大地と共に 三里塚現闘員が語る ③71年第2次強制代執行 東峰十字路で機動隊粉砕 11人が駒井野鉄塔死守戦

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週刊『三里塚』02頁(0973号02面01)(2017/08/14)


大地と共に
 三里塚現闘員が語る
 ③71年第2次強制代執行
 東峰十字路で機動隊粉砕
 11人が駒井野鉄塔死守戦

(写真 最後まで闘いぬいた駒井野鉄塔【71年9月】)

(写真 火炎瓶で怒りの反撃に立つ全学連戦士)


 71年9月16日は、三里塚51年の歴史の中でも特筆される闘いの日となった。駒井野、天浪、木の根などの団結小屋と大木よねさんの宅地に対する第2次代執行阻止闘争は、2月の第一次執行、7月の仮処分につづく3度目の強制執行との天王山の闘いであった。

頑強な砦を築く

 4千㍍滑走路北端にそびえる駒井野砦は、周囲を深い壕で囲み、土のう袋が城壁のように積み上げられ、その上にバリケードを築いた強固な砦だった。真ん中に高さ15㍍の鉄塔が立てられ、地下には巨大な地下要塞も造られていた。その要塞が数日前に襲った台風の豪雨で水没してしまったことは誤算であったが、部隊の士気は高く戸村委員長を先頭に反対同盟と百数十名の支援がたてこもった。
 天浪砦も頑強な砦を構築していた。ここには深さ10㍍の竪穴が掘られ、そこから4千㍍滑走路の地下につながる長さ300㍍以上の地下壕が掘りぬかれていた。しかしこの地下壕も台風で落盤して使えなかったことは関係者しか知らない秘話である。
 国家権力は機動隊数千名を動員し、駒井野砦を中心に三重の包囲網の警備体制をしいた。最精鋭の警視庁機動隊2千名を駒井野砦に投入し、周囲に関東管区の各機動隊が配備された。その外周の一角が東峰十字路に配置された神奈川県警機動隊だった。その外側から砦に呼応する支援部隊と数万の大衆が逆包囲する壮大な闘いが三里塚一体で終日続けられた。
 午前6時45分、天浪で作業開始が宣言され、つづいて他の団結小屋でも攻撃が始まった。先立って早朝6時過ぎ三里塚十字路での戦闘を皮切りに、投石、火炎瓶等による激しい攻撃がくりひろげられた。大清水から駒井野へと進撃していく各所で、機動隊を撃破しバスや放水車が燃えあがった。

実力闘争の正義

 この戦いと呼応して、東峰十字路において、9・16の名を日本階級闘争の歴史に刻む偉大な勝利がかちとられた。青年行動隊を含む600の部隊が午前7時前、神奈川県警堀田大隊350と激突、完全に粉砕した。これによって福島小隊3名の死亡者を出して機動隊は潰走(かいそう)した。この知らせは代執行にあたる権力・空港公団に激しい衝撃を与えた。県幹部は中止を進言したが、県警は「犠牲を生かすには続行しかない」と代執行は続行された。敵は砦破壊にすべての憎しみをこめて襲いかかった。
 駒井野では、機動隊と公団職員によるユンボ、クレーン、ブルドーザーを使った攻撃が3時間にわたって展開された。激しい放水が3方向から加えられた。これに対して迎え撃つ学生がバリケードで築かれた砦の上から火炎瓶、投石で激しく抵抗した。婦人行動隊が火炎瓶に火をつけ、同盟もひとつになって、泥まみれ、汗まみれになって闘った。接近したミゾ掘り機は炎上し、放水車の水も尽きた。そこで機動隊は風上に煙幕筒を投げつけ、白煙で視界をさえぎり突入をはかった。 
 やがてバリケードが破壊され機動隊が乱入した。残るは高さ15㍍の鉄塔だけとなった。そのころ、白ヘルの大部隊が大清水を突破し、駒井野砦まで200㍍に迫っていた。後ろには群衆が集まっていた。鉄塔からもこの進撃が見えた。鉄塔の11人の戦士はふるいたった。3方向からの放水の集中攻撃がさらに強まった。あせりにかられた敵は鉄塔の中段にワイヤーロープをかけ、クレーン車で水平に引っ張った。鉄塔はくの字に倒れ紅蓮の炎に包まれた。「死んだ」、誰もがそう思った。全員が重傷を負い、一人が危篤状態になった。一命をとりとめたのはまさに奇跡だった。
 この9・16闘争は農民の実力闘争の正義性を全国に知らしめた。人民がこれに拍手喝采した。日帝・権力は71年を最後に、今日まで代執行を強行することができていない。(続く)
太田研作

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