10・20蜂起戦40周年 三里塚勝利へ再び蜂起者として立つ 元全学連委員長 鎌田雅志

週刊『三里塚』02頁(1170号02面01)(2025/10/27)


10・20蜂起戦40周年
 三里塚勝利へ再び蜂起者として立つ
 元全学連委員長 鎌田雅志

(写真 鎌田委員長と交差点での戦闘【85年10・20】)

(写真 鎌田委員長と交差点での戦闘【85年10・20】)


 1985年10・20三里塚―11・29国鉄(浅草橋)の蜂起戦から40年が経つ。この偉大な蜂起戦40年を、米日帝国主義の中国侵略戦争阻止の巨大な闘いの中で迎えていることを、喜びをもって確認したい。階級闘争とプロレタリア革命運動において三里塚反対同盟と動労千葉が果たしてきた役割は実に偉大であり、この決戦情勢の中でその存在の意義はますます決定的になっている。
 特に10・20三里塚闘争40周年にあたり、成田空港機能強化(B滑走路延伸、第3滑走路建設)―「第2の開港プロジェクト」粉砕、市東孝雄さんの南台農地死守を固く誓う。三里塚闘争は、日帝の軍事大国化と改憲・戦争の攻撃に真正面から対決する反戦の砦だ。敵階級にとって今日に至るも「致命的危険」をはらんで存在し続けている。
 この激動の中で生まれた石田反革命を絶対に許さない。

石田反革命を粉砕し尽くす

 石田真弓とその追随者は、革命的女性解放闘争を切り開いてきた女性同志たちと全党の闘いを裏切り、全学連を先頭に切り開いてきた闘いの地平を自ら裏切り、足蹴にして反革命に転落した。全学連破壊に走った罪は、万死に値する。
 革共同全国委員会総会破壊を企図した反革命の破産は、全国委員(労働者党員)を獲得する大義も展望もなく(女性差別者・石田を守ることのどこに正義があるのか)、追いつめられて蜂起をもてあそんだ当然の結果だ。どれだけ「緻密な作戦」を立てたのかは知らないが、石田の浅薄極まりない戦術主義の帰結であり、この瞬間に石田反革命の命脈は尽きた。戦術主義は、小ブル自由主義と日和見主義の特徴だ。蜂起をもてあそぶ者には死が待つのみだ。
 レーニンは「平和な時代に投機分子や山師的な人物が党に入り込むことを避けることはできないが、戦時に突入して国家権力や反革命との激突が始まると、そうした輩はたちまち正体が暴かれる」と言った。石田こそ、革命的女性解放闘争と中国侵略戦争阻止闘争の荒々しい前進によって、正体が暴き出された政治的山師そのものだ。内乱期への突入が、石田と追随者を恐怖のどん底に突き落としたのだ。「内乱的に闘う」「投獄も覚悟」「10・20のように」など二度と口にするな。あらゆる生き残り策動を粉砕し、息の根をとめなくてはならない。

激闘の80年代と三里塚決起

 80年代は、南朝鮮・韓国の80年5月光州蜂起(光州コミューン)の衝撃と感動で幕を開けた。日本では動労千葉が、三里塚闘争との連帯を貫いて動労本部から分離独立(79年3月)し鮮烈に登場していた。そして、成田空港へのジェット燃料貨車輸送阻止の歴史的な実力闘争に突入していった。動労千葉の首をかけた労農連帯の実力決起が、労働者人民をゆさぶった。全学連と中核派は、光州蜂起に続く不退転の決意を打ち固め、「成田空港突入・占拠・解体」方針を決定し(81年)、「戦後政治の総決算」を掲げて登場した極右中曽根政権を迎え撃ったのだった。
 83年3・8分裂とこれに続く成田用水攻撃と、三里塚闘争解体・反対同盟解体攻撃は激化した。さらにファシスト・カクマルによる全国の三里塚闘争拠点への武装襲撃が熾烈化した。「絶対反対同盟」の確立と全国の三里塚勢力の総決起でこうした攻撃・襲撃を打ち砕いた。そしてついに成田空港2期工事着工攻撃が切迫した。85年7月全学連大会は「機動隊をせん滅し成田2期着工阻止、空港突入」の大衆的武装闘争を決定し、決行日を10月20日と宣言してそのとおりに実行したのだ。
 世界で新自由主義との激突が始まり、韓国では労働者大闘争(87年)に、パレスチナ解放闘争が第1次インティファーダ(87年)に向かって行った80年代中期。85年10・20三里塚の対機動隊戦闘(2時間半の激戦、241人の逮捕者、54人の起訴)と11・28―29動労千葉の国鉄分割・民営化阻止のストライキ、浅草橋戦闘と革命軍の大ゲリラ戦は、国際階級闘争・世界革命の高揚のただ中に燃え上がった闘いであったのだ。この革命的な国際連帯の闘いは今日に引き継がれ広がっている。

現闘2同志の遺志引き継ぎ

 10・20闘争を共に闘った三里塚現闘の2人の同志が、今年亡くなった。2人とも私より年上だが、私と同じく75年3・14反革命(カクマルによる本多延嘉革共同書記長暗殺)への怒りで闘いを開始した同志だ
 私の母より10年若いだけの吉田素子同志は、3・14復讐戦に全党が総決起する中、「家族を捨てて」神奈川前進社に住みこみ、革共同に結集した。横浜国大で活動を始めていた私も前進社に住んでいたので、近しく接する機会が多かった。その後は三里塚闘争会館で、出獄後は北総センターで、「三里塚の母」の姿を見てきた。
 岸本豊和同志は、琉球大学を卒業したが小ブル的エリートの道も沖縄主義の道も否定し、マルクス主義・共産主義者として生き闘うことを生涯にわたって貫いた「三里塚の哲人」だ。このような同志が革共同と三里塚闘争を支えてきた。石田とその追随者の対極にこの二人の同志がいる。
 2同志の遺志を引き継いで、再び蜂起者となり、三里塚決戦勝利、極右高市・戦争突撃内閣打倒! 中国侵略戦争を内乱へ! 荒々しく突き進もう。

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