耕作権はいかに闘いとられたか③ 戦前・戦後の農民闘争の成果 農地改革の攻防 地主の抵抗を実力で粉砕 農林省職組らが共に闘う

週刊『三里塚』02頁(0899号02面08)(2014/07/14)


耕作権はいかに闘いとられたか③
 戦前・戦後の農民闘争の成果
 農地改革の攻防
 地主の抵抗を実力で粉砕
 農林省職組らが共に闘う

(写真 農地改革で自作農が増えた事を示すグラフ)


 農地改革の実施過程は、実施機関たる市町村農地委員会の選挙から始まり、一筆ごとの土地調査、それらの土地の買い上げ・売り渡し、紛争処理と調整を経て、土地登記にいたる。農地委員は、階層別委員の選定を各階層人が選挙した。第一次改革では、公選による者は地主5人・小作農5人・自作農5人であったのを、第2次では地主3人・小作農5人・自作農2人と小作農の優位に変えた。第1回の選挙は、46年12月20日から1週間で実施、全国の有権者約1700万人で小作委員5万6千人、地主委員3万2千人、自作委員2万3千人選出された。
 そして3万2千人の専任書記が雇われ、各部落から協力者として調査や部落の多数意見の取りまとめなどの部落補助員総計26万人が委嘱された。
 農地改革は、農地総面積の小作率を戦前の45・9㌫から9・9㌫に縮小させた(グラフ参照)。実務の一例をあげれば、北海道のトップで売り渡しを完了した紋別郡興部村農地委員会は、土地1580筆(関係者800人)を書記8名、補助員27名、現地関係者の応援742人の応援で行った。また、農林省の農地委員会業務の推奨事例の概要は次のようなものである。
 「郡下最大の解放面積約500町歩を有し、山間農村にして、事務的処理の困難なことが多かったが、実に、一千町歩の一筆調査を炎天下約一ヶ月かかって全委員・補助員協力の下に遂行し、その基礎を確立し......」(千葉県山武郡睦岡村)。
 農地取り上げをめぐる紛争は、地主が小作人を力で押さえ込もうとした各地で激化した。農地改革が始まっても地主は、あらゆる手段を駆使して抵抗した。最も一般的なのは、農地委員の無選挙選出や旧来からの部落支配の延長で、農地改革業務を牛耳った。青森県下北郡のある村では、村長が委員会事務を独断で処理し、駐在巡査が土地取り上げを指導した。これを労農の団結と力で打ち破って、改革は進められた。
 したがって、日農の組織の強弱が農地解放の度合いを左右した。日農は、戦後再建15万人から、一年後の47年には120万まで拡大し、農地改革を進めた。全国では農地解放の対立はさまざまな形を取り、日農に組織されなかった集落では地主は暴力団を使った襲撃・テロなど非合法活動も展開した。小作争議最大の白兵戦は、戦前の栃木県阿久津争議での32年1・19戦闘で、組合事務所を暴力占拠した大日本生産党(ファシスト暴力団)の排除のため500人で武装決起し、100人の生産党員と激突、生産党員は5人が死亡、12人が重傷を負った。戦争をはさんで農民闘争において再度、武装の機運がみなぎり始めたのである。
 農地改革での暴行傷害事件は、記録されているだけでも47年80件、48年83件で、地主が農地委員に対して待ち伏せ襲撃した事件(長野県)や調停中の役場での殺人事件(鹿児島県、千葉県で小作人と農地委員計4人殺害)がおきている。
 これに対する小作農民の土地取り上げ反対闘争は、戦前の小作争議における戦闘的な大衆闘争を復活させるものであった。
●新潟県東頸城郡下保倉村 46年5月、土地を取上げた地主宅へ、400の農民が押しかけ、土地取り上げ反対、小作料の金納化を要求、土地の組合管理を決議して実力耕作した。
●函館市湯川町 不在地主が60町歩の土地を苗床用地や宅地の名目で買収を逃れ小作料を取り立てていた。うち2反分を引き上げて馬鈴薯を作付けし、裁判所に申請し立ち入禁止の札を立てた。120名の農民組合員は、市内の国鉄・ドック・函労会議の労働者約30名の応援で突破し、地主の薯を掘り起こし、小作人の作付けを共同で行った。

農地改革での労農連携

①農地改革の実務を担った労働組合
 農地改革は労働者が農民とともに実務を担い、労農連帯を実現した。農林省職員組合と農地委員会職員労組は、労働組合として農地改革に取り組んだ。
(イ)農林省職員組合
「農民解放ニ挺身セムトスル職員諸君ニ訴フ」と檄を張り出し、農地改革に取り組んだ。『農地改革闘争の歴史』(平野力三著)では、「農林省職員の労働組合は自からの労働条件を超えた政策に関心を示し、農地委員会書記を教育するとともに、農地関係職員はその実施に一種の使命感をもって当たった」と記述している。
 農林省職員会は、官庁民主化運動の先陣を切り、46年春に職員組合に発展。参加団体300余(構成メンバー120万)の関東食糧民主協議会の中心となり、日農も参加した5・19食糧メーデーを先導した。
(ロ)農地改革の事務作業に従事した青年労働者・職員の書記組合(略称、全農委労) 「農地委員会運営の基盤は事務局」との位置づけで、全国で約3万2千人(内女性が8千7百)、平均年齢が男性34歳、女性21歳の青年労働者が農地改革を担った。日農は書記を重視し、埼玉では書記の27㌫が農民組合員であった。
 「書記群の中には進歩的な希望に燃えた青年が多く、......期せずして各地に有志の組織から、農地委員会職員労組を結成」(「農地改革顛末概要」)。その目的を次のように宣言した。「長い間封建的地主的土地制度の下にあえいできた農民にとって、農地改革こそは解放のときを告げる鐘の響きである。この鐘の声に応じて立ち上がった農民の叫びを永遠の挽歌に終わらせるか、力強い勝利の合唱に響くかは、われわれの双肩にかかっている」。この自覚の下に農地委員会職員労組は、49年吉田政権による6割(全国1万4千人)の人員整理と闘い、また改革事業で残されていた登記事務の強制委嘱絶対反対の闘争を展開し、農地解放を闘った。
(つづく)

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