大坂正明さんと面会 闘争初期の援農で話弾む 無罪・奪還へ決意新たに

週刊『三里塚』02頁(1119号02面04)(2023/09/11)


大坂正明さんと面会
 闘争初期の援農で話弾む
 無罪・奪還へ決意新たに

(写真 大坂さんは穏やかな笑顔で私たちを迎えてくれた)


 8月30日、東京拘置所に行き、大坂正明さんと面会しました。週刊三里塚を編集している現闘のN君と、編集局のT君との3人です。3人とも直接会うのは初めて、私にとっては長い間「指名手配写真」としてあちこちに張り出されていた学生時代の写真と、逮捕時の険しい顔つきの写真の印象が強く、自然体でにこやかに話す目の前の大坂さんがすぐには重なりませんでした。
 T君は、よりリアルな大坂さんの似顔絵を完成させようと、何度も書き直していました。大坂さんの話の中で、初期の頃の援農の話は興味深く、私が現地に来た76年当時にフラッシュバックしました。曰く、棒の両端に束ねた稲束を突き刺して天秤棒のように担ぎ、足場の悪いあぜ道を運ぶ作業の大変さは忘れられないとのこと。しかも第4インターなどと党派闘争になるため必死だったそうです。私も市東さんの稲運びを手伝ったことがあります。今のように道路が整備されておらず、あぜ道を50㍍くらい運んで最後は上り坂、抱えて登り切れず、ずるずる引きずるのが誠一杯でした。当時は田植えも手作業で、線に沿って5列ずつ受け持ち、大勢が並んで植えていました。田植え自慢のおやじさんらが競って先に出ると、水面が濁って線が見えなくなります。初心者は田んぼで立ち往生、泣きたい気持ちになりました。その後、右手に持った苗束を指先で植える分ずつ先送りしていく練習をして、機械に代わるまで田植えは私の得意な仕事になりました。稲運びは、今は田んぼで脱穀して30㌔ほど籾の詰まった袋運びに変わりましたが、若い力持ちに任せたい仕事です。
 大坂さんの裁判は、「何としても生きた犯人を!」という国家権力の意気込みのもと、昨年10月から1年足らずで33回という超スピード審理を経て、10月19日論告・求刑、26日最終弁論を残すのみとなりました。裁判の過程で、殴打現場にはいなかった大坂さんの当日の足取りが明らかになり、唯一の「証拠」である目撃証人も、1人を除いて証言を撤回しています。権力側から裁判を報道してきた産経新聞も、完全にトーンダウンしています。
 星野文昭さんの無念を晴らすためにも、指名手配中の50年大坂さんと共に闘ってきた多くの同志たちに報いるためにも、裁判に勝利して、大坂さんを私たちの手に取り戻しましょう。「当時の地理と今の三里塚がつながらない」と言っていた大坂さんに、現地を案内する日の遠からんことを!
(北里一枝)
※大坂正明さん 1971年11・14渋谷闘争でのでっち上げ「殺人罪」で裁判中。三里塚闘争初期には星野文昭さんらと現地に常駐し闘っていた。

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