大地と共に 三里塚現闘員が語る 83年3・8分裂(上) 権力による同盟切り崩し攻撃 「原則守るか、条件派への道か」

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週刊『三里塚』02頁(1002号02面01)(2018/10/22)


大地と共に
 三里塚現闘員が語る
 83年3・8分裂(上)
 権力による同盟切り崩し攻撃
 「原則守るか、条件派への道か」

(写真 天神峰現地闘争本部で実行役員会を開催後、記者会見を行った【1983年3月8日】)

 1983年の3・8分裂攻撃との闘いは、日帝・国家権力が総力を挙げた反対同盟・三里塚闘争つぶしの攻撃と真っ向から激突した歴史的闘いであった。
 政府は全世界に宣言していた1978年3・26成田開港が、開港阻止決戦の大爆発によってズタズタに粉砕され根底的打撃を受けていた。まさに日帝の命運を決すると言っても過言ではない危機的情勢に叩き込まれていたのである。
 福田政権は2カ月遅れで5月20日開港を辛うじて強行した。
 当初の予定を10年近くも過ぎ、1本だけの滑走路で開港にはこぎつけたものの、全国の労働者人民と結合した闘いの前に、政府・空港公団(現在のNAA)は窮地に追いつめられていた。
 絶対反対で闘う反対同盟、とりわけ敷地内反対同盟を切り崩さない限り国策である2期工事の目途すら立たなかったのである。

政府高官動員し

 そこで政府は、閣僚級の高官を動員し、反対同盟を丸ごと条件闘争へと転換させ闘争を終結させるための切り崩し攻撃に総重量をかけてきた。
 この攻撃との壮絶な闘いこそが1983年3・8分裂攻撃の核心である。
 しかしながらこの攻撃に屈して条件闘争へと転換し、反対同盟から脱落していった者たちは、自らの脱落・変質を隠ぺいし合理化するために、問題が他にあるかのようにすり替える。 
 あらためて、3・8分裂攻撃を直視することが、これからの闘いに勝利していくためにも重要だ。
 福田内閣は切り崩し攻撃の最初の手段として、政府高官を反対同盟幹部に接近させて、水面下での切り崩し攻撃の戦略に打って出てきた。成田空港が1期開港した既成事実を利用して、「もう開港したのだから反対しても無駄だ。これ以上闘っても反対同盟は玉砕するだけだ」などと反対同盟幹部を恫喝して屈服させ、敗北主義に叩き込んでいった。その最初のターゲットとなったのが、当時の事務局次長であった島寛征や青年行動隊・石井新二(現在の空港機能強化攻撃の先兵)らへの接近であった。
 官僚らを使った切り崩し攻撃の前に島や石井らは屈服し取り込まれたのである。後にこの秘密交渉が暴露された時に彼らは「今のうちに取れるものは取った方がいい」と露骨に言って条件交渉を進めたことを開き直っている。
 政府高官の島への接近は、内閣官房副長官の加藤紘一が行った。1979年、加藤は60年安保闘争時に接点があったブント「遠方」グループで政治ブローカーの松本礼二を通して島に接近し、秘密交渉にこぎつけた。島が中央大学在学中に接点をもったそうだ。
 この島や石井らを使って政府は、本丸の敷地内反対同盟の切り崩しを策動した。当時の反対同盟副委員長であった天神峰の石橋政次を京都旅行や大相撲見物に連れ出し、芝山町岩山学区にある「官並共同利用施設」で秘密会談を計画した。
 1981年12月24日、石橋はじめ内田寛一行動隊長らの幹部も参加して、島や石井らが主導して政府高官の服部経治運輸審議官らを交えての秘密交渉が行われた。
 しかしこの話し合い策動は、反対同盟に発覚したことによって粉砕されることとなる。秘密交渉を知った反対同盟は激しい怒りに燃え、北原鉱治事務局長と敷地内反対同盟を先頭に弾劾闘争を展開し、島・内田らは打倒された。

一坪再共有化!?

 さらに石井らは、反対同盟が農地死守闘争の一環として行った一坪共有地運動とは全く別物の、一坪共有地を不特定多数の人に一坪1万円で売るというカネ集め=「一坪再共有化運動」なるものを始めようとした。
 これは反対同盟の「農地死守・実力闘争」の原則を破壊する「土地売り、金儲け」運動であった。石井らは、自らの転向・裏切りを「一坪再共有化運動」方針に反対同盟全体を取り込むことによって合理化しようとした。
 3月8日、鉄塔下の岩山記念館で反対同盟の実行役員会が、反対同盟だけの参加で行われたが、ここでは灰皿が飛び交う大激論となった。
 あくまでも反対同盟の基本原則、「空港絶対反対、農地死守・実力闘争、一切の話し合い拒否」を貫徹して闘うべきと主張した北原事務局長に対して、誹謗・中傷を浴びせながら条件闘争へと路線転換を策動した者らは、反対同盟から脱落していったのである。
 天神峰現闘本部に引き上げた北原さんら反対同盟は新たに実役を開き、断固として基本原則を守り抜く決議を採択した。反対同盟を総条件派化して三里塚闘争を終息させようとした政府の目論見を、完全破綻に追い込んだのだ。
 この攻撃に勝利したことによって、より強固な絶対反対同盟が確立された。現在も闘争が継続し空港完成を阻止する勝利をかちとっているのも、この3・8分裂攻撃に勝利したからである。まさに三里塚闘争にとって命運を決する闘いだったと改めて痛感する。
村岡俊雄
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