星野暁子さんインタビュー 文昭が示した人間解放の道

週刊『三里塚』02頁(1039号01面02)(2020/05/11)


星野暁子さんインタビュー
 文昭が示した人間解放の道

(写真 天神峰農地に建立された星野慰霊碑の横に立つ星野暁子さん)

(写真 暁子さんの詩に合わせて文昭さんが描いた「8月のひまわりとゆり」)


 ----モニュメントが建立されました。
 受け入れてくださった反対同盟・市東孝雄さんに心からお礼を申し上げます。2000年に文昭を励まそうと植えられた星の木(こぶしの木)は本当に小さくてこれが大きくなる頃にはきっと出てこられるのではと思っていました。07年には徳島刑務所での面会で北原鉱治事務局長が「出たら三里塚に来いよ」とおっしゃり、文昭は「必ず行きます」と約束しました。もう一度来たいと願っていた文昭の思いを実現したかったんです。
 ----暁子さんが三里塚を知ったきっかけは。
 私が高校2年生の頃に、ちょうど三里塚で強制代執行が行われていて、社会経済科の先生が授業で今こんなことが起こっているんだと紹介してくれました。その頃から関心をもつようになり、大学に入ってからは小川紳介監督の映画「三里塚の夏」、「第二砦の人々」を見たりして、普通の農民が生き方をかけて立ち上がっている姿に衝撃を受け、一緒に闘いたいと思いました。それで、現地に来て援農に入りました。婦人行動隊副隊長(当時)の郡司とめさんのところで母親も一緒に泊めてもらったこともあります。
 ----ご両親も支持してくれていたのですか。
 実家は農家で野菜や果物をつくっていました。「運動もいいけど、卒業して教員になって仕事をしながらやりなさい」と言っていました。ただ、戦争反対の運動は認めてくれていましたね。

彼の絵と私の詩

 ----文昭さんを知ったのはいつですか。
 1984年です。文昭は三里塚の71年の7月仮処分阻止闘争と9月第2次強制代執行決戦の両方で指名手配され、有罪判決を受けています。その裁判が東京で行われていたんですね。当時、文昭は「一緒に生きてくれる人が欲しい」と呼びかけていました。死刑が求刑され、拘禁性ノイローゼを発症する中でも前向きなアピールを出していることを知り、ぜひ会ってみたいと思い手紙を書き、傍聴に駆けつけました。傍聴に行くと検察側証人の学生も出てくるんですね。まるで悪が善を裁いているようでした。だけど、文昭本人の意見陳述で「すべての人間が人間らしく生きられなければ、自分も人間らしく生きられない。自分の生を尽くしたい」という訴えを聞き、共感すると同時にもっと知りたいと思いました。結審してからは許嫁(いいなずけ)として申請し、面会できるようになりました。
 ----初めての面会はどうでしたか。
 最初は4級処遇だったので月1回、15分でしたが、私が気を使わないようにいろいろと配慮してくれているのが伝わり、とても思いやりのある人だと思いました。
 ----星野カレンダーが生まれたいきさつを。
 文昭は手紙にイラストを描いていたのですが、87年に徳島刑務所に移管となった際に、絵は暗号になるから認めていないと言われました。よく聞いたら絵画クラブがあるということを知り、絵を描くようになります。90年になって四国管区のコンクールで入賞するようになり、文昭は部屋でも絵筆を持てるようにと要求するようになります。10年越しの要求で2000年に認められました。それから文昭の描く絵に私の詩をつけてカレンダーを作るという共同作業が始まったんです。
 ----暁子さんは好きな詩人はいますか。
 石川啄木は好きですね。「ココアのひと匙(さじ)」という詩や、岩手の啄木記念館を見たときに韓国併合にひとり声を上げ、批判した文章や歌を作っていたことを知り、彼の生き方にも共感しました。他には戦前に治安維持法で捕まり福岡刑務所で獄死した留学生の朝鮮人詩人・尹東柱(ユンドンジュ)も。
 ----文昭さんは暁子さんの詩について何か言っていましたか。
 いつも「この詩はいいね」と、一度もダメだと言われたことはありません。
 ----暁子さんは文昭さんの絵をどう思いますか。
 最初に描いた絵からだんだんと上手になっていくのですが、そこに貫かれているのは彼の生き方です。
 それは人間に対する強い信頼です。信頼しあう人間がつくりだす共産主義社会を闘いとろうとしている私たちへの信頼です。「必ずできるよ」と、いつもいつも私に伝えてくれていました。
 最近では子どもの絵を多く描いていました。世の中の現実はきれいごとではすまないこともいっぱいあります。戦場でも笑顔で生きようとしている子どもの姿を描いていました。「自分たちは子どもをつくることはできなかったけど、世界中の子どもを自分たちの子どもとして愛していればいいんだ」と文昭は言っていました。

国賠で必ず勝つ

 ----ケンカをされたことはありませんか。
 あまりないですが、獄中とのやりとりは時間がかかるので、何で怒っていたのか分からなくなることも。たまに私が「違う、問題がある」とか言うと、彼は深く反省し、もう一度生き方をつかみ取るというような、2人で乗り越えられる道筋を示してくれたように思います。
 そういう文昭を失ったことは大きなことですが、彼が貫こうとしたもの、つくりだしたものを大事にしたいと思い、私は自分が文昭になると言いました。文昭だったらどうするだろうとよく考えます。やはり、人間が人間らしく生きられる世の中に変えたい。労働者人民と一緒に、労働者人民のために生きるということが、文昭が提起した人間解放の道だと思います。
 ----国家賠償請求裁判に絶対に勝ちましょう。
 文昭は安倍政権に殺されたと思っています。この死の責任を国家にとらせたい。無期収容者として今獄中に囚われている人の人権を守る闘いにもつながります。また、徳島刑務所、医療センターの責任も追及したい。徳島刑務所は文昭をずっと検査しませんでした。そして、ようやく検査しても結果を更生保護委員会にも伝えませんでした。医療センターでも手術直前に肝臓の状態が良くないのに執刀しました。大量の出血があったにもかかわらず集中治療室にもいれない。夜間も看護師をつけていない。こうした獄中医療のあり方についても責任を追及し、必ず責任を取らせたいと思います。
 ----ありがとうございました。

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