農地を守り、沖縄・福島とむすぶ 三里塚50周年 7・3東京集会(すみだ産業会館)へ 新しい労働者の政党を 参院選勝利へ 鈴木たつお弁護士に聞く

週刊『三里塚』02頁(0945号01面01)(2016/06/13)


農地を守り、沖縄・福島とむすぶ
 三里塚50周年 7・3東京集会(すみだ産業会館)へ
 新しい労働者の政党を
 参院選勝利へ 鈴木たつお弁護士に聞く

(写真 6月4日、新宿駅頭で訴える鈴木たつおさん)

 朝鮮侵略戦争情勢の切迫下、サミット破産、アベノミクスの失敗、沖縄県議選での敗北などの上に悪あがきをくり返す安倍政権を参院選挙決戦で打倒しよう。その中心として、鈴木たつお弁護士を必ず当選させよう。この決戦の一環として、7・3三里塚闘争50周年東京集会の成功をかちとろう。今週は大車輪で奮闘している鈴木たつおさんにお話を伺った。(文責編集部)

 ―まず、鈴木さんが、政治闘争に参加した経緯を伺えますか。
 鈴木 私が大学に入ったのは1959年ですが、その前の高校時代(東京都立新宿高校)に原点があります。一つは1955年に始まった砂川闘争。私が通学のために新宿駅を通ると、負傷した学生たちがカンパ活動をしている。私は人生で初めてカンパした。
 二つ目は1954年のビキニ事件に対する原水爆禁止の署名運動です。杉並区の住民を先頭に、原水爆の禁止の署名運動が爆発的に広がった。その署名運動を生徒会として取り組むべきだと、書記長に立候補し当選、一生懸命取り組みました。
 ―東京大学を経てNHKに入局されましたがそこでの闘いを。
 鈴木 NHKではディレクターになった。たくさん番組を作りましたが、被爆者問題に加えて長崎大学の学生運動を番組にしたら地元の経済界から抗議が来た。それで私は都市ネタ担当からは外され、農業問題、漁業問題の番組を作っていた。一方、入局1年後には日本放送労働組合(NHK労組)長崎分会の教宣部長になった。分会の機関紙に労使協調執行部の批判を書いたら、組合中央の命令で解任された。その後若い仲間を募って勉強会などをやっていたけれども、67年に闘う執行部を樹立しました。20代を中心として約10人が統一して立候補し、労使協調執行部との激しい選挙戦の結果、100人の分会で7票差で勝った。
 その委員長として、当時全国に160くらいあったNHK分会の中で一番短い三六協定を闘い取りました。すると当局はその年の8月に、私に東京への配転命令を出してきた。そして、68年1月の米原子力空母エンタープライズの佐世保寄港阻止闘争です。分会をストライキ状況にして、長崎地区労の先頭で現地にかけつけました。
 さらにこの配転命令を取り消せという当局や組合上部指導部との激しい闘いに入った。組合に対しては、当時熊本にあった支部に押しかけて、会議室や局のロビーを占拠した。当局は団交に出て来なくなったので、彼らが閉じこもる局長室に突入しようとしたところへ、機動隊が導入され逮捕、起訴された。その裁判闘争を15年間、82年最高裁まで闘いました。
 罰金1万円で判決が確定した。本来解雇理由にはならないのだが、当局は「職場秩序を大混乱させた」として、懲戒解雇としました。
 ―すごい闘いの連続ですね。さて、今度の選挙ですが、「新しい労働者の政党を」というスローガンについて。
 鈴木 選挙戦でわれわれが実現しようとすることがこれに集約されています。スローガンが出されてきた経緯についてお話ししたい。2014年1月に都知事選を無所属で闘った時はまだ「新しい政党」という声は出てきていなかったのですが、12月に衆院選(東京8区・杉並区)を闘った。この選挙では有権者へ「無所属」で呼びかけることの限界を感じた。人びとの側から見ても「本気か」と感じる。やはり選挙では政党の選択となる。われわれはどう答えるか。政党の問題は避けて通れないという結論になり「新しい労働者の政党を」というスローガンにまとめました。
 ―三つの焦点があると訴えられていますが。
 鈴木 1番目は「新しい」という意味。既成の政党に断を下すことです。その中で最大の中心軸は「戦争絶対反対」です。さらに貧困問題です。生きられなくなっている。こういう社会はひっくり返すしかない。ところが日本共産党は「資本主義の枠内のルール作り」と言っている。しかしこの現実は、命脈が尽きた資本主義がつくり出している。それを打倒するしか解決はない。にもかかわらず「正規と非正規の均等待遇」と言う。
 2番目は「労働者」が中心であり主体になって作る政党だということ。労働者は救済の対象ではない。さらに、労働者階級の全エネルギーと利益を体現する政党だということ。「労働者全体の利益を徹底的に貫く政党」ということです。
 今、労働者階級の政党はない。日本共産党は綱領で「国民の党」とうたっている。「労働者の味方」面をする政党はありますが、「労働者の政党」はない。
 3番目は「政党」について。世の中を変えるためには政党の問題は抜きにできない。秩父困民党なども人民が自ら作った。職場や地域で議論をすれば必ず「労働者を代表する政党がない」ことが問題になります。私たちが「新しい労働者の政党をつくろう」と鮮明に訴えていきたい。すでに確実な手応えを感じています。

人民の心とらえる三里塚

 ―三里塚闘争との関わりについてお聞かせ願えますか。
 鈴木 実は私の父は旋盤工でした。労働者としての誇りとそれが踏みにじられる悔しさを終生語っていた。大きな影響を受けました。母は埼玉の農民の娘です。1945年1月にそこへ疎開し、少年時代を農村で育った。田植えをやったこともあれば、馬を引っ張って、しろかきをやったこともある。馬の方が利口だった。子どもなので、まちがったことをやろうとすると馬が首振って言うことをきかない。農作業には独特の親しみをもっています。
 三里塚との関わりでは、70年のころ、長崎で大きな三里塚集会をやったことがあって北原鉱治事務局長に来てもらいました。その時は私の家に泊まってもらい深夜まで酒を酌み交わしことを思い出します。
 71年9月第2次代執行阻止闘争の時は、私は長崎県評の書記をやっていた。県労評の幹部が好意で3日間、運転手付きで宣伝カーを貸してくれた。長崎は農業現業県なので農業とのつながりは強い。農家は三里塚闘争の意味はよく分かっていた。9月だから農作業の真最中だけど、宣伝カーで私が演説しながら通ると、必ず畑で作業をしている農民たちが手を休めて聞いてくれた。
 やはり三里塚というのはすごいと実感した。9・16に向かって駅を出発する時、むしろ旗を立てて汽車に乗り込んだ。観光客はびっくりしていました。
 ―三里塚闘争の50年についてお願いします。
 鈴木 親や祖父母にさかのぼればほとんどが農民であった日本の人民を、三里塚の正義性は深いところでとらえている。軍事空港反対というスローガンが中心軸にすわっていることも大切だと思う。94年の朝鮮危機で、有事体制に組み込まれた成田空港の位置が暴露された。闘争の意味が一層明確になった。
 それと実力闘争の三里塚です。70年代の激しい実力闘争、とりわけ85年10・20戦闘。実力闘争で日帝の航空政策を打ち砕いた。成田はそもそもアジアのハブ空港になるはずが粉砕された。仁川や上海空港にとられた。日帝の中枢政策を打ち砕いたすごい闘いです。
 ―最後に動労千葉・故中野洋委員長との関わりについて。
 鈴木 中野さんとは、1969年の反戦青年委員会以来の付き合いでした。学んだことは多い。労働者としての考え方、生き方、労働者こそが世界を変える力がある、という点について、私も分会委員長をしていたので実感し考えてはいたけれど、それを発展させ明確にさせることができた。大切な恩人です。
 ―ありがとうございました。

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経歴

 1940年生まれ。1967年、日本放送労組(NHK労組)長崎分会委員長。1969年全国反戦青年委員会代表世話人。職場で反戦闘争、組合運動を取り組む。91年弁護士登録。労働者・学生の権利のために闘う。現在、動労千葉顧問弁護団、法政大学学生運動弾圧裁判弁護団、星野文昭さん再審弁護団などを担う。「許すな改憲!大行動」代表呼びかけ人。2014年、東京都知事選と衆院選(東京8区)に立候補。

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三里塚闘争50周年
7・3東京集会
写真展~三里塚闘争映画~集会
 7月3日(日)午前10時
 ●東京すみだ産業会館

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