大地と共に 三里塚現闘員が語る 成田用水攻撃(中) 実力攻防下で団結培う 婦人行動隊が最先頭で

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週刊『三里塚』02頁(1005号02面01)(2018/12/10)


大地と共に
 三里塚現闘員が語る
 成田用水攻撃(中)
 実力攻防下で団結培う
 婦人行動隊が最先頭で

(写真 成田用水着工のための重機搬入阻止闘争【1984年9月27日 芝山町】)

(写真 不当逮捕された市東東市さん)


 今号では、反対同盟が成田用水攻撃とどう闘い打ち破っていったのかを見ていきたい。
 まずは自主基盤整備の闘いだった。反対同盟が自力で暗きょ排水や基盤整備をして、作業しやすい田んぼにするものだ。これは成田用水と対決する闘いのひとつの柱として、毎冬の作業として続いていくのだが、3・8分裂前の自主基盤整備は、脱落派による「闘いのポーズ」だった。いかにも成田用水攻撃と闘っているかのように見せかけるには手ごろな行動だったのだ。
 脱落派は、「成田用水に反対するから部落が分裂する(だから反対すべきではない)」「賛成の人とも一緒にやっていくべきだ」と成田用水攻撃に屈服し、反対同盟に敵対した。反対同盟をつぶすための攻撃であることが明らかなのに、それを容認して闘えるわけがない。菱田反対同盟以上に、地域分断の厳しい攻防をくぐり抜けてきた天神峰・東峰の敷地内反対同盟が脱落派のペテンに怒りをあらわにした。

敷地内が応援に

 3・8分裂で、芝山反対同盟は、数の上では少数派になった。前号の鈴木さんの例だけでなく、「部落の中で反対同盟は我が家だけ」という孤立を強いられる人が何人もいた。その分、自らが闘いの先頭に立ち、闘争を通して同盟員同士が直接顔を合わせる機会はむしろ増えていった。
 成田用水の工事強行を実力で阻止するべく、反対同盟は自らの土地を提供して監視やぐらや砦(とりで)など闘いの拠点を建設し団結を固めていった。前号写真のやぐら建設に筆者も加わったが、高さ15㍍のやぐらを命綱もつけずに丸太を組み上げた。
 成田用水攻撃との闘いのエポックが、1984年9月27日の重機搬入阻止闘争だ。用水建設用の重機搬入を阻止する座り込みで、この日早朝から農道に陣取った反対同盟と支援は、やってきた機動隊と正面からぶつかり合い、市東東市さん、萩原進さん、鈴木幸司さんなど反対同盟5人をはじめ、32名の逮捕者を出す実力闘争を闘った。市東さんは機動隊に頭を割られながら闘いぬいた。ちなみに小生もこの時初逮捕を経験したのである。
 空港敷地外である菱田の地が戦場となる中で、いつもとは逆に敷地内反対同盟が菱田に駆けつけて闘った。
 成田用水攻撃は、成田空港の2期工事着工攻撃と一体だった。84年8月28日に2期着工が決定され、また芝山町が2期促進決議を上げるなど、さまざまな攻撃が同時進行で進んでいった。敷地内、敷地外を問わず、農作業の合間を縫って、お互いに駆けつけ合うことが日常になっていった。
 部落の中では孤立しても、同盟内の交流は密になり、闘いに生きる中で絆を深めたのである。
 と、口で言うのは簡単なことだが、農民は「一国一城の主」といった面もあり、クセの強い人も多く、「闘いの中で絆を深める」ことは、そうたやすいことではなかった。反対同盟が団結を強固にしていく背景には、北原鉱治事務局長や萩原進事務局次長がさまざまに尽力し、心を砕いたことも忘れてはならない。

闘いが日常貫く

 成田用水実力闘争のエポックとしてもうひとつ語っておきたいことは、反対同盟婦人行動隊が、自らの田んぼに仁王立ちして闘ったことだ。
 前号で、成田用水は水を引くだけではなく基盤整備とセットだと述べたが、それには河川改修も不可欠だった。空港公団と用水推進派は、あくまでも反対を貫く反対同盟の田んぼを換地することはあきらめたが、河川を広げ水路を変更するには、隣接する同盟の田んぼにも手をつけなければ工事はできない。
 用水工事を担った千葉県当局は、土地改良法を持ち出して、「工事に必要だから別の場所と交換する」と言って、強制換地というデタラメなやり方で強奪に乗り出した。1986年2月18日、反対同盟員所有の田んぼに対し、大量の機動隊を動員して、突如「強制立ち入り測量」を強行した。事前の通告すらなく、地主を排除して境界確認の立ち会いもさせないというデタラメな測量だ。
 「自分の所有する田んぼにいて何が悪い!」 おっかあたちは、一方的に〝立ち退き〟を要求する県測量班の前に体を張ってたちはだかり、機動隊の無法きわまる暴行と〝排除活動〟に実力抵抗を貫いた。
 このような節目の時だけが闘いではない。着工された後は工事が目と鼻の先で行われ、日常的に機動隊が徘徊し、弾圧を重ねていた。用水推進派、脱落派との攻防も連日のことだった。反対同盟の一人一人が闘いを貫けるのか厳しく問われたが、日常的にも産直運動を立ち上げて営農の面からも共同作業を行い、新たな共同体を形成していくなど、より深い結びつきのもとで闘い続けた。
 「部落の圧力を使った用水推進派の攻撃は厳しかった。同盟と支援が総力を挙げて初めて跳ね返せる攻撃だった」(萩原進著『農地収奪を阻む』)
 この時期は国鉄分割・民営化との攻防と重なっていた。反対同盟は激しい現地攻防のさなかでも86年2・15動労千葉第2波スト支援に決起し、労農連帯を深めたことも成田用水決戦に勝利した大きな力だった。
白川賢治

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