全国農民会議共同代表・酪農家 鈴木光一郎さん語る 〈上〉 福島の闘いは三里塚に育てられた

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週刊『三里塚』02頁(1105号02面01)(2023/02/13)


全国農民会議共同代表・酪農家
 鈴木光一郎さん語る 〈上〉
 福島の闘いは三里塚に育てられた

(写真 集会場になだれ込む機動隊と激突する白ヘル部隊【1968年3月10日 成田市】)

(写真 本宮で萩原進さんと【2011年4月】)

 1948年1月生まれで高校まで山形で育ち、福島大学に入りました。
 かみさんの実家が農家で牛を飼っていて2㌶ほどの田んぼもあり、ぜひと言われ福島県本宮で就農しました。福島は葉タバコの産地で若い頃は8反歩くらいやっていました。それと野菜と和牛。隣でホルスタインを飼っていたので、ぜひとも自分も乳牛を飼ってみたいと思って小さな酪農を始めたんですね。最初はミルカー(搾乳機)とかはなく、手で絞って牛乳びんの形をした搾乳缶に入れて、水で冷やして出していました。昼間は田んぼの仕事です。
 就農した頃は田んぼの水をどう引くのかも畦塗(あぜぬり)も何も分らず、牛の乳首が何本あるのかも知らなくて「何だ4つあるのか」とビックリしました。ずっと専業でかみさんにいろいろ農業のことを教えていただいて今日があります。

激動の7カ月へ

 そもそも彼女と知り合って話すようになったのは三里塚闘争がきっかけです。いわゆる「激動の7カ月」の始まりの67年10・8羽田には行けなかったのですが11・12羽田には私も参加し、そこから学生運動に踏み込みました。羽田闘争で全学連は傷だらけになりながらも三里塚の外郭測量阻止闘争などにも駆けつけるのを見て、すごいなと感動しました。68年に成田市営グラウンドで行われた3・10闘争には先遣隊で行きました。
 福島では他大学の学生と一緒に福島地区反戦会議を結成し、積極的に闘争に参加します。反対同盟の青年行動隊長だった萩原進さんが「われわれはここに鎌を持った」と言って登場する小川紳介監督のドキュメンタリー映画『三里塚の夏』の中で、その反戦会議の旗がちらっと出るのですが、その旗を持っていたのが私なんです。
 なぜ三里塚闘争にかみさんと参加するようになったのか。当時、東北自動車道に反対する闘いがありました。戦争政策の一環として軍用道路、高速道路を作るために農地をつぶそうとしており、全日農も反対運動に関わっていました。農作業や闘争をその方たちに教えてもらいながら闘いを進めました。かみさんのところにも農繁期に手伝いにいっていたんです。
 その東北自動車道反対の闘いの集約点として68年3・10闘争にみんなで参加したんです。集会では本宮から来たと紹介され、地権者会の会長が発言しました。行ったみんなが空気入って帰ってきました。それがきっかけで本宮地区でも公団が全然工事に入れない状況を作り、全国的な盛り上がりを見せます。砂川町基地拡張反対同盟代表の宮岡政雄さんや三里塚反対同盟の三浦五郎さんが来てくれました。
 なぜ闘いがつぶされたのかというと福島地区反戦会議の仲間が東大闘争に行き全員が逮捕されたことがきっかけなんです。私は実は東大闘争の被告です。われわれ学生がいない間に測量を強行され、本宮の闘いも弾圧され、帰ってきたときにはかなり測量も進んでいました。私たちに対する信頼も厚かったのですが、「もうしょうがないな」と崩れていくきっかけとなった。だけど、その後も付き合いは続き、70年に向かって闘いは進んでいきます。
 70年以降は仕事の関係であまり三里塚現地に行けなくなったのですが、80年頃は歴史家の羽仁五郎さんや舞踊家の花柳幻舟さんも三里塚に来ていて、福島でも実行委員会形式でかなり広く三里塚闘争に取り組み全日農青年部としても支援していました。フランスのラルザックで軍事基地拡張反対闘争を闘う仲間が三里塚に来たときには私も集会で発言しました。
 85年の10・20闘争にはうちのじいちゃんも連れて行きました。全日農の仲間も私の家に泊まってそこからバスに乗って何人も三里塚に行きました。福島の闘いというのは三里塚によって育てられ成長してきた。それは素晴らしいことであり、誇りでもあります。
 だから福島での反原発集会で三里塚の発言を認めないとか、三里塚の闘いを低めることは絶対に許せないんです。

闘う農民の組織

 当初から三里塚と共にあったことで全国農民会議の結成にもつながります。ただそれは萩原進さんの尽力なしには出来ませんでした。3・11原発事故の後、突然進さんが福島に来られて、春の全国集会で集めたカンパを全額カンパしてくれました。非常にありがたかったです。ハンドマイクやスピーカーを買い、残りは闘争基金として活用させてもらいました。
 3・11があり闘う農民組織を作らないとダメだと思いました。大衆団体、運動体として農民組織を結成するというのはまだまだ小さくて出来なかったのですが、反原発闘争が盛り上がる中で日本農民として闘いの前面に立たなきゃならないと決意を固めてはいました。だけど結成の一番のきっかけはやはり三里塚闘争なんです。三里塚闘争というのは農民の闘いであり、三里塚に勝たなかったら日本農民は勝利できない。労働者の責任において絶対に三里塚闘争を勝利させなければいけない、そこにわれわれの未来があるとかんかんがくがく議論をしました。もうちょっと準備をと言う人もいましたが、いやダメだ、今ここで立とうと、日和見主義を粉砕して全国農民会議を結成しました。名前の候補がいろいろとあったが進さんが全国農民会議がいいと言ったんですね。
 スローガンの一番最初は三里塚闘争勝利です。この三里塚連帯、反原発、反TPPという3つを柱にして農民として立とうと決意するんです。それは熱気あふれる感動的な集会でした。集会の帰り際に「どうしようかなこれから」と弱音を吐いたら、進さんは「われわれは堂々と前に進もうじゃないか」と言ってくれたことが一番印象に残っています。その頃、「霞が関に攻め上ろう」という言葉も流行りました。そうした進さんの言葉でみんなが奮い立った。数は少ないが、農民として立とうと。
 数年前に総会を成田で開いた際の現地調査で改めて思いました。日本の未来のためにコンクリートを引っぺがして農業のために使うべきと。そもそも内陸に造っちゃならないものを造ったからああなったわけです。これからも断固として市東さんの農地を守り、現地の闘いと連帯していきたいと思います。

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