反戦闘争の爆発を 全学連大会での発言 伊藤信晴さん

週刊『三里塚』02頁(1120号02面01)(2023/09/25)


反戦闘争の爆発を
 全学連大会での発言
 伊藤信晴さん

(写真 全学連大会でアピールする伊藤さん【7日】)


 権力の弾圧を恐れず、三里塚、杉並選挙、G7広島サミットと、右翼と闘いながら進撃してきた皆さんの姿に非常に勇気づけられています。
 とりわけ2・15〜16の夜を徹した肉弾戦は、国家権力が反対同盟に屈服を迫る攻撃と果敢に闘い抜き、圧倒的に勝利しました。市東さんはすぐさまハウスを建設。NAAの敷地ですが緊張関係をもって貫徹し、重圧を跳ね返し10・8全国集会を迎えようとしています。皆さんのすさまじい怒りで肉弾戦を展開した十数時間の闘いが、こうした地平を切り開きました。
 しかし、情勢は本当に激しく反動的に突き進んでいます。三里塚でも、沖縄でも、福島でも、今までの前提を覆すような、やってはいけなかったことを突き破ってきています。だけど、多くの人たちが全然屈服していない。それは、皆さんのこの間の実力闘争があったからだと思います。

71年代執行で

 私自身、70年に全学連から派遣され三里塚現地に行き、71年の第一次強制代執行を迎え撃ちました。反対同盟は、「北総20万の総反乱」を掲げ、1月1日から大情宣に入りました。強制代執行が始まったのは2月26日からです。反対同盟の必死の闘いが、全国でテレビ報道されたことも影響して大爆発しました。
 私は地下壕を掘り、穴の中におりました。絶対に外に顔を出してはいけないと、同盟が朝昼晩と食事を運んでくれ、夕食は毎日近所の寿司屋からの差し入れでした。
 私が穴に入って2日目の朝、すさまじい音がして「おい雨だぞ」と。「昨日はあんなに晴れて満点の星空だったのに。おかしいな」と思って、ちょっとだけ見てみようと外に出た。そしたら、万余の民衆が機動隊に石をぶつけ盾に当たる音だった。機動隊は執行することもできず、後ずさりするだけ。北総台地には石がないんです。後で聞いたら、「知らない作業現場の人がダンプカーで運んできた」と。隣町の消防団が来たり、高校の先生が30人くらい来たり、今まで考えられないような事態が起きた。
 実力闘争を本気で構えてやれば事態は大きく変わるということを訴えたい。闘って50年になりますが、もう一度実現したいという思いだけで、やってきたというのが現実なんですね。
 反対同盟も必死でした。朝早く砦に入らなければ権力に封鎖されてしまうので朝4時には家を出た。夕方6時頃に帰ってくる。その後、食事、風呂、洗濯で夜10時。その後2時頃まで寝る。三里塚はスイカの産地で接ぎ木が農家の収入面で重要だった。起きてから出発までの2時間でその接ぎ木を毎日やった。4時間足らずの睡眠で10日近く闘い抜いた。その反対同盟の必死の闘いが報道を通して伝わり全人民の決起を作り出しました。
 犠牲や弾圧も大変なことです。だけど実力闘争は全人民を鼓舞し、人の心に訴えるんです。
 大反動の状況の中で、私たち自身、巨大な反戦闘争の爆発は決定的であると思っています。それは成田廃港の決定的な力になります。実力闘争を復権する闘いの中で、新たな状況、時代をつくろう。市東さんの南台農地を守る第2ラウンドの闘いから、成田軍事空港をつぶすために10・8への結集をお願いします。

このエントリーをはてなブックマークに追加