した。拒否の理由は、労働者にはすでに選出代表が決まっており、彼らが投獄されていることだった。
 国際寝台車会社工場では約200人が出席。逮捕された労働者代表が釈放されるまで選挙を拒否するとボイコットした。
 オブーホフ工場では2000人が出席。多数の演説者が政府不信、国会批判を論じ、今日選ばれたものが明日は逮捕されるかもしれないと、大多数が選挙を拒否して退場した。
 このようにボルシェビキの積極的ボイコット闘争は、工場労働者に支持され、圧倒的に闘われた。
 06年の夏、農民運動は新たな勢いで燃えあがった。ヨーロッパ・ロシアの半数である215郡を巻き込んだ。軍隊内でもバルチック艦隊で、スヴェナボルク、クロンシュタット、レヴェリで反乱が起きた。

第2国会の選挙闘争

 依然として継続する革命を鎮圧するために、ツァーリ政府は、06年7月8日、第1国会を解散した。
 革命の後退局面という状況のもとでボルシェビキはボイコット戦術をやめた。革命を訴え、専制と反革命的ブルジョアジーを暴露する演壇として国会を利用するために、第2国会に参加することを決定した。
 レーニンは、第2国会選挙を前に「社会民主党と選挙協定」(全集第11巻276㌻)の中で、ボルシェビキの選挙闘争に関する基本的な考え方を打ち出した。
 「社会民主党は、議会主義(代議選挙への参加)を、プロレタリアートを啓蒙し教育して自主的な階級政党に組織する一手段、労働者の解放をめざす政治闘争の一手段とみなしている。このマルクス主義的な見解は社会民主党を、一方ではブルジョア民主主義派から、他方では無政府主義派から、決定的に分離するものである」。
 「ブルジョア民主主義派は、議会制度を、国事一般を行う『自然』で、唯一正常な、唯一合法的な方法だと見て、階級闘争と現代議会制度の階級的性格を否定する」
 「ブルジョアジーは、議会制度がどのようにブルジョア的抑圧の武器であるかを労働者が見ないように、また議会制度の歴史的に制約された意義を労働者が認識しないようにと、全力をあげて、あらゆる方法で、またあらゆるきっかけをとらえて、労働者に目隠しをかぶせようと努めている」
 社会民主党は、「議会を基盤とする旧権力との取引によって革命をできるだけ早く終わらせようとするブルジョアジーの欲求とも闘っているのである」。
 「社会民主主義者は、彼らの活動全体を、労働運動の全般的利益と、現在のブルジョア民主主義革命におけるプロレタリアートの独自の任務とに、完全に無条件に、従属させている」
 ボルシェビキは、以上の立場に立って革命的選挙闘争を闘い抜いた。
 07年1月、第2国会選挙が実施され、ロシア社会民主労働党、エス・エル(社会革命党)及びトルドビキなどの左派政党が躍進した。
 第2国会選挙から半年も経たない07年6月3日、ツァーリ政府の首相ストルイピンは第2国会を解散し、社会民主労働党の国会議員を逮捕した。これによりロシアは反動期(ストルイピン反動)に入った。6・3クーデターによる「6・3体制」と呼ばれた。
 ストルイピンは、地主で貴族会長であり、県知事の時は農民に対する懲罰と拷問で名を上げ、05年革命の時は黒百人組の徒党をつくりポグロムを組織し、06年に内務大臣になり、第1国会の解散後に首相となった、根っからの反革命分子であった。
【注】ポグロム ユダヤ人に対し行われる 集団的迫害行為(殺戮・略奪・破壊・差別)。ツァーリ専制に対する人民の怒りをユダヤ人に排外主義的に向けさせるもの。
 ストルイピンは、「まずは平静を、しかる後改革を」のスローガンを基本方針とし、革命運動の弾圧に血道をあげ、戒厳令を施行し裁判の迅速化を図って軍事法廷を導入した。死刑宣告を受けた被告は即日処刑された。

第3国会の選挙闘争

 選挙法が労働者と農民に不利なように改悪されたため、第3国会選挙の結果は極右反動が多数を占めた。社会民主労働党や農民出身議員は激減した。
 ストルイピンは、革命を抑え込むために「ストルイピン改革」を始めた。改革の柱は農業改革であった。
 ストルイピンは、新しい土地法を発布し、農民が農村共同体(ミール)から自由に脱退できるようにした。つまり農民に分けられた土地を私有地にすることができるようにし、農民が土地を売買できるようにした。そこに富農が農民から安く買いたたいた土地を手に入れ、農村の地主となり、ツァーリ専制体制の重要な支柱となった。
 しかし、圧倒的多数の農民は、共同体(ミール)解体に絶対反対し、それを労働者人民が支持した。さらにストルイピンの「改革」は、保守反動の国会(ドゥーマ)やニコライ2世の支持をも失った。そして11年9月18日、ストルイピンは人民の憎悪の中で暗殺された。

解党主義と召還主義との闘争

▼解党派
 この反動期において、ボルシェビキは、メンシェビキの日和見主義と裏切りを徹底的に暴露し弾劾した。
 メンシェビキ指導部は、ツァーリ政府の異常な弾圧に恐れをなし、ロシア革命の前途に失望し、ロシア革命の新たな高揚の到来を信じることができず、〝ツァーリ制度が大ブルジョアジーと結託してすでにブルジョア君主制に変化し、ツァーリ政府は大ブルジョアの援助を受けてブルジョア民主主義革命を成し遂げることができる。だからロシアの人民は、ブルジョア民主主義革命を行う必要がなくなり、プロレタリアートも革命の非合法組織を維持する必要がなくなった〟というとんでもない国家権力に対する敗北主義、度し難い屈服の日和見主義を発揮した。
 メンシェビキ指導部は、非合法のプロレタリア政党を即時解党することを主張し、社会民主労働党の綱領を放棄し、ツァーリ政府が許容する範囲内の不定形の組織をつくることを主張した。
 解党派は、民族別労働組合の創設を主張し、統一したプロレタリアートの労働組合の創設に反対した。メンシェビキは、ツァーリ専制の意図に応じて社会民主労働党の中央委員会の破壊に走り回った。この策動の中で、メンシェビキの大半のメンバーが解党派になった。
▼召還派
 ボルシェビキの一部は国会議員を召還すべきだと主張した。召還主義と呼ばれる。
 召還派は、ツァーリ政府の弾圧に激しく怒り、ロシア革命が革命の高揚期から後退期に入ったことを否定し、労働者階級を引き続き組織してツァーリ専制制度に攻撃をかけ続けることを主張し、党の戦術の変更に反対し、合法的闘争の利用に反対し、社会民主労働党の議員団を断固として第3国会から呼び戻すことを要求した。
 また召還派は、労働組合などの労働者組織の役割を否定し、労働組合運動への参加を拒否した。
 レーニンは、次のように述べている。
 「右からの解党派の言うところでは、非合法のロシア社会民主労働党などはいらない、社会民主主義活動の重心はもっぱら、あるいはほとんどもっぱら、合法的可能性でなければならない、と。
 左からの解党派(召還派)は、問題を裏返しにしている。かれらにとっては党活動に合法的可能性は存在しない。かれらにとっては、なにがなんでも非合法活動がすべてである。前者も後者も、ほぼ同じ程度のロシア社会民主労働党の解党派である」(全集第15巻421㌻「『プロレタリー』拡大編集会議」)
 レーニンは、これらの二つの解党派と全力を挙げて闘い抜いて、ロシア革命を成しとげる党としてボルシェビキを鍛え上げていった。