2009年6月15日

足利事件 “間違ったでは済まぬ” 階級支配が冤罪つくり出す

週刊『前進』06頁(2395号6面2)(2009/06/15)

足利事件 “間違ったでは済まぬ”
 密室の拷問で自白強要
 階級支配が冤罪つくり出す

 足利事件で無実を訴え続けてきた菅家利和さんが、ついに釈放をかちとった。1990年に栃木県足利市で起きた4歳の女の子の誘拐・殺害事件の「犯人」として、91年末にデッチあげ逮捕されて以来、実に17年半ぶりの出獄だ。
 この長い年月、無実の人間に無理やり罪を着せて無期懲役という過酷な刑を加え続けた日帝国家権力の責任は、きわめて重い。釈放後の記者会見で菅家さんは、「当時の刑事、検察官に謝ってほしい。裁判官にも謝ってもらいたい」「『間違った』では済みません。絶対に許せません。自分の人生を返してもらいたい」と語った。そのとおりだ。デッチあげの権力犯罪を仕組んだ警察・検察とこれに加担した裁判所のすべてを怒りを込めて断罪し、打倒し尽くさなくてはならない。
 ここに暴き出されているのはブルジョア国家権力の正体だ。冤罪事件とは、何かの間違いによって引き起こされるのでは断じてない。階級支配の維持を最大の目的にした国家権力がその支配の危機を取り繕うために、必要なら無実の人間をそれと百も承知で平気で「犯人」にデッチあげる。ここに冤罪の根源がある。
 実際に、菅家さんへの逮捕は「捜査」とは名ばかりの、最初から「ウソの自白」を強要する行為として行われた。密室での卑劣きわまりない拷問的取り調べによって、権力の筋書きに沿った「自白」がつくり出された。裁判所も菅家さんの法廷での無実の叫びに耳も貸さず、警察・検察の主張を丸のみして無期懲役の判決を下したのである。
 今日、法大闘争への弾圧で起きていることも同じだ。そこでは公安警察が学生を次々とデッチあげ逮捕し、警察の密室に隔離して、むきだしの暴力をも使った思想転向強要の攻撃を行っている。逮捕の目的は闘争破壊・団結破壊の一点にあり、そのためなら口実は何でもいい。裁判所はこの弾圧を容認するばかりか、警察・検察の違法行為に「合法性」を与えて積極的に支持する機関と化している。この日帝国家権力の恐るべき犯罪性を今こそ徹底弾劾する一大闘争を巻き起こそう。

 裁判員制度推進へあがき

 菅家さんの釈放は、何よりも菅家さん自身の獄中での必死の闘いと、これを支え続けた獄外の支援者の粘り強い努力によって、実力でもぎとられたものである。それは、裁判員制度の導入をも直撃し、司法権力への怒りと不信、裁判員制度への全社会的な批判をますますかき立てている。
 ところが、追いつめられた日帝・法務省はマスコミを大動員し、この事態を逆に裁判員制度推進のテコに転化しようとする必死のあがきを開始した。
 菅家さん釈放の決め手になったのがDNAの再鑑定であったことに飛びついて、警察署での拷問的取り調べによる自白の強要よりもDNA鑑定の誤りこそが問題であり、「正確なDNA鑑定」さえあれば冤罪は防げるなどという、悪質なキャンペーンを流し続けている。「昔のDNA鑑定は精度が低かったが、今のDNA鑑定は精度が高くて百パーセント信頼できる」とし、”DNAが一致すれば犯人とみて間違いない、裁判員が迷うこともなくなる”というのだ。
 とんでもないことだ。冤罪の原因は、階級支配と国家秩序を守るためには何をやってもいい、無実の人間に罪を被せてもそれで治安が維持されるならかまわないとしてきた日帝権力そのものにある。この根幹を打ち砕くことなしに、どんな「科学的鑑定」も冤罪を防ぐことはできない。逆に権力によるデッチあげに「科学」の名でお墨付きを与える結果になるだけだ。
 日本共産党や日弁連執行部は「取り調べの可視化」こそ冤罪防止の鍵であるかのように言い募っているが、最も肝心な代用監獄の即時廃止を要求しない。結局は、法務省と一体となり、足利事件で噴き出した人民の権力への怒りを「こうすれば正しい裁判ができる」とするペテンのもとにねじ曲げ、裁判員制度推進の側にもっていこうとしているのだ。
 菅家さんの怒りと悔しさを晴らす道は、今やなりふり構わぬ治安弾圧機関の姿をあらわにした裁判所・検察庁との徹底対決にある。法大闘争の爆発はその最先端だ。6・14—15闘争の爆発を起点に、その発展を全力でかちとろう。