萩原進事務局次長を追悼する

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週刊『三里塚』02頁(0888号02面02)(2014/01/27)


 萩原進事務局次長を追悼する

 昨年末急逝された萩原進事務局次長を悼む文章が反対同盟員はじめ各方面から寄せられたので紹介します。

 反対同盟から

 彼は大変な勉強家 長原 野平聰一さん

 萩原進さんの集会でのあいさつは、理路整然として、いつも感銘を受けていた。彼は大変な勉強家だった。あのようなすぐれた農民は他にいない。私と進さんは、同じ高校。世代は違うが、当時は、長男として家を継いで農業をすることが決められていた。進さんは、シルクコンビーナート計画で農業を継ぐことを決意し、長野まで講習を受けに行った。それが空港によってつぶされた。この無念さは、言葉に尽くせないと思う。進さんがいなくなったことは信じられないが、市東孝雄さんを守ってご遺族とともに三里塚闘争の勝利まで闘うことを誓う。

 勝利への執念見た 白桝 伊藤信晴さん

 萩原進さんとの思い出は、3・8分裂の時に示したある農民の説得活動でした。進さんはその農民を毎晩のように飲みに連れ出し、家族ぐるみの旅行に誘い、すさまじい執念で熱田派への参加を阻止しました。
 酒はあまり飲めないと聞いていたのですが、その時は酒もとことん付き合っていました。その農民はその後、残念ながら闘争を去って行きましたが、あの時の執念には本当に感動しました。市東さん農地決戦の最も大事な時に失うことは、本当に残念の極みですが、ここまで導いてくれた萩原さんに心から感謝し、萩原さんとともにこの決戦を闘い抜きます。


 「失敗恐れるな!」 婦行 木内敦子さん

 同盟として初めてのサウンドデモと裁判所包囲行動、朝から緊張気味の私の肩をポーンと叩き、「失敗してもいいんだよ。失敗しても。それも一歩なんだ」と送り出してくれた。
 励ましと、叱咤(しった)と、喝とを、萩原さん宅の縁側で、集会場の畑で、裁判所のロビーで、受けた日々。
 東京高裁に向けて署名活動の方針が決まり、市東さんの離れの庭で、「また女性だけで駅頭街宣をして署名を集めたい」と話すと、「市東さんを守る女性たちの会だな」とその命名した自分に満足したようににやりと笑い、ゴーサインをもらったのが最後の会話。2011年3月を機に大きく変わった様々な闘いと闘う陣形と闘い方。三里塚の48年が生きる。(活きるかな?)
 3月の市東さんの農地決戦へ。
 霞が関に攻め上る。そしてその先へ。未来の光へ。私たちは光に向かって歩みを止めることはない。その光の中で萩原さんが深くうなずき両手をいっぱいに広げて待っている。

 恩返しできぬまま 婦行 宮本麻子さん

 昨年暮れ、萩原さんのあまりに突然の訃報は、信じられませんでした。常に反対同盟を引っ張り、指示・方針を出し、内部に対しても外部に対しても厳しく、温かく言葉をかけ見守ってくれました。亡くなられた日から1カ月が経ち、新年を迎えデモ、旗開きも終えました。いつも集会場に響き渡っていた、空港を弾劾し仲間を激励し闘争方針を伝える声......。記憶は鮮明なのにもう二度と声を聞くことができません。思い返せば私が学生で東京・板橋に住んでいたころ、地区の小さな集会にも来てくださり空港反対闘争のことを力強く語ってくださいました。その時30代後半であったのですね。南三里塚の宮本家に嫁いだ結婚式では、司会を務めてくださり、また私が前夫の脱落で離婚せざるを得なくなった時も、親身になった配慮をしてくださいました。子供たちも小さく毎日の生活に追われ、充分な謝意も表せないままでしたがどれほど心強かったことか。
 だれに対しても苦境や窮地にあれば、駆けつけ力になってあげたのでしょう。今年で19年となった阪神淡路大震災の時もリュックを背負って三日めには関西に入りましたね。昨年反対同盟は、千葉地裁に市東さんの農地取り上げの不当判決を出させないため、千葉市内をデモしたり地裁をヒューマンチェーンで包囲したりしました。同時に空港周辺の農家・住民にも訴え、働きかけ、署名をお願いしました。この時も「反対同盟はあぐらをかいていた。今日をもって新たな闘いに入る」とそこまで言うのかというほどの自己批判を込め、地元での行動の重要性、今後の取り組みを指し示してくれました。
 三里塚は福島、沖縄と連帯して農地死守、反原発、反基地闘争を闘います。「霞が関へ攻め上る」。首都東京で、国の中枢の霞が関で東京高裁の控訴審裁判をやり抜きます。私たちは萩原さんの言葉を胸に、遺志を引き継ぎ、動労千葉と連帯し、市東さんの土地を守り、空港廃港まで闘いを続けていきます。折しも弁護団の鈴木達夫さんが東京都知事選に立候補しました。社会を変えていきましょう。どうぞ空から見ていてください。ご冥福をお祈りします。

 全国農民会議から

 農民結集の先頭に 小川浩さん

 昨年12月21日、萩原進さんが急死したとの知らせにまさかという思いで、一瞬言葉を失い、まったく信じられない、信じたくないという気持ちだった。進さんとは半月前に会い、彼は「2014年、面白い勝負ができそうだ」と霞が関に攻め上る三里塚闘争の新たな飛躍を語っていた。
 志半ばで倒れた進さんの無念、悔しさをしっかり受けとめ、勝利の日まで闘い抜く決意だ。
 進さんは47年間の三里塚闘争を事務局次長として先頭で闘い抜いてきました。進さんと初めて会ったのは1971年。当時農業を始めたばかりの私は、同じ農民が国家権力と家族ぐるみで血を流してまで闘い抜いている三里塚を見て、衝撃を受けた。その闘いのエネルギーはどこからきているのか。どういう考えで闘っているのか。
 農村で、当時左翼といえば日本共産党だと思っていたが、その共産党を排除して、「過激派」・全学連と一緒に闘っているという。三里塚闘争についての関心は深まっていった。
 進さんとの出会いは、日共系の主催で、成田市で開かれようとしていた千葉県農村青年集会だった。その実行委員会で一緒になった。71年と言えば強制代執行阻止闘争の年。この闘いの爆発に恐怖した日共・民青は、三里塚闘争を支持する者に対して、トロツキストとして、集会から排除する策動を行った。まさに三里塚闘争破壊策動だった。こうした策動に対して進さんとともに闘った。これが契機となって、三里塚周辺の農民を集めて三里塚闘争に連帯する周辺住民会議の設立へとつながり、今日までにいたる反対同盟との連帯が始まった。
 進さんとの思い出は、2012年の全国農民会議の立ち上げだった。私が共同代表になっているが、組織化の先頭に立ってくれたのが進さんだった。進さんの思いは深く、「全国農民会議の支部を全県に作ろう」と発破をかけていた。農民会議の拡大の中に、三里塚闘争の展望を見出していた。進さんのこの遺志を受け継ぎ、名護市長選で勝利した沖縄そして福島と連帯し、市東さんの農地裁判控訴審の勝利へ闘いたい。それが進さんの遺志に応えることだと思う。

 現闘員から

 畑仕事は任せて! 藤川勝志

 現闘になって萩原さんの家に援農に入ったのは今から26年前、萩原進さんが44歳、自分が27歳の時です。自分の親と同じ年月を進さんと歩んできた事になります、当時は全国集会の前夜などお婆ちゃんと静江さんが心配して家に泊めてくれた事もありました。あの時はお爺さんが話し好きで中々眠れなくて困りました。進さんはへら鮒釣りが好きでよく連れて行ってもらいました、今から考えると釣り竿を垂らしウキを無心に見つめている時間が好きだったのだと思います。余り好きでない酒を飲んで「俺も色々忘れるぐらいあんな風に酔っ払ってみたいよ」と良く言っていました。
 当時から、いや闘争が始まった時から闘争に勝利するために悩み考えていたのだと思います。進さん、貴方の死は余りにも突然でまだ受け止める事ができません。今でも「何言ってんだよ藤川は調子いいからなー」と言って来るようで。でも進さん、今まで教えてもらった畑仕事は富夫さんと共に今まで以上に頑張って行きます。畑の事は心配しないで安らかに休んでください。

 他人の痛み分る人 島谷幸夫

 12月21日の夜、同盟と支援の懇談会。その場は年末の農作業と同盟一斉行動をやり終えた充実感に満ちていました。萩原さんを自宅に送っていった本部の同志から、萩原さんが心肺停止状態に陥っているとの連絡がありました。居合わせた仲間は、耳を疑いました。なんとか一命をとりとめてほしいという仲間の願いもむなしく、訃報を聞くことになりました。
 私は15年以上、萩原さん宅に出入りしています。一番心に残っていることは、5年ほど前、農作業が終わって、萩原さん宅でくつろいでいる時のことです。著書にも述べられていますが、「当時は弁当持参だったけど、小学校の同じクラスに、親がなにも持たせることができない友達がいた。昼食の時に、机でじっと皆が食べ終わるのを待っていたな」と、目を潤ませながら語ってくれた。戦後まもない頃で、まだ給食が導入されていなかった時の話です。昼食の時に、机で皆が食べ終わるのを待っている友達は、今どうしているだろうと思いをはせていたのでしょう。私はこの人は、少年時代から他人の心の傷みがわかる人だったんだと思いを新たにしました。階級的魂は少年時代に既に形成されていたのです。
 しかるべくして空港反対運動を担い、そして福島の農民・労働者・子どもの立場に立ち切りました。そのためには三里塚が先頭に立つべきと決意を固め、昨年は農民会議の運営や、空港周辺の反対同盟支持者拡大のため、奔走していました。昨年の1年で、10年分生き抜いたのです。私もそれとなく、「少し休養したらどうですか」と、声をかけたことがありました。「休んでいられないんだよ」と、静かに言いました。萩原さんの決意のこもった声に、私はそれ以上、何も言えませんでした。自分も署名まわりや千葉駅前・地裁前街宣に全力でたちあがりました。今年は萩原さんの階級的遺志を引き継いで、昨年以上に全力で三里塚闘争を担っていこうと思います。
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 労農連帯訴え続けた人

  国鉄千葉動力車労働組合

 12月21日、三里塚芝山連合空港反対同盟事務局次長の萩原進さんが急逝されました。あまりの突然の悲報に言葉を失いました。今も信じることはできません。
 萩原さんは初代青年行動隊長として当初から空港反対闘争の先頭にたち、1983年「3・8分裂」後は事務局次長として北原事務局長を支え、反対同盟の大黒柱として三里塚闘争を指導されました。
 萩原さんは、2008年に出版された著書・『農地収奪を阻む』のなかで「反対同盟と動労千葉は闘いの初期から共に闘い、切っても切れない絆を固めてきた」「67年の出会い以来、代執行決戦、77~78年開港阻止決戦、80年代中曽根による臨調・行革、国鉄分割・民営化による労働運動つぶし、86年三里塚に対する二期着工攻撃という嵐の時代を、動労千葉との労農連帯の絆で闘いぬいた。だから今の動労千葉も反対同盟もある」と語っておられます。DC会館で開かれた出版記念会でもジェット燃料阻止闘争での「拒否から阻止へ」の闘いに触れ、「農民は農地を武器に、動労千葉は鉄路を武器に」という故戸村委員長の言葉どおり、後に空港公団との話し合いに応じていった当時の青年行動隊の中で孤立しながら動労千葉の闘いを支持してきたことを語り、「動労千葉、三里塚闘争、この両輪が日本の階級闘争の中にあるかぎり、闘いは勝利します」と訴えられました。萩原さんは三里塚闘争にとってだけでなく、動労千葉にとってもかけがえのない存在でした。11月集会に参加する民主労総ソウル本部の仲間を、毎年三里塚にあたたかく迎えて下さり、2009年には動労千葉訪韓団と共に韓国を訪れ、民主労総の労働者とも交流を深めました。11月集会の壇上から労農連帯のはちまきをしめて檄を発する姿は忘れられません。
 敵は危機にあえぎ、三里塚闘争はますます輝いています。47年間の全てをかけた決戦が始まろうとしています。この時に萩原さんがいないなんて! 闘う全ての労働者人民にとって、それがどれほど大きな損失だったか、今も愕然とした思いの中に沈んでいます。しかし、その遺志は残された私たちが必ず引き継ぎます。「霞が関に攻めのぼる!」と烈々たる決意で来春方針を出した萩原さんの遺志を引き継ぎ、市東さんの農地を守り、三里塚闘争の勝利と1047名解雇撤回を必ずや闘いとることを固く誓います。
 47年間の長い闘い、本当にご苦労さまでした。どうかこれからも私たちの闘いを見守り鼓舞激励してください。
(「日刊動労千葉」7629号=12月27日付けより)

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