COMMUNE 2006/09/01(No.364 p48)

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9月号 (2006年8月1日発行)No.364号

定価 315円(本体価格300円+税)


〈特集〉  民主党憲法提言を批判する

□自治労・日教組を柱に9条改憲阻止の運動を
□国連を前面に押し立て9条解体する憲法提言
□平和基本法で改憲派へ転向を画策する日教組

資料1 民主党憲法提言(抄)
資料2 小沢・横路の安全保障合意

●翻訳資料  CPEを撤回させたレンヌの学生の闘い

●国際労働運動 南朝鮮・韓国/韓国FTA阻止17万ゼネスト−−室田順子

    7・2三里塚集会

三里塚ドキュメント(6月) 政治・軍事月報(6月)

労働月報(6月)  闘争日誌(5月)

コミューン表紙

    戦争の元凶は誰か

 7月5日の北朝鮮の7発のミサイル発射をきっかけに、日帝は、米帝以上の勢いで北朝鮮への制裁を発動し、国連安保理での制裁決議に向けて突出した動きを示した。日帝は安倍官房長官や麻生外相らが国連憲章7章(軍事力行使を含む制裁)に言及した安保理決議をごり押ししようと奔走した。結果は日帝の思惑どおりにはならなかったが、日帝のこの突出は歴史的な意味をもっている。だいたい北朝鮮のミサイルはロシア沿岸の海上に落ちたにすぎないが、アメリカ軍は、アフガニスタンやイラクで、人びとの住むところに無数のミサイル(爆弾)を撃ち込み、何千人、何万人の人びとを殺しているではないか。日帝は陸・海・空の自衛隊がこれに参戦し、その虐殺の共犯者になっているのだ。戦争の真の元凶が誰であるかは明白である。

 実際に北朝鮮(そして中国)に対する米日帝の侵略戦争準備の攻撃はすさまじい。それ自体が北朝鮮スターリン主義に対する強烈な軍事重圧となって対抗的なミサイル発射を呼び出したとも言える。日本海での日米合同軍事演習、ハワイ沖での環太平洋合同軍事演習リムパック06など、巨大な軍事力を誇示しつつ、北朝鮮に対する戦争挑発が現に行われているのだ。マスコミがこうしたことを報道しないことは、そもそも彼らが戦争翼賛報道に転落していることを示している。今日の日帝の憲法9条改悪策動、教育基本法改悪攻撃、共謀罪新設攻撃、有事法制に基づく国民保護計画の実施、小泉の靖国神社参拝攻撃など、戦争に向かっての一切の攻撃と北朝鮮ミサイルを口実とした排外主義攻撃とは、完全に表裏一体の攻撃である。

 もちろん、北朝鮮スターリン主義権力による今回のミサイル発射は労働者階級の立場から反対すべきものである。北朝鮮は今や体制的に破産し、労働者人民を食わせていくことができなくなっている。金正日独裁体制に対していつ人民反乱が起きても不思議でないところまで来ている。帝国主義はここに目を付け、北朝鮮の体制転覆、北朝鮮軍事占領をめざして侵略戦争の体制を強めているのだ。それに対して、金正日は核開発、ミサイル開発などのパワーポリティクスの論理で対抗を図り、反人民的延命を図っている。これは帝国主義と闘う国際労働者階級に対する敵対である。金正日を打倒するのは、南北労働者階級人民である。帝国主義が北朝鮮のミサイル発射や拉致問題を口実に侵略戦争に訴えることなど絶対許すことはできない。

 日帝が米帝とともに、北朝鮮制裁に突出して動いている時、日本共産党はその排外主義宣伝に唱和し、侵略戦争に向かっての奔流にさおさしている。志位委員長が7月5日に発表した談話は、日米帝の対北朝鮮軍事重圧も米軍再編も国民保護計画も、そして改憲・教基法改悪攻撃も何一つ触れていない。その上、安保理で制裁協議することも、経済制裁することも容認している。彼らは戦争の切迫の中で、一切の反対運動を圧殺して戦争体制を築こうとしている帝国主義権力に向かって、「私たちは北朝鮮にも反対、テロにも反対しています」と誓い、弾圧しないでほしいと哀願しているのだ。それは、しかし底なしの侵略戦争翼賛の道だ。これは労働者階級が、排外主義を克服し、国際連帯闘争で帝国主義の侵略戦争を内乱に転化していくことに対する反革命的敵対だ。しかし、それは彼らの恥多き死を招くだけである。(た)

 

 

翻訳資料

CPEを撤回させたレンヌの学生の闘い

 丹沢望訳

  〔解説〕

 フランス・ブルターニュ地方の主要都市レンヌにあるレンヌ第2大学の芸術・社会科学科(レンヌ第1大学は自然科学系と法学部)は、全国に先がけて反CPE(初期雇用契約)闘争の口火を切って学生が占拠闘争、ストライキ闘争に決起したところだ。レンヌ第2大学では、すでに2月7日に数千人の学生たちが大学の建物を封鎖し、中に座り込んで占拠した。それ以来、ストライキで授業はすべて中止され、大学は約5000人の学生によって管理されてきた。うち約2000人の闘う学生が毎晩講堂「ホールB」に寝泊まりしてストライキ態勢を維持した。
 レンヌの闘いの後にトゥールーズ、ナンテール(パリ第7大学)が続いた。68年5月革命の象徴であるソルボンヌ(パリ第4大学)の占拠闘争は3月7日からだ。
 今回の翻訳資料は、レンヌ第2大学に昨年まで通学していた学生が、3月終わりから4月初めまでの最高揚期にレンヌ第2大学の学生運動に参加しに行き、その生き生きとした戦闘的闘いをルポルタージュ風に紹介したものだ。
 このルポルタージュでは、学生たちが公式の学生自治会に依拠して闘うのではなく、学内に学生総会や各種委員会を創設し、パリ・コミューンを彷彿とさせるような闘いを展開している姿を浮き彫りにしている。公式の学生自治会や、共闘している労働組合の既成指導部が反CPE闘争をフランス資本主義打倒の根底的な革命的闘いへと発展させることを拒否しているなかで、学生たちはきわめてラジカルな闘いを開始した。
 代議制ではない全員参加の直接民主主義的機関である学生総会を最高の意思決定機関として確立し、大学占拠と街頭実力闘争の結合、労働者階級との連帯と共同闘争の実現を意識的にめざす闘いが開始されている。
 反CPE闘争は、フランス帝国主義が民営化、規制緩和、社会保障削減、労働時間の延長などの攻撃をさらにエスカレートさせ、労働者階級が歴史的に勝ち取ってきた諸権利の一切を解体する攻撃を仕掛けてきたことに対する激烈な反撃の闘いだ。この闘いの勝利を真剣に追求する限り、帝国主義打倒の革命的闘いの推進以外にないという結論にたどり着かざるを得ない。このルポルタージュはまさにそうした闘いが68年5月革命の限界を乗り越えて開始されつつある姿を生き生きと描いている。

……………………………………

 ● 3月27日 月曜日

 夜遅くなってレンヌに到着し、占拠されていたレンヌ第2大学(芸術・社会科学科、第1大学は自然科学と法律学科)に行った。実際には、「ホールB」と呼ばれる建物だけが占拠されており、他の建物は、入口がテーブルや椅子で封鎖され、ピケットラインによって防衛されていた。ストライキの初めのころには反占拠派の学生達が力ずくでピケットラインを越えようとしたが、それが失敗したので彼らがもう一度それを試みそうにはなかった。だから私が大学に行った時には一人か二人がそれぞれのピケットにいただけである。
 ホールBの前について最初に目に入るのは「社会闘争を!すべてを裸にせよ」と書かれた巨大な横断幕だ。ホール内部では、たくさんの人々が酒を飲んだり、歌ったり、叫んだりしていた。これらの人々のすべてが学生ではないということはすぐわかる。同じ頃に、講義室では「委員会」が翌日の行動の準備をしていた。この日の午後の総会(約5000人が集まった)で3つの行動を翌日の火曜日に行うことが決議されていた。火曜日は労働者との共同デモと、多くの部門、特に公的部門でのストライキが行われることになっていた。3つの行動とは、派遣会社や銀行などの窓にペンキを塗ること、これらの建物の鍵穴に接着剤を流し込むこと、主要な鉄道の駅を占拠することであった。
 したがって「行動委員会」の任務は、これらの材料を用意することであった。毎日5つの委員会のミーティングがあり、学生であるかどうかにかかわりなく、誰でもが参加できた。5つの委員会とは「行動委員会」、「学内委員会」(教師、清掃係などの大学内の労働者との連絡を行う)、「対外委員会」(学外の労働者や中学・高校の学生、失業者などとの連絡を行う)、「占拠委員会」(ピケットラインや掃除当番などの学内生活の組織を行う)、「弾圧対策委員会」(逮捕されたり、裁判にかけられるようになった場合のわれわれの権利について全員に情報を提供する)である。これらの委員会は総会に提案を行うことになっていた(しかし、どの委員会に参加していなくても提案を行うことはできた)。そして委員会は提案が了承されたら、今度はそれを実現するために活動した。
 3月28日 火曜日(労働組合によって呼びかけられたスト第1日目)
 ペンキと接着剤を用意した後、われわれは11時にデモに出発した。巨大なデモだった。…
 われわれがビルの窓にペンキを塗る時には、塗っている人の周りを取り囲んでその人を防衛した。ある場所では、デモ秩序維持班(労組のショップスチュワードで、デモ先頭の横断幕の前やデモの横にデモ参加者が出たり、違法な行動を行うことを制止する役割を持つ)の2人の巨漢が、それは違法だと言って制止しようとした。これに対してはわれわれは、レンヌ第2大学の総会での決議によって認められたのだから「民主主義的」な行動だと答えた。民主主義万歳というわけだ!2人のうち1人はしつこく制止し、ペンキの入ったバケツをつかもうとしたが、ペンキを頭からかぶってしまい、恥をかいて黙って去っていった。このようにレンヌの闘いは、パリと同じような水準のものではなかった。ある総会でわれわれはデモ秩序維持班を設けることに反対する決議をあげていたので、われわれは秩序維持班の命令を無視できたし、自分たちの横断幕(「ゼネストで全てを阻止しよう!」「革命」と書かれたもの。いずれも総会で承認されていた)をデモの最先頭にしばらくの間置くこともできた。
 われわれが駅に着いた時にはすでに、デモ隊が駅に突入していた。デモの方向を変えようと誰かが叫ぶ必要はなかった。それは誰にとってもそうしなければならないことが明白なことであるかのように自然に起こった。デモ隊の数は数千人だったし、警官は1人もいなかった。数百人の学生がレールの上に集まり、全ての列車が運行を阻止された。それは楽しいことであり、みんなは歌を歌っていた。駅構内のいくつかの店の窓やTGV(フランス新幹線)の内部が破壊される音も聞こえたが、私はそれを目撃してはいない。われわれは駅に2時間近く居た。午後3時ごろ自然発生的な行動にでたデモ隊は駅を離れた。約500人で出発したデモは、そのうち1000人にふくれあがった。デモ隊はUMP(国民運動連合 政権党)の地方事務所の方向に向かった。そこは常に警察によって厳重に警備されており、いつもそこから暴動が始まる場所だった。警察の阻止線がデモ隊を停止させると、最前列の人々が空き瓶を警官たちに投げつけ始めた。
 単純化して言えば、これらの人々は「郊外の少年たち」と「アナーキスト」の混成部隊であるが、この2つの言葉は不適切だろう。レンヌには郊外と市内のはっきりとした地理的区別はないし、黒人やアラブ系の人々はあまり住んでいない。「アナーキスト」と呼ばれている人々の大部分は運動のあらゆる場面に参加している大学生であり、「郊外の少年」と呼ばれている若者たちの大部分は、おそらく中・高校生であろう。
 15分後、警察が攻撃を開始し、人々を逮捕し始めた。彼らはゴム弾銃をわれわれに向けて撃ち、われわれを包囲し始めた。誰かが解散と話しているのを聞いたので、われわれはデモを離れ、カフェに入った。これで暴動は終わりだと思ったが、1時間後にカフェから出てくると催涙ガスの巨大な雲が空にみえたので、再びデモに参加した。これがレンヌでの暴動のすばらしいところだ。警察に分散させられ、集団が孤立するとこれでお終いだと思うかもしれないが、これらの集団は町の中心部をうろついて別の集団と合流したり、友人に電話したりして、半時間後には暴動が再開されるのである。
 警察官との「猫とネズミ」の追いかけっこゲームは午後7時頃まで続いた。この時間にはわれわれは大学に戻り、翌日の行動、とりわけバイパスのレンヌ環状線の封鎖の準備をした。

 ● 3月29日 水曜日

 われわれは朝5時半に起床し、バイパスの異なった3地点に設けられた集結地点のうちの一つに行った。当初われわれは100人そこそこであり、バイパスにつながる一道路だけを封鎖した。われわれはバリケードを作るためにゴミ箱や手押し車や木材の破片などを集めに行った。そのうちいくつかは、車の運転者たちがバリケードを破壊しようとしないように火がつけられた。ひっきりなしに学生がやってきてわれわれは300人近くになった。その時点でわれわれはバイパスに侵入した。大型トラックや貨物自動車が時速120qで走っているこの自動車道路を見て、最初はここに侵入することは非常に難しいと考えた。しかし、ゴミ箱や手押し車を乱暴な車の運転手から自分を守る手段として使うと、全てはうまくいった。われわれのバリケードが完成すると、車の運転手たちが何人かわれわれのところに話しに来た。全体としてこれらの人々は好意的であり、ほとんどの人が車から出てきて、お互いに話を始めた。だれもがこの行動が何に関するものかを知っていたし、この話題に無関心な者は誰もいなかった。
 近くの工場の2人の労働者は道路脇の壁に登って、われわれに話しかけ、われわれの行動を誉めてくれた。私と話したほとんどの人が、昨日巨大なデモが行われたのに政府が法律を撤回しなかったのだから、デモとは別のことをやってみるのは当然のことだということに賛成した。私は、唯一一人の男だけが、遠くのほうにいる警官に対して「なんで何にもしないんだ。あいつらを蹴散らせ」と非常に怒って叫んでいるのを聞いた。確かに警察が行動を開始するまでにはほとんど2時間という長い時間がかかったことは事実だ。その理由は、バイパスが3つの異なった場所で封鎖され、警察が3カ所全てを同時に攻撃できなかったからだろう。デモ隊に対する好意的態度が一般的だったので、あまりに抑圧的に見られることを警察が望まなかったのではないかと思われる。しかし、機動隊が到着するとわれわれに催涙ガスを浴びせかけたので、われわれは逃げた。ともあれ、われわれは勝利と言えるほど長い時間そこに居た。われわれは42qの渋滞を作り出したからだ!われわれは大学の方向にデモ行進し、機動隊はそれを追いかけた。いくつかのバリケードも作ったが、本気で戦闘しようとする者は一人もいなかった。大学に着くと、われわれは他の場所から帰ってきた学生たちと合流した。100人の学生たちは、もう一度バイパスを封鎖しようとしており、半時間の間封鎖を行うことに成功した。
 他の学生たちは、教師がこっそり授業を行っていないかどうか、キャンパスを見て回ることにした。彼らは授業をしていた教師を捕まえ、手足を持ってみんなの見ている前で教室からつまみ出したことを報告するためにすぐに帰って来た。これを聞いたわれわれは、もっと多人数で戻り、授業をしている教師を発見し、取り囲んだ。われわれのうちの一人が鉄棒をもてあそびながら、この教師に対し、まだ授業をするならそれは無謀にも自分の命を粗末することだと警告した。この教師は警告をした学生の行為に対する苦情を提出したが、総会はこの学生を支持する決議をしたということを私は後に聞いた。いずれにせよ、これ以降秘密の授業が行われたとは一度も聞いていない!
 午後にはスト中の学生を集めた総会が行われ、約500人が集まった。それはちょっと混乱した、しばしば不適切と思われる形式主義(例えばすべての具体的な実務についていちいち決議するなど)を伴ったものではあったが、驚くべきエネルギーに満ちていた。眠らずにやったとしても、すべてをこなすことが無理なほど多くの活動を一日のうちに行うことを決議するほどであった。全国共闘会議への代表を選出する際には、団体そのものに対する拒絶感情が表明された。UNEF(フランス全学連)の代表候補は、ずっと抗議の口笛を受け、何らかの団体に属さないと表明した代表は拍手で歓迎された。前日の事件について討論が行われた際、デモ隊といわゆる「壊し屋」の間には何の区別もないと発言した人が最も大きな喝采を受けた。また「われわれは全員犯罪者だ」という横断幕を作るべきだという提案は拍手で歓迎された(実際にはだれもそういう横断幕を掲げはしなかったが)。決定された翌日の主要な行動は、朝のバイパス封鎖、午前11時の低学年の生徒とのデモ、午後1時にEDF(電力公社)の労働者に会いに行くこと、そして午後9時のシャリバリ(暴動の暗号名)であった。

 ● 3月30日 木曜日

 この日はバイパスの封鎖から始まったが、中・高校生も一緒だったためかなりうまくいった。われわれは車の中にいる人にもっと話しかける努力をした。何人かの人はわれわれと話すために窓を開けていた。私が話しかけた人は好意的であったが、窓を閉めっぱなしの人もいた。私はバイパスの他の場所(4地点で封鎖されていた)も見て回ったが、その時バリケードを壊すことで一致した貨物自動車の運転手たちのグループを見つけた。われわれは数分間逡巡した後、貨物自動車の運転手が投げ捨てたゴミ箱を元に戻すなどしてバリケードを防衛した。それは、われわれと貨物自動車の運転手たちとの争いに発展することが明らかになるまで続けられた。われわれの決意を見て(それに彼らはいかに強かったとしてもわずか10人であったので)、彼らはバリケードを壊すことをあきらめ、むしろ穏やかにわれわれと話をし始めた。彼らは、一種の自営業契約をしているので、仕事にいかないわけにはいかないのだと説明した。彼らは最初はわれわれが学生ヒッピーであり、われわれを降参させるにはちょっとばかり強くでればいいと考えていたのではないかと私は思う。だが、彼らは事態はそう単純ではないことにびっくりしたのだ。われわれは中・高校生たちと一緒にデモに行かなければならなかったので、15分後にはそこから離れた。
 数千人がデモには集まった。しばらくデモをした後、われわれ学生は昼食休憩している労働者に会って、ゼネストをやる必要性について話すためにEDFの工場にデモの隊列を向けようとした。しかし、低学年の生徒たちはこの計画に気が付かず、彼らの隊列のデモ秩序維持班はこの方向にデモ隊を行かせることを望まなかった。このため時間がかかり、われわれが工場についた時には労働者たちはすでに休憩を終えていた。何人かの学生たちはそれでも工場内に入ろうとフェンスに登った。
 午後9時、「シャリバリ」(暴動)の集合場所には約80人ほどしかいなかった。しかし、われわれが「自然発生的デモ」(「山猫デモ」「直感的偶発デモ」を開始すると、みんながやってきてその数は200人になった。正規の暴動には数は十分ではない。特に先週の正規の暴動は1000人以上が集まり、午前1時まで続いたのだ。しかし、私がもっとも楽しく感じたのは、この自然発生性だ。われわれがそばを通るのをみればいつでも参加してくる酔っぱらった学生やホームレスの人たち、郊外の少年たちなどを期待できるのだから。……
 いずれにしてもこの夜はあまりたいしたことはできなかった。何台かの車が壊され、警察官が非常に慎重だったので警察との衝突もなかった。しかし、われわれはそれでも次のようなスローガンを叫びながらデモを行った。
 「すべてはわれわれのものだ、彼らのものは何もない、彼らがもっているものは盗んだものだ、CPE(初期雇用契約)を撤回しろ、CNE(新規雇用契約)を撤回しろ、さもないとみんな吹っ飛ばす」
 これに対し他の者がこたえる。「CPEなんてどうってことない、俺達は働きたくないんだ」
 他のスローガンも以下のように続く。
 「ビルパン、あせらずやれよ。みんな恐ろしく楽しんでいるぞ」「破壊行為万歳!機動隊を蹴飛ばせ、UNEF(フランス全学連)をひっぱたけ、店のウインドウには石を」
 大きな共同デモの際に一番よく叫ばれた最も人気のあったスローガンはつぎのようなものであった。
 「つるせ、つるせ、つるせ、あんたのボスを。そうすりゃボスのお金はあんたのもの。つるせ、つるせ、つるせ、あんたのボスを。そうすりゃボスの現ナマはあんたのもの。ボスをつるさにゃお金も手にはいらない。ボスをつるさにゃ現ナマも手にはいらない。」……
 このようなスローガンはこの運動以前には存在しなかった。新しいスローガンが毎日作られている。こうした小さな事実だけでも、いくつかのスローガンを毎年毎年繰り返して使っていた1998年以来の学生運動とは異なる雰囲気が現在存在することを示している。

 ● 3月31〜4月2日 金曜日から日曜日

 以後の3日間には、ほとんどの学生が週末に自分の両親のところに帰るのであまり多くの行動が計画されていなかった。
 しかし、土曜日にはショッピングセンターや「バージン」などの市内の大きな店を封鎖する行動に200人が参加した。これは店の側が、われわれが近づくやいなや店の側から入口を閉め窓を防護する措置を取ったので非常に簡単なことだった。……
 こうした行動を行った以外は、われわれは週末のほとんどを、1週間のうち1日しかストライキを行うことしか呼びかけない労働組合に頼ることなく、運動を学生や中・高校生の運動の範囲を越えて拡大する必要性について討論して過ごした。
 このスト期間中にわれわれと一緒にデモをした労働者たちは不安定な生活に最も苦しんでいる労働者ではなく、公的部門や民間の大企業で組合がよく組織されている職場で働いているのでストライキをする余裕のある労働者であるという事実を、われわれは認識せざるをえなかった。彼らがストライキを行う主要な理由は、われわれとの連帯とは関係ないものであったし、ゼネストを行う理由とはならないものであった。
 他方、不安定な生活に最も苦しんでいる労働者たちは、小さな、組合のない企業で働いていた。これらの労働者は、CNE(年齢に関係なく、従業員20人以下の企業の労働者に適用されるCPEの一種)と呼ばれる新たな労働協約によって脅かされている労働者たちであった。彼らはたいていは簡単に首を切られ、自分たちを守ってくれる組合がないため、ストライキを行うことができない労働者であった。したがって、この運動を発展させることを望むならば、われわれはこれらの労働者たちがストライキを行えるように援助するか、それが不可能ならばわれわれと共に行動を行うことできる機会を与えるように努力すべきだと考えた。
 われわれはまた、2カ月間にわたって労働者たちと接触しようとして失敗した「学外委員会」(学生の団体だが、そこでは多くのトロツキストが活動していた)の敗北について熟慮しなければならなかった。彼らが行ったことの大半は、(「生産的」労働者のいる)レンヌの主要企業の門前でゼネストを呼びかけるリーフレットを配布することと、「専門家間」会議を毎週組織することであった。この会議には大部分が組織労働者からなる20〜30人が参加し、自分たちの組合の動向や、この運動に対して全般的に好意的だがストライキを行う準備ができていない同僚たちがどう感じているかについて報告した。だからこの会議の役割は純粋に情報交換的なものであり、行動に導くいかなる論議も行われなかった。われわれは、もっとなにか別のことを緊急にしなければならないと感じた。……

 ● 4月3日 月曜日

 この日の午後の総会には5000人の学生が参加した。投票が行われたもので決議されたものは以下のようなものである。
・ストライキと大学の封鎖を継続する(圧倒的多数で決議)
・CPEが撤回されさえすればストライキの終了を呼びかけようとするいかなる労働組合や組織も弾劾する
・われわれの要求がCPEの撤退よりもさらに大きなものであり、それには「機会均等法」とCNEの撤回も含まれることをより強調するために、学生の横断幕にCPEという言葉を入れることを禁止する
・水曜日の「反ストライキ派」のデモを妨害に行く
・われわれの先頭の横断幕には「革命」の主張がされること……
 総会が終わるとすぐ、われわれは「労働者・学生・失業者・無名の人の総会」という計画を推進するために「学外委員会」に参加しようと試みた。トロツキストたちはわれわれの計画にあまり反対はしなかったが、われわれが突然「学外委員会」に現れ、彼らが2ヶ月間以上にわたって行った困難だったが成果のなかった活動を否定してすべてを掌握しようとしていることが気に入らなかった。……
 4月4日 火曜日(労働組合連盟によって呼びかけられたストライキの2日目)
 この日の最初の行動は、午前6時にバスの車庫を封鎖することであった。バスの運転手たちは1週間前に実施したようなストライキを行うことはできなかった。なぜなら、組合がストの警告をだすのが遅れたからである。そこでバスの運転手たちは学生に対し、車庫に来て封鎖するように頼んだ。私はこの行動に参加しなかったが、労働者たちが車庫が封鎖されるのを歓迎していたので、それを封鎖するには30人の学生で十分だったと聞いている。管理職が少しいやがっただけだ。それでも封鎖は(みんなをデモにいかせるのに遅れないように)午前10時まで続き、3分の2のバスの運行が阻止された。もし労働者たちがわれわれといっしょにいなかったら管理者たちはすぐに警察をよび、われわれが警察に抵抗するには十分な勢力ではなかったので、われわれを解散させただろう。
 「予定通り」のデモが終わると、約5000人がデモをしている間に、その一部分(約1000人程度)は駅を占拠しに行き、他の一部分も校長室を占拠しに行った。この時点でわれわれはわれわれがリーフレットで呼びかけていた集会に行った。…われわれが集会場に到着すると、諸組合(SUD|連帯・統一・民主やCNT|全国労働連盟などの最もラジカルな組合)がすでに来ていた。彼らは(恐るべき音楽でわれわれを楽しませた)自分たちの音響装置を持って来ており、われわれがいないのに勝手に集会を開始していた!集会には数百人が参加していた。諸組合が何でも自分の思う通りにやっていたので、この集会をわれわれの望んだようには進行させることはできなかったが、それでもわれわれは5〜6回にわたって介入し、なぜこの集会を組織したのか、つまりすべての人に開かれた「レンヌ闘争委員会」を組織するためにこの集会を組織したということを明らかにすることができた。この委員会の目的は普通に機能している経済に対抗する行動を組織し、ゼネストを引き起こすことであった。…われわれは大学で明日行われる新委員会の第1回の会合にくるように人々に訴えた。…
 この会議の直後に、われわれのうち何人かは「自然発生的デモ」に参加した。それはすぐに暴動へと発展した。この暴動には数千人が参加した。…「自然発生的デモ」は午後2時頃から始まり午後7時頃に終わった。この時点でわれわれは、大学に戻り次の日の準備を行った。

 ● 4月5日 水曜日

 われわれは午前6時に環状道路の封鎖に行った。この時は先週よりも少し数が少なく100人ほどであった。バリケードとして使う材料を見つけることは、警察がすでにそれらを片づけてしまっていたので、難しかった。この日われわれは初めてドライバーたちのためにコーヒーと紅茶を持ってきていた。そしてコーヒーを飲みながら、何人かのドライバーたちと非常におもしろい討論を行った。しかし、先週よりももっと怒っている人々もいた。…
 警察がくるまでに40分ほどかかった。環状道路では一度に3つの地点で封鎖が行われていたが、彼らはわれわれのいた場所を攻撃した。大量の催涙ガスを発射した後、警察は市の中心部に続くすべての道を封鎖した。われわれは1時間以上も郊外の工業地帯に閉じこめられ、どこに行っても警官につきまとわれた。結局、われわれはこの地区に停車していたバスに乗らざるをえなくなったが、それでも警官は町の中心部までずっと付き添ってきた。それからわれわれは大学まで地下鉄に乗り、そこで地下鉄を封鎖した。それは非常に簡単だった。全てのシステムをストップするには車両のドアをブロックするだけでよかった。われわれは地下鉄が「悪意ある行動」によって動いていないことを告げる放送を聞いた。……
 われわれは大学に戻ったが、1時間後には市庁舎前での「反ストライキ派」のデモを妨害しに行った。
 報道機関はわれわれの数を100人とし、反スト派の数を200人としていたが、われわれは少なくとも彼らと同数はいたと思う。われわれは彼らの服装から彼らがどっちの陣営に属しているかがわかった。彼らはみんな裕福な家庭出身の分別のある学生のように見えた。貧しい学生のなかにも反ストライキ派はいたと思うが、そういう学生は私がみたかぎりストライキに反対するデモには参加していなかった。「反ストライキ派」の後には町の中心部の30人の商店主と、数少ないレンヌの右翼、特に右翼の学生組合(UNI)の指導者などが従っていた。しかし、彼らは自分たちのデモが「非政治的」なものであると決定していたので、彼らの唯一のスローガンは「われわれの大学を解放せよ」というものであった。そこで最初にやったことは彼らのためにスローガンを作ってやり、大きな声でそれを叫ぶことであった。それは次のようなものであった。
 「労働、家族、祖国、サルコジ万歳」「反ストライキ派は怒っている キャビアが高すぎるから」などや、同様のもの多数である。
 それからわれわれは彼らを殴ったり、「ひつじ」と呼んだりしながらその後を走ってついて行った。……その後彼らはシット・インを行った(この時点で彼らはわずか50人になっていた)。そこでわれわれは彼らを取り囲み、腐った卵を投げつけた。彼らはこの場所からすぐに逃げていった。
 これは非常におもしろかったと言わざるを得ない。
 午後7時には、われわれが火曜日に呼びかけたレンヌ闘争委員会の会合のために大学に戻った。
 会場には50〜80人の人々がいた。その大部分は労働組合員か活動家であった。集会のこうした現状は、この集会が市の中心部の外にあり、ある人たちにとっては行くのが恐ろしい場所である大学で行われたという事実によって、部分的には説明できるだろうと思う。だからある意味ではこの集会は成功しなかった。
 しかし、興味があるのは、出席したほとんどの組合員がこの運動において自分の組合がたいしたことをしていないし、自分たちは組合にゼネストを呼びかけるつもりもないと言っていたことである。これらの人々は、自分たちの組合について何も言わずに、また、自分のしようと思っていることが自分の組合にとって受け入れられるものであるかどうかについて何の心配もせずに、個人的レベルではこの運動にさらに深く関与したいと望んでいた。
 われわれは、この「闘争委員会」がどういうものであるべきかについて長い間討論した。だがそれは、傍聴していた一人のトロツキストによってそれは妨害された。彼らは、この闘争委員会は代表機関なのだから、火曜日に行われた最初の集会の決議を実施するにとどめるべきだと主張した。火曜日の集会の際には、ごく一部の労働組合員が発言しただけで、何の具体的なことも決議されていないのだから、それはわれわれにとってはまったくおかしな話であった。われわれは、重要なことはわれわれが代表であるか否かに惑わされることなく、組織され、共に任務を担うことを望んでいる者たちの集団であるということだとこたえた。このトロツキストは何度も集会を中断させ、集会全体がこの男に黙るように要求するまでそうしたのである。
 結局、われわれが決定したことは、金曜日にできれば市内でもう一度集会を行うということと、ショッピングセンターの日常活動をストップさせる行動を土曜日の午後に組織すべきだということだけであった。

 ● 4月6日 木曜日

 水曜日の環状道路の封鎖行動があまり成功したものではなかったので、われわれは別の方法を試してみることにした。われわれの集合場所を直接バイパスの上に設定するのではなく、午前6時に大学に集合し、最終的にどこにいくべきかを決定することにした。しかしこれも失敗した。われわれがどこに行くか決定してから環状道路に到着するまでにわずか15分しかかからなかったにもかかわらず(地下鉄を使った)、われわれが現場に到着した時にはすでに機動隊がそこにいた。警察がわれわれの隊列の中のだれかから情報を得ていたことと、警察が環状道路の異なった地点に数台の警察車両を準備していたことは明らかであった。警察が今回はわれわれに道路封鎖のチャンスを与えまいと決意していたことも明らかだ。警察が環状道路にいるのを発見して、われわれは環状道路に連絡する道の一つを封鎖しに行ったが、警察はわれわれの後についてきた。そこでわれわれは道路上で自然発生的デモを開始した。…
 それからわれわれは、学生と生徒たちによって組織されたデモに参加した。ここには5000人が集まった。1時間後ぐらいにはこのデモも「自然発生的デモ」に転化した。…ある地点で何人かの人がデモをレンヌ第一大学の一学部である法律学部の方向に向けることに成功した。ここはまったくストライキをやっていなかったので、われわれは大学内に突入し、全ての授業を妨害した。ある講義室では、50人の法学部の学生が授業を聞いていたところへわれわれ100人が入って行き、インターナショナルを歌い、椅子や机をバンバン叩き、教師にものを投げつけ、ステージの上で戦闘態勢をとった。他の約50人ほどの学生の集団は、UNI(右翼の学生組合)の地域支部に侵入することに成功し、室内の全てを破壊した。…
 私は金曜日(4月7日)の朝、レンヌを去った。……
 月曜日(4月10日)にはビルパンはCPEを撤回するという決定をしたことを発表した。したがって、この時点は、しかるべき数の学生がこの運動の他の2つの要求であった「機会均等法」とCNEの撤廃を要求するためのストライキを継続する準備ができているかどうかを見極める決定的な時点であった。5000人の学生が集まった午後の総会では、2700票対2300票で占拠を終結することが決議された。しかし、水曜日には新たな集会が行われ、7000人が参加した。この集会では、票の数を数えていた人が、占拠に賛成の学生は反対の学生より多いと発表した。…
 どうしてこのような2つの矛盾する決議があげられたかを正確に理解するのは難しい。恐らくストに賛成の学生たちは、ストは以前と同じように簡単に自動的に決議されるものと思いこんで月曜日の総会に参加しなかったが、水曜日の総会には参加したということではないだろうか。だが、いずれにしても3500人の学生がCPE撤回後もストライキを継続することに賛成であるにもかかわらず、極少数の学生だけが大学の授業再開に反対して闘うエネルギーと意欲を持っていたのである。

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