明日も耕す 農業問題の今 知られざる満州報国農場 ──書評『農学と戦争』

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週刊『三里塚』02頁(1023号02面04)(2019/09/09)


明日も耕す 農業問題の今
 知られざる満州報国農場
 ──書評『農学と戦争』

(写真 『農学と戦争』岩波書店、2500円+税)

 今号は足達太郎、小塩海平、藤原辰史著『農学と戦争 知られざる満州報国農場』を紹介したい。農学と農学者のお墨付きを得た国策で多くの若い命が奪われた。今も果たされない戦争責任を鋭くえぐる。
 満州国は関東軍が中国東北部を軍事的に制圧して得た権益を守るために日本政府がでっち上げた傀儡(かいらい)国家だ。1929年世界大恐慌〜東北地方の大凶作という情勢の中、満州移民が国策として進められた。「五族協和」「王道楽土」の美名とは裏腹に他人の所有地を勝手に開拓し移住する「満蒙開拓団」「満蒙開拓青少年義勇軍」が送り出された。
 1944年4月、東京農業大学は大学によるものとしては唯一の報国農場(他は府県農会が経営主体)である「満州報国農場」を満州東部の湖北に創設した。
 しかし、ソ連軍の侵攻の中で、1945年度に実習に参加した学生87人のうち53人が死亡または行方不明(死亡率61%)となる「東京農大満州農場殉難事件」が引き起こされた。
 そもそも、ソ連との国境近くに東京農大の農場はつくられ、学生は「人間の盾」とされていた。ソ連軍の侵攻と戦うはずの関東軍が先に逃げ出し、学生らは、寒さと飢えに苦しみながら、命からがら帰国した。
 しかし、引き揚げ担当教員は生還した学生に「きみに帰ってきてもらっては困るのだ」と言い放つ。正規の授業の一環として強引に満州へと連れ出したにもかかわらず、大学は全く責任を取ろうとはしていない。
 戦中、兵農結合を説いた佐藤寛次は、学生派遣をとりやめるチャンスがあったにもかかわらず、その決断をせず学生を死に追いやった。生涯そのことに触れることなく、戦後も10年にわたり農大学長に居座った。
 東京農大は今に至るも大学として犠牲者に対し謝罪もせず、保険金も支払っていない。さらに、大学本部ビルの展示スペースにある満州報国農場の説明文の「7500㌶の土地を失った」(もともと農大の所有地ではない。否定されたはずの満州国を大学として肯定することになる)という記述は、生還学生たちの削除要求にもかかわらず今も残ったままだ。
 東京農大の内部から告発する足達と小塩の危機感と怒りは深く、その文章は二度と繰り返させない決意にあふれている。
 第3章では、「革命とファシズムの時代」に農業経済者として資本主義を批判し、大農経営ではなく小規模家族経営の意義を説いた橋本傳左衛門の学問を検討している。農業を通してマルクス主義とは違った形で資本主義は乗りこえられるのではないかという幻想は今でもあるが、社会変革を志しながら侵略に加担し居直る橋本の不誠実さを、京都大学の藤原が自戒を込めて暴いている。
 「命を支える農業を研究する農学が、そして学生を育むべき大学が、棄民に加担した事実」を再び繰り返さないためにも、国策に抗する三里塚闘争が学生と共に闘われている意義は大きい。
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