大地と共に 三里塚現闘員が語る 沖縄と三里塚を結ぶ人生 白色テロで重傷負い再起 勝利確信し現闘生活43年

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週刊『三里塚』02頁(1038号02面01)(2020/04/27)


大地と共に
 三里塚現闘員が語る
 沖縄と三里塚を結ぶ人生
 白色テロで重傷負い再起
 勝利確信し現闘生活43年

(写真 機動隊に石の雨が降る【1971年3月5日 駒井野】)


 私は1951年に福島市で生まれ、高校まで福島で育ちました。
 高校生の頃は山岳部に属していて、毎週土日は朝日連峰、飯豊連峰などを登っていました。5人でパーティを組み、テント張りや炊事、地図のチェックなどを競う競技もあり、富山の立山で行われたインターハイにも出たことがあります。勉強はあんまり。だけど、南極に行きたいという夢があったので当時そういう人材を育成していた北海道大学に行こうと受験しましたが落ちました。
 高校を卒業した1969年は、1月に東大安田講堂の闘い、4月に破防法がかけられた4・28闘争などがテレビで流れ、世の中はすごい反体制で動いていると感じました。
 アルバイトをしながら受験勉強をするために東京に出てきました。日逓(にってい 日本郵便逓送)でトラックの助手席に乗って郵便袋を配ったり、汐留駅で貨物の荷物を降ろしたりいろんなことをしました。だけど、お金がなくて住んでいた目黒から新橋まで歩いたこともあります。
 9月5日に日比谷図書館で勉強していると外がすごい騒ぎで見に行ったら、たまたま全国全共闘の結成集会が野外音楽堂で開かれていたんですね。これまでテレビで見ていましたが、これが中核派かと感動しました。
 10月10日に明治公園で10万人が集まった羽田闘争2周年集会や11月16日の佐藤訪米実力阻止闘争にも参加しました。そのとき、カクマルの部隊に偶然入ってしまい、本気で闘っている感じがせず、これが本当に新左翼なのかと思った記憶があります。
 70年にもう一回北大を受けましたが落ちたので大学はもういいやと。

本部を一人訪ね

 4月頃に「三里塚に行ってみよう」と思い立ち一人で現地を訪れました。国道51号線沿いのバス停から団結街道を歩いて天神峰の現闘本部を訪ねると、近くの農家への援農を手配してくれ、7日間泊まり込みで入りました。イモ穴から保存していたさつまいもを取りだす作業をやりました。力仕事は慣れていましたが、援農は経験したことがなかったので、こういう仕事もあるのかと新鮮でした。最も印象に残っているのは星空がきれいだったことです。こういう所に飛行場を造ろうとする政治家は一体何を考えているんだと思いました。この時見た星が今日まで自分を導いてくれたと思っています。
 6月には、安保改定に反対する集会が芝公園であったので、白ヘルメットを買って、反戦と書いて「すみません。自分も賛同するので入れてください」と南部4地区反戦に入れてもらいました。港区、大田区、品川区、目黒区の青年労働者を中心に慈恵医大や全逓空港支部とかの拠点があり、勢いを感じました。
 東京入管闘争委員会とう統一戦線が当時あって、週に1回その会議に参加したり、「労働者の力で学生を守ろう」と法政大学をはじめ多くの大学で共に闘いました。
 年末には、私の下宿がカクマルに襲撃され、自分も含め何人も逮捕(不起訴)され、警察・カクマル連合(K=K連合)というのはこうやって闘いをつぶすのかと実感しました。
 71年は2〜3月から三里塚が決戦過程に入り、東京から何度も往復しました。早朝に150人くらいが上野公園に集まって、電車の中でヘルメットをかぶって成田駅から駆け足で駒井野まで行って、機動隊に石を投げてまた東京に帰ってくる。千葉県下の多くの若い農民や労働者も参加していました。機動隊に石を投げると結構当たるんですね。それで機動隊が引いていく。その姿を見て歓声が上がる。国家権力は凶暴なんだけど団結して人民が立ち上がれば実はけっこう脆いということを実感しました。7月仮処分闘争で「地下壕戦や農民放送塔への攻撃を許さない」と参加したんだけど、たどり着く前に逮捕され、起訴されました。東京拘置所ではマルクス・レーニンの文献を読み充実した獄中生活を送りました。
 3カ月後の11月12日に釈放となったのですが、出てきた翌々日は星野文昭さん、大坂正明さんが闘った11・14渋谷暴動闘争でした。19日にも日比谷―銀座・有楽町一体で大暴動闘争が闘われました。両日とも自分は大井町にあったヴィボルグ社と呼ばれる南部地区反戦の事務所の当番をしていました。大暴動闘争で国家権力を震撼させたことに空気が入ると同時に、事後弾圧に備え、身構えたことを覚えています。

「中核派根性」で

 少し飛びますが、1974年3月から「真栄城(まえしろ)隊」の隊長として沖縄に派遣されます。浦添市のマンションで生活していたのですが、翌年の11月3日、玄関はもちろん屋上からも壁をぶち破ってカクマルが襲撃をかけてきました。左側の頭蓋骨を骨折する大怪我を負い手術を受けました。手術中にオナラをして、これは大丈夫だと医者が思ったと後で知りました(笑)。
 右半身が不自由になりましたが2年間の療養・リハビリで随分よくなり、再び三里塚に来ることになりました。77年の秋に、目黒反戦の紹介状を持って三里塚闘争会館に行き、それ以来43年現地で闘っています。
 なぜ自分が今も三里塚にいるのかと言えば、市東さんの農地を守り、空港の廃港を勝ち取るためです。三里塚は今、文字通りの決戦に入っています。同盟も現闘も数は少なくなったけどみんな意気軒高と闘っています。今こそ中核派根性を発揮し、気を引き締めて闘えば全体を獲得し世の中を変えることはできると確信しています。共に闘いましょう。
三木清次

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