2009年10月12日

弔辞 農地死守の三里塚闘争と入会地奪還の北富士闘争 三里塚反対同盟事務局長 北原鉱治

週刊『前進』06頁(2411号6面2)(2009/10/12)

弔辞 農地死守の三里塚闘争と入会地奪還の北富士闘争
 三里塚芝山連合空港反対同盟事務局長 北原鉱治

 10月4日、天野美恵さんの訃報(ふほう)に接し、反対同盟は心から追悼の意を表します。
 美恵さんの生涯を振り返ってみるに、ひとしお私の心に感動を禁じえません。言葉が適切ではないかもしれませんが、もったいないことをしたという一念を感じています。春夏秋冬、北富士闘争の母の会として、事務局長就任以来49年間、生涯かけたその闘いの一念が私の心中に想起されてなりません。
 終始一貫、入会権闘争の闘いを貫き通してきた信念は、偉大な先駆者の一人として高く評価されるものと思います。忍野村に生まれ、育ち、ひとしお郷土愛の深いものがあったのだろう、ということも感じます。
 三里塚闘争との連帯、命がけで着弾地に座り込んで軍事演習をくいとめた忍草母の会の闘い、特に「富士を荒らすな!」と闘い、さらに全国の基地反対闘争に取り組んで闘った姿は、偉大な歴史の証人として社会の人びとに伝わっています。
 女性解放の闘いにおいても、一人の闘う女性の生きざまであったと理解を深めております。その闘いは三里塚の女性たちにも大きな教訓となり、現在の三里塚に引き継がれています。
 1971年三里塚闘争の第1次代執行の時、美恵さんが多くの忍野村の女性たちを引き連れ、反対同盟とともに先頭に立ち闘った姿は、今なお強烈な印象として残っていると思います。
 生前、美恵さんが語っていた簡潔な三里塚連帯の言葉を紹介したいと思います。
 「三里塚は自分の土地だよ」「自分の土地を売らない闘いだよ」「北富士は奪われた土地を取りもどす闘いです」「ただそれだけの違いっきり、権力と闘うのは同じだから一緒にがんばろう」
 三里塚全国集会には欠かさず参加され、いつも歯切れのよい声で、反対同盟を叱咤(しった)激励してきた闘争者でした。
 病(やまい)に倒れ、一人娘の国立市に居を移して、リハビリを行い、もう一度戦線復帰を念願しつつ療養に励まれましたが、人の命ははかないもので、とうとう帰らぬ人となりました。
 北富士闘争の完全勝利を思いとして残し、その心境を考えてみた時、無念という言葉を残しつつ去っていったのではないかと思われます。しかし反対同盟は、北富士闘争と三里塚闘争、すべての住民闘争の勝利を必ずや実現する決意であることをご霊前に誓います。それが故人の遺志を引き継ぐ者の使命であると深く肝に銘じるものです。
 さあ、もういいんだよ! 何もしなくてもいいんだよ!
 あなたの思いは、三里塚の大地に残されていきますよ! 安らかにお休みください。
 以上をもって追悼の言葉といたします。
 2009年10月7日