私と三里塚闘争 50周年記念企画⑧

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週刊『三里塚』02頁(0948号02面01)(2016/07/25)


私と三里塚闘争
 50周年記念企画⑧

史上最大の労農連帯闘争
 動労千葉労働学校講師 折田隆

 私が最初に三里塚闘争の現場に参加したのは1967年6月の大橋武夫運輸大臣(当時)の成田訪問阻止闘争でした。三里塚、芝山両地区から結集した千人を超える反対同盟員を前に、大橋は権力に守られ辛くも市役所に逃げこむ有様でした。「この闘いは新しい歴史を開く」という強い感動を覚えました。
 さて今、戦争と改憲、労働者と農民殺しの安倍政治のもとで、三里塚闘争つぶし攻撃が逆巻いています。市東さん農地剥奪攻撃と第三滑走路攻撃です。新自由主義が社会を破壊し、「保育所落ちた日本死ね‼」の母の叫びが発せられるまでに矛盾が拡大しています。労働者の怒りは根底的です。それに対して日帝・安倍は戦争法強行と労働者農民の闘う権利を総剥奪することで延命しようとしています。
 この状況の中で、安倍は三里塚で新たな攻撃をかけてきているのですが、その根底には恐怖感があります。60年代末から80年代にかけて、三里塚闘争は日本の階級社会を20年余にわたって揺るがしました。78年にやっと部分開港にたどり着きましたが、日帝権力が払った代償は大きかった。権力支配を揺るがす史上最大規模の労農連帯闘争の登場です。

国際連帯の力で

 もはや強権発動だけではだめだと悟った権力は、70年代末から80年代、福田、大平内閣が先頭に立つ大掛かりな秘密交渉策動を展開し、反対同盟の条件派への変質工作を展開しました。だがすべて失敗しました。最後に手を付けたのが成田用水で騒音区域の芝山地区をまるごと買収し、脱落させることであり、それに続く83年の同盟破壊でした。三里塚闘争のいわゆる「3・8分裂」は運動路線をめぐる内部分裂などというものではまったくありません。
 だがそれも打ち破られました。その後、脱落派を巻き込んだ90年代の成田シンポジウム、円卓会議で「社会問題としては成田問題は終わった」とする三里塚闘争の社会的抹殺を宣言したのですが、反対同盟は揺るぎませんでした。
 三里塚闘争はいかなる弾圧にも、あらゆる切り崩しと陰謀による組織破壊攻撃にも、人民が勝利できることを満天下に示しているのです。
 このような力の根源はどこにあるのでしょうか。第一は反対同盟の「空港絶対反対・一切の話し合い拒否・農地死守・実力闘争」の闘争路線であり、その実践と団結にあります。闘いは機動隊との闘いだけではなかったのです。連日連夜、団結を固める活動が農民自身の手によって展開されました。そのなかで闘う同志的団結が実を結びました。
 第二の力の根源は労農連帯でした。ベトナム反戦の羽田闘争の中で動労千葉青年部と反対同盟青行隊の階級的連帯が生まれました。それは68年以降の全国反戦の三里塚連帯闘争に発展し、全学連とともに支援連帯の二大柱となります。その中で76年以降、ジェット燃料輸送阻止闘争が動労千葉によって7年余にわたって闘われました。当初、三里塚との共闘を容認した動労本部は国鉄のジェット燃料輸送に屈服し、動労カクマルが先兵となって動労千葉破壊攻撃に出たのでした。だから闘いは三里塚農民への連帯闘争であるだけでなく、動労千葉労働者が団結を守り、権利と誇りを守り抜く闘争でした。「農民は土地を武器に、労働者は鉄路を武器」に闘う労農連帯へと発展しました。その闘いは今日の階級的労働運動の土壌となりました。
 第三の力の根源は国際連帯闘争です。三里塚闘争はベトナム反戦闘争の中で発展し、社共を乗りこえてきました。羽仁五郎は「三里塚は日本のパリコミューンだ」と述べましたが、過言ではありません。
 その伝統は、動労千葉を仲立ちとする韓国民主労総との連帯に発展しました。06年以来、毎年三里塚現地で民主労総ソウル本部訪日団と動労千葉、反対同盟の「国境を越えた労農連帯で戦争止めよう」との訴えと交歓が行われています。訪れた韓国民主労総の労働者同志の数はすでに数百の規模です。それは日韓の労働者農民の国際連帯を発展させています。
 三里塚闘争の今日的意義は巨大です。福島、沖縄、そして全労働現場が決戦の渦中にある情勢において、三里塚闘争が労働者人民の魂をとらえずにはいません。三里塚は今、新たな発展を闘いとり勝利の展望を切り開いているのです。

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青年労働者は市東さんと共に
 ちば合同労組 渡辺仁士

 50年にわたって営々と闘いぬかれた三里塚闘争。7月3日の記念集会に参加し、日本の労働者階級民衆が命をかけ、人生を賭けて引き継いで闘ってきた歴史だということをあらためて感じた。千葉の青年労働者を先頭に、青年も闘う決意を固める集会となった。
 三里塚闘争の50年は、国家権力との落としどころのない、妥協もない激しい闘いだ。集会で上映された「三里塚の夏」やDVD「三里塚闘争 不屈の50年」でそのすさまじさがよみがえった。
 同時に、三里塚闘争は「絶対反対」という言葉の意味を闘いの内実をもって教えてくれる。市東孝雄さんの生き方がまさにそれだ。非和解で国家に立ち向かい、闘いの中で団結を作りだし、自らの闘いで未来を作りあげること。実力闘争と話し合い拒否とは生きた言葉の中にある。
 しかし、「絶対反対」とは本当に広く深い。50年の歴史は豊かさ、奥深さをもって示してくれる。親子3代で休むことなく農地を耕し、種を植え、水を与え、雑草を取り、野菜を育て、出荷しまた耕す。まさに、命をつなぐために必要な闘い。その中で、市東さんの心をこめて育てた野菜。いま、貧困の中で、まともなご飯も作れない。コンビニやカップ麺といった食事。分断され競争社会の中で生きる青年にとって、闘いとは「豊かさ」であることを教えてくれる。
 「闘いに迷ったら、人生に迷ったら、三里塚へ来い!」。北原鉱治さんは、よくこう言ってくれた。そして、千葉合同労組青年部をはじめ若い青年労働者は三里塚に行って、色々な経験をつんできた。援農に参加した回数は、多くはない。ただ、仲間たちはそこで人生的な決断をしたり、原点を作ってきた。かけがえのない闘いの「拠点」だ。三里塚闘争は、若い青年たちの道しるべとなっている。そして国家とは何か、資本とは何かを身体をとおしてつかむことができる。市東さんの営農を国家権力は日々、「監視」という名で弾圧している。それを人間的な強さ、大きさと深さではね返す。それは、労働者が職場で、資本の搾取や強労働にたいし、体を張って闘っているのと同じだ。援農に入った仲間は「誇りをもって闘うとは何か」を身体を通してこう感じている。
 また援農に入ると作業の合間の休憩時間に、職場のことをさりげなく聞いてくれる。市東さんは労働者の今の実態や職場での状況・闘いについて、忘れずに覚えていてくれる。そこで話しながら「労働者と農民の団結とは何か」について本当に学ばされる。動労千葉が闘いのなかでつくりだした労農同盟。この闘いを少しでも前進させたい。国家は耕作権を守るべき農地法を使って、農地を奪おうとしている。言語道断だ。絶対に許せない。全学連の学生とともに、青年労働者もこの三里塚闘争を50年の歴史を期に、みずからの闘いとして引き継ぎ、ともに闘っていこう。

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