ZENSHIN 2000/10/02(No1975 p06)

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週刊『前進』(1975号1面1)

「一票投票」阻止! 国労代議員選挙勝利! 「四党合意」撤回かちとれ
闘争団を裏切る執行部を打倒し国労再生へ闘う新執行部樹立を
 10・8三里塚現地全国大集会へ

 国鉄決戦勝利−十一・五労働者集会五千人結集は、日本労働運動の未来を決する重大な闘いとなった。「四党合意」の受け入れを狙う「一票投票」をあらゆる闘いで中止に追い込み、代議員選に勝利し、現執行部の総退陣と、闘う新執行部樹立、国労の再生を絶対にかちとろう。「四党合意」を撤回させよう。そして十一・五労働者集会の大成功をかちとり、一大資本攻勢と対決する労働者階級の怒涛(どとう)の進撃の時代を開くのだ。さらに、今臨時国会での臨検法案強行策動や「教育改革」攻撃に始まる改憲・有事立法攻撃の激化と全力で闘おう。十・八三里塚闘争に総決起しよう。沖縄・名護新基地建設阻止闘争、介護保険闘争の前進を切り開け。

 第1章 全労働者の決起で国鉄決戦勝利開け

 「四党合意」撤回−「一票投票」の中止を求める闘いは、七・一から八・二六にいたるすべての闘いをもはるかに上回る大激突となっている。
 七・一と八・二六の国労臨大決戦で土壇場の危機に追い詰められた国労本部執行部は、闘争団切り捨てのための「四党合意」を撤回するどころか、まったく逆に、大会で二度も拒否されひん死の状態にある「四党合意」を生き返らせるテコとして「一票投票」をしかけてきた。
 それは、あたかも「民主主義的手続き」を保障するもののように装いながら、その実、七・一−八・二六の闘いが切り開いた全地平を暴力的に覆すことこそが狙いだ。「四党合意」の最も極悪な狙いを貫徹し、国労の団結と組合民主主義をさらに徹底的に破壊しようとするものだ。八・二六で全組合員から事実上の不信任=打倒をつきつけられ、自ら退陣を表明したはずの執行部が、その口をぬぐって開き直り、権力の座にあくまで居座りつづけるための反革命クーデターだ。
 この卑劣なクーデター策動を断じて許すな! ありとあらゆる闘いでこの「一票投票」を中止に追い込み、「四党合意」の息の根を今度こそ最終的に絶つのだ。そして代議員選に勝利し、本部の総退陣と、闘う新執行部の確立に向かって、断固として突き進もう。一切は、そこへ向かっての執念と、日々の闘いへの突撃にかかっている。
 「一票投票」など絶対に許すことができない。
 第一に、「四党合意」は労働組合への支配・介入そのものであり、日帝権力による前代未聞の不当労働行為だ。その「四党合意」を、組合の「一票投票」にかけること自体が不当労働行為の容認であって、根本的に許されない。
 第二に、不当解雇された当事者である闘争団の大多数が絶対拒否しているところで、その闘争団の生き死ににかかわる問題を全組合員の「一票投票」で決めるなどということがどうして認められるのか。これ自体が首を切られた仲間を切り捨てよと迫る踏み絵である。
 第三に、したがってこの「一票投票」の強行自体が組合民主主義と団結を徹底的に破壊するものであり、労働組合としての自殺行為だ。だがむしろ国労本部を牛耳る宮坂・チャレンジと上村革同一派は、この過程で国労の破壊・解体を全力で推し進めることを意識的に狙ってきているのだ。
 第四に、しかも「一票投票」は国労の規約にはない。八・二六大会の場で正式に決められたものでもない。したがってその投票結果や拘束力の有無などは、すべて国労本部の裁量に独裁的にゆだねられている。
 現にその「実施要綱」によれば、投票期間は九月二十六日〜二十九日のわずか四日、投票の管理は中央本部と各エリア・地方機関が行い、九月三十日にエリアごとに集約し、結果を十月二日までに本部に報告する。異議申し立ては投票締め切りから三日以内、投票用紙の保管は十月五日までしか行わない。これでは不正はやりたい放題、その事後摘発も不可能だ。
 また宮坂書記長は、闘争団の「一票投票中止」の要求に対して「一票投票は世論調査のようなもの」と言って追及をかわそうとしたという。不正投票で「○」が勝てば直ちに一切の「四党合意」反対の声を圧殺し、それでもなおかつ「×」が過半数となった場合は単なる「世論調査」として片付けてしまおうとしているのだ。
 今や国労内外から、「一票投票」の強行それ自体がもたらす団結と組合民主主義の破壊に対して、激しい怒りの声が上がっている。全国からの「一票投票中止」の訴えに続いて「一票投票禁止」の仮処分申請も行われ、これを支持する声が急速に広がっている。
 この闘いと一体で、「四党合意」を不当労働行為として真っ向から弾劾し、その撤回を求める労働委員会闘争も全国に拡大してきている。国労共闘を先頭としたこの闘いは、「四党合意」絶対反対をあくまで貫き、不屈に闘う闘争団を守り支えると同時に、千四十七人の闘いの真の勝利へ向けて、全国鉄労働者とこれを支援するすべての労働者の新たな戦闘的団結を積極的につくりだしていく闘いだ。五・二八反動判決以降の全情勢を実力でひっくり返す闘いそのものである。
 国労本部による「一票投票」の反革命クーデターを根底から打ち破り、「四党合意」撤回・本部総退陣へ、全国労組合員の死活をかけた一大決起をつくりだそう。闘う闘争団と家族のいのちがけの呼びかけにこたえ、代議員選に勝利し、「四党合意」撤回の労働委員会闘争を柱に、闘争団絶対防衛・国鉄決戦勝利の大運動を今こそ全国に巻き起こして闘おう。「一票投票」の中止・粉砕から十月国労定期全国大会へ向かって攻めのぼろう。

 第2章 資本攻勢の激化と闘う新潮流の任務

 この国鉄決戦をめぐる激戦激闘にかちぬくことと、十一・五労働者集会五千人の大結集−新潮流運動の圧倒的前進を闘いとることとは、今や完全に一体である。そこで問われているのは、今日の一大資本攻勢と真っ向から対決して闘う労働組合の新潮流の真に力ある登場である。
 七・一と八・二六の国労臨大決戦においてすでに完全に破産を宣告された「四党合意」に、国労本部がなおも必死にしがみつくのはなぜなのか。その背後に、「四党合意」を推進した張本人である日帝権力、JR資本を始めとした全ブルジョアジーと、あらゆる反動勢力、反革命の密集した力があるからだ。いま始まっているのは、これと全労働者階級との大激突だ。
 帝国主義の危機が恐慌・大失業と戦争の時代への突入として、その末期的な姿をさらけだしている中で、一切の犠牲を労働者階級と被抑圧民族人民に押しつけて生きのびようとする帝国主義ブルジョアジーに対して、日本労働運動の歴史を塗り替える労働者階級の歴史的反乱の火の手がついに上がっているのである。
 このことに恐怖した日帝は、国鉄闘争の圧殺に日帝の全資本攻勢の貫徹をかけてますます必死になっている。他方では、全産業に吹き荒れる雇用破壊・賃金破壊・組合破壊の嵐といのちがけの格闘を開始しているすべての労働者と労働組合にとって、国鉄決戦の成否にまさに自らの闘いの成否がかかっていることがいよいよ明白になりつつある。国鉄と国労をめぐる闘いは、今や一九六〇年の三井三池闘争をも超える、総資本対総労働のぎりぎりの激突の頂点に押し上げられてきているのだ。
 「四党合意」への屈服か、その粉砕かをめぐる対立と分岐は、まさに日本労働運動の路線をかけ、その生き死にをかけた絶対非和解の対決となり決戦となっている。帝国主義の全攻撃と闘い帝国主義を打倒する戦闘的労働運動の防衛と飛躍的発展を切り開いていくために、絶対にこの決戦にかちぬき、JR総連のファシスト労働運動をも打倒して連合支配を一気に大動揺にたたき込むような、労働運動の新たな高揚と発展の時代を断固として切り開かなくてはならない。
 日帝の経済危機・体制的危機は今日、ますます破滅的に激化している。本紙前号4面の島崎論文で提起しているように、日本経済はすでに九七年秋以降、第二次大戦後の帝国主義が経験したことのない未曽有(みぞう)の深刻な恐慌に突入し、一九二九年世界大恐慌時をも上回る恐慌対策をとりながらも、危機から抜け出せないという泥沼的状況にあがいている。
 金融資本とゼネコンなどの大企業救済のために百数十兆円もの国家財政を投入し、その天文学的な財政赤字の重圧がもたらす矛盾を異常なゼロ金利政策でのりきる綱渡り的な政策を一年半も続けながら、経済の実体は回復するどころか新たな矛盾を蓄積し、その爆発が恐慌の一層の深刻化をもたらすことが今や不可避となっている。長銀の再民営化がそごうの倒産をもたらしたことはその氷山の一角である。ゼロ金利の解除は、ゼネコンを始めとした企業倒産の続出、国債の暴落と金融市場の危機の再燃、国家財政の総破綻(はたん)の引き金を引くものとなろうとしているのだ。
 さらに、この間の原油価格の急上昇とユーロ安は、米経済−世界経済へのインフレ圧力、景気減速圧力を強め、米経済のバブルの崩壊を本格的に促進するものとなろうとしている。しかも、この原油価格急騰の最大の原因は、原油先物取引の投機化ということにあるのだ。これをも引き金とした二九年型世界大恐慌の本格的爆発は、日帝をさらに絶望的な危機のどん底に突き落とす。
 追いつめられた日帝ブルジョアジーは、一方で一九三〇年代をも上回るアジアへの凶暴な侵略戦争、世界戦争への突進の衝動を限りなく強めている。そしてその戦争体制構築のためにも、他方で戦後的階級関係の反動的大転換と労働者階級の団結と権利の暴力的解体、人民の生活の恐るべき破壊と極限的な犠牲転嫁の攻撃に突き進んでいる。
 九五年五月の日経連プロジェクト報告に始まり、九八年一月の労問研報告、橋本内閣による「六大改革」の打ち出し、国労への五・二八反動判決、さらに九八年末の経済戦略会議報告、九九年の戦後労働法制解体と産業再生法・会社分割法など、次から次に繰り出されてきた一大資本攻勢は、そうした日帝支配階級の焦りと危機と、絶望的凶暴化の中で進行しているのだ。
 この中ですでに、恐るべき大失業と、戦後かつてない賃金の大幅引き下げ・飢餓賃金の攻撃が労働者階級を襲っている。政府発表の完全失業者数に、求職をあきらめて非労働力人口扱いされている人や、いつ失業するかもしれない不安定雇用の状態にあって実際には半失業者というべき人びとを加えると、これら失業・半失業者の数は実に全労働者の四割近くにも上る。
 この上に、倒産・リストラ攻撃のさらなる激化と一層の雇用破壊・賃金破壊・組合破壊の攻撃が、さらに介護保険に始まる社会保障制度の全面解体の攻撃が襲いかかろうとしている。この日帝資本の理不尽と非道に心底からの階級的人間的怒りを爆発させ、団結して闘いぬく以外に労働者の生きる道はない。七・一国労臨大での闘争団家族の渾身(こんしん)の訴えがすべての闘う労働者の心をつかんだのは、まさにそこに、闘って生きる労働者の誇りと未来への希望、自己解放の偉大な力を見たからだ。
 十一・五労働者集会こそ、労働者階級の中に秘められてきたこの闘う力を決定的に解き放ち、「資本主義にノーと言える労働運動」の本格的な立ち上げをかちとる場だ。闘う労働組合の総結集をかちとり、五千人結集を絶対に実現しよう。三組合の呼びかけにこたえ、今こそ全労働者の中に入り、国鉄決戦の勝利と一体で十一・五労働者集会への結集を訴えよう。

 第3章 船舶検査法案(臨検法案)阻止へ決起を

 同時に、闘うアジア人民、沖縄人民と連帯し、九月二十一日に開会された臨時国会を焦点とする今秋政治決戦に、断固として立ち上がっていこう。
 日帝は、六月衆院選と七月沖縄サミットを経てますます深まる日帝の政治危機・体制的危機を、森政権のもとで反革命的に正面突破することを決断した。九月一日の森・中曽根・石原・村上会談、続く七日の野中・亀井・石原・村上会談はそれを示している。
 その核心は、ファシスト石原の突撃力に決定的に依拠し、そのもとに組織される民間ファシスト勢力の運動をも大動員して労働者階級の抵抗を粉砕し、改憲(明文改憲)と公然たる戦争への道に全面的に突き進もうということだ。この改憲攻撃は今、@沖縄圧殺=ガイドライン体制強化と有事立法制定の攻撃、A教育基本法解体−「教育改革」攻撃、B「司法改革」攻撃と警察国家化、C戦後労働法制解体・社会保障解体を始め労働者人民の諸権利剥奪をめぐる攻撃など、あらゆる側面・水路から今日、一斉に激化してきている。
 日帝・森政権はとりわけ、今秋臨時国会での船舶検査法案(臨検法案)の成立強行を、「教育改革」攻撃の推進とともに最重要の柱として打ち出してきた。
 船舶検査法案は、昨年のガイドライン関連法と一体で成立させる予定であったものを、独立した法案として内容的にも一層エスカレートさせたものである。
 6面につづく〜1面からつづく
 米軍の後方地域支援とともに、そこにとどまらず日帝・自衛隊の独自の判断で臨検を行い、停船命令を乱発し、武器使用も可能にするというものだ。同時にPKO協力法の改悪も強行し、ここでも武器使用に道を開こうとしている。
 これに関連して重要なことは、九月十一日の日米安全保障委員会(2プラス2)で、ガイドライン体制のかなめをなす「調整メカニズム」の設置が正式に確認されたことである。これによって朝鮮・中国侵略戦争のための日米共同作戦体制が実際に動き出すのであり、十一月の日米共同統合大演習が、その最初の発動の場となろうとしている。
 さらに沖縄への名護新基地建設の攻撃も、再び新たに激化してきている。
 この重大時に、日本共産党は、九月十九日の第七回中央委員会総会(七中総)でついに、戦争問題、安保・自衛隊問題でのより一層の大転向を打ち出した。
 「憲法九条と自衛隊との矛盾を段階的に解決していく」と言いつつ、「必要に迫られた場合には、存在している自衛隊を、国民の安全のために活用することは当然である」との決議案を採択し、十一月の党大会で正式決定とすることを宣言したのである。
 自国帝国主義の危機に際して、日帝軍隊=自衛隊が再びアジアへの侵略出兵と戦闘行動に突入することを全面擁護し、自衛隊の行う戦争に率先協力すると誓ったのだ。
 これと合わせて「社会主義革命」「階級闘争」などの言葉を党規約から抹殺し、「国民政党」への転換を打ち出した。さらに綱領の全面変更も狙っている。帝国主義の矛盾が大恐慌と新たな世界戦争として今まさに爆発する時代に入りつつある中で、スターリン主義反革命こそが帝国主義の「最後の救済者」として、プロレタリア革命に真っ向から敵対して登場する姿がここにある。
 日共の大転向と労働者階級への大裏切りを弾劾し、日共を打倒して、労働者人民の反戦闘争と階級闘争の大前進を今こそ切り開かなくてはならない。
 来る十・八三里塚全国総決起闘争は、その決定的な突破口だ。成田空港の軍事基地化と暫定滑走路建設に全国の闘う労働者・学生・人民の不退転の決意をたたきつけ、「三里塚から日本を変える」新たな闘いを押し開こう。
 中曽根と森と石原が全体重をかけて推進する「教育改革」攻撃は、改憲への突破口そのものだ。闘う教育労働者を先頭に、全人民の決起で粉砕せよ。少年法改悪攻撃と闘おう。十月一日から開始される六十五歳以上からの介護保険料強制徴収に怒りを燃やし、介護保険制度廃止の住民運動の全国的な強力な発展をかちとろう。「司法改革」粉砕の闘いと一体のものとして、長期獄中同志奪還の大運動をまきおこそう。
 これら一切の闘いの前進を切り開くものこそ、機関紙拡大闘争だ。機関紙を最大の武器に、国鉄決戦勝利と十一・五労働者集会への五千人結集を切り開こう。

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週刊『前進』(1975号1面2)

「有事の自衛隊活用」決議で転向深める日共を断罪する
 党規約・綱領も全面変更狙う

 (1)日本共産党スターリン主義が、十一月に行われる第二二回大会を前に、大会決議案で「有事の自衛隊活用は当然」と明記すると同時に、党規約から「社会主義」や「革命」を消し去る抜本改定を行う今ひとつ決定的な転向に踏み切った。これは一昨年秋の「暫定政権では安保廃棄を凍結する」として安保を容認したのに続く、一層の反革命的転落である。「資本主義の枠内での改革」路線の行き着いた先として、きわめて重大な事態である。怒りを込めて断罪する。

 (2)九月十九、二十日に開かれた日共第七回中央委で総会(七中総)で提起された大会決議案で、次のように「有事の自衛隊活用」が明記された。「憲法九条と違憲の存在である自衛隊の関係の矛盾は、一足飛びには解消できない」「自衛隊が一定期間存在することは避けられないという立場に立つ。その時期に必要に迫られた場合には、自衛隊を国民の安全のために活用するのは当然である」
 これは第一に、「自衛隊は違憲だが、すぐには解消できない」「段階的解消しかない」という口実をもって、日帝の軍隊である自衛隊の存在を完全に承認するものである。既成事実の方が憲法よりも重いとしたのである。
 第二に、それだけでなく「必要に迫られた場合」「国民の安全のために活用」するとしたことは、自衛隊の出動・出兵をも完全に認めるものである。それは「有事」や「災害時」に出動を認めるということであり、自衛隊の治安出動、アジア侵略をも認めるという意味をもっている。
 これまでも不破は、「阪神大震災」での自衛隊出動を容認し、また、昨年三月の海上自衛隊の「不審船」に対する海上警備行動発動(武力行使)に反対しないなど、事実上自衛隊を承認してきた。今年の総選挙渦中の六月八日付朝日新聞は、不破が「(有事の際には)自衛隊を使ってかまわない」と語ったと報じた。
 こうした自衛隊容認の発言を、今回大会決議案で明示に確認したのである。
 なぜ、今この時期に、日共はこのような態度決定を行ったのか。ガイドライン法が成立し、「戦争のできる国」に転換したこと、有事立法・改憲攻撃が現実化し、アジア侵略への自衛隊出動が日帝の切迫した課題として浮上してきていること、こういう情勢だからこそ、日共は一層の転向に踏み切ったのである。
 しかも、石原慎太郎が自衛隊七千百人を動員して九・三治安出動演習を強行した直後の「自衛隊活用」宣言は、ファシスト石原への完全屈服の表明である。
 日共の今回の「自衛隊活用」表明は、日帝の新ガイドライン攻撃、有事立法・改憲攻撃に屈服し、自ら進んで協力・加担するものである。「自衛隊活用のためには有事立法が不可欠であり、憲法の九条を実情に合わせて変えることが必要」という論理につながっていく。自衛権を掲げて自国帝国主義の軍隊を容認するばかりか、その出動をも日本共産党自身の意志として行うことを宣言したのだ。日共は、今や戦争反対勢力ではなく推進勢力である。
 虎島防衛庁長官は十九日午後、ただちに「現実的選択をされたことを歓迎する」と記者会見した。「日本の政党がおしなべて(自衛隊は)合法という認識に立って論議するのは画期的なこと」と評価したのだ。
 日共はこの反革命路線を、スターリン主義の反革命的徹底性をもって貫徹する党である。「有事には自衛隊を活用する」と決めたことは、日帝の侵略戦争への全面協力と同時に、労働者人民の反戦闘争への敵対を宣言するものである。

 (3)七中総は、同時にもう一つの超重要な決定として、党規約の全面改定を提案し可決した。そこでは規約前文を全文削除して「社会主義」や「革命」の文言を一掃し、「労働者階級の前衛政党」を「労働者階級の党であると同時に日本国民の党」とするなど、階級性の名残までもことごとく消し去り、「国民政党化」を鮮明にした。「日本国民」とは、日共の定義によれば「支配階級を含む」概念である。「労働者階級」はお飾りにすぎず、日本の国家の利益のために労働者階級の利益を踏みにじる党だということである。
 七中総の発言で不破は、これに加えて「党綱領の全面見直し」も日程に上るだろう、と述べた。総選挙の敗北の反革命的総括を踏まえ、「連合政権路線」の一層の推進を図るために、規約を「抜本的改定」し、「資本主義の枠内での民主的改革」を掲げて体制の擁護者として純化することを宣言しているのである。

 (4)十一月の二二回大会は、「有事の自衛隊活用」決議と党規約・綱領の全面変更への踏み切りという点で、「ソ連は社会主義ではなかった」という「新綱領」を決定した九四年の二〇回大会をも超える、反革命日共の日帝の最後の番兵化を画する大会となる。
 今や、日共スターリン主義を労働者人民の敵、アジア人民の敵、日帝の戦争協力者として断罪し、その打倒のために闘うことは、すべての人民の共同の課題である。日共不破・志位路線を粉砕し、日共スターリン主義を打倒せよ。

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週刊『前進』(1975号2面1)

代議員選勝利、本部総退陣へ
チャレンジと革同上村派の居座り策動を断じて許すな
 「四党合意」を今こそ葬り去れ

 国労と国鉄決戦の存亡をめぐる攻防は、今や最大の決戦過程に突入した。国労中央は、九月二十六−二十九日を投票日として「一票投票」をなんとしても強行しようとしている。「四党合意」受諾は、七・一、八・二六の二度にわたる臨大で採決を阻まれた。「四党合意」を押し通すための「一票投票」など、断じて認めることはできない。国労中央は、この「一票投票」をもって闘争団の切り捨てと国労の自己解体になりふり構わず突き進もうとしている。宮坂・チャレンジ一派と革同上村派は、「一票投票で賛成が多ければ解決交渉が直ちに始まる」などという見え透いたデマを振りまきながら、「これが解決のラストチャンス」という恫喝で全組合員に「四党合意」を強制しようとしているのである。「一票投票」を強行して本部への居座りをたくらむ彼らのあがきを粉砕し、今こそ「四党合意」を根底的に葬り去ろう。裏切者に転落した本部を総退陣させよう。定期大会代議員選挙で、宮坂・チャレンジ一派、革同上村派をたたき落とし、新たな闘う執行部の樹立に向けて突き進もう。

 第1章 闘争団を切り捨てる「一票投票」は中止を 組合員を分断し団結を破壊

 闘争団を先頭とする国労組合員は、「四党合意」受諾を阻止するために、七・一−八・二六の決戦を十四年の闘いのすべてをかけて闘い抜いた。国労中央はこの闘いに揺さぶられ、「総辞職」を表明せざるをえないところに追い込まれた。
 「一票投票」は、こうした闘いの地平を覆し、「四党合意」を全組合員に強制するための反革命クーデターである。だから彼らは、どんな不正な手段を用いてでも、「本部方針への賛成が多数を占めた」という形をつくり出そうと必死なのだ。このことを断じて甘く見ることはできない。「一票投票」を中止させ、「四党合意」を粉々に打ち砕くため、最後の一瞬まで全力をあげて闘おう。
 「四党合意」とは、「JRに法的責任がないことを認め、裁判も取り下げろ」というものだ。これこそ、白昼公然たる新たな不当労働行為である。まともな労働組合指導部であれば、こんなものは直ちに拒否して当然だ。敵から不当労働行為を仕掛けられたら、それを徹底弾劾して団結を強化することが労働組合のとるべき本来の道だ。
 ところが国労中央は、敵に命じられるままに「JRに法的責任なし」を認めるための臨大強行に突き進んだ。闘争団を始めとする国労組合員にとって、これほどの屈辱はなかった。「四党合意」受諾の本部方針が、闘争団を先頭とする組合員の怒りの決起で採決を阻まれたのは、きわめて当然のことだったのだ。
 しかし今、国労中央は「四党合意」を「一票投票」というでたらめなやり方で押し通そうとあがいている。闘争団の切り捨てと国労の解体を迫る「四党合意」を投票にかけること自体が、組合員を不当労働行為のえじきに差し出し、国労の団結を破壊する許しがたい犯罪だ。
 闘争団は「『闘争団切り捨て』の賛否を問うのに等しく、直ちに撤回・中止すべき」と訴えている。これを無視して「一票投票」を強行すること自体、闘争団の切り捨てそのものだ。
 「JRに法的責任なし」を認めれば、闘争団の闘いは全面的に否定される。採用差別という国家的不当労働行為の責任をJRにとらせることこそが、千四十七人の解雇撤回闘争の原点なのである。「本部はおれたちに三度目の首切りを行うのか」という闘争団の血叫びは、「四党合意」を根底から弾劾している。闘争団を切り捨てる「四党合意」は、国労三万の総意で葬り去らなければならない。
 宮坂・チャレンジ一派と革同上村派は、一刻も早く国鉄闘争を終結させ、「ゼロ回答」のままで闘争団を切り捨てて、JR連合と合流しようとたくらんでいる。彼らがこれ以上本部に居座ることなど、絶対に許してはならない。

 第2章 「もう混乱は御免」と反対派鎮圧叫ぶ革同 誰が「混乱」起こしたのだ!?

 「四党合意」破棄、「一票投票」中止の声がますます高まっている中で、その反革命的・反国労的な正体をむき出しにしているのが革同上村派だ。彼らが新橋支部でまき散らした代議員選挙用のビラには、次のように書かれている。
 「私は、『四党合意』に賛成か、反対かと問われれば、『法的責任なし』を認めた『四党合意』には反対です。しかし、『四党合意』の中で、十三年間のたたかいの一つの到達点として、『雇用問題・解決金問題』を明記させた話し合いの場(解決交渉)ができるのも事実です。われわれから、『四党合意』を蹴って、話し合いの場がなくなることには反対です」「大会で決定した『一票投票』を成功させよう。もうこれ以上の混乱は御免です」
 まさに、一言一句が怒りなしには読めない代物だ。「『四党合意』を蹴ることには反対」というあけすけな反動的本音と並べて、「『四党合意』には反対」などと平然とうそぶけることに、スターリン主義反革命としての彼らの本質が現れている。
 これはまた、八月十九−二十日付『赤旗』に掲載された「一〇四七人の採用差別と国労の続開大会について」なる論文のペテン的・反革命的本質をも物語っている。日本共産党はそこで「『法的責任なし』の承認を押し付ける『四党合意』は問題だ」などと言っていたが、それは革同上村派が今日「『四党合意』には反対」とうそぶくのと何も変わらないものだったということだ。実際、日共は『赤旗』論文以降も、上村副委員長らによる国労破壊策動を黙認し続けた。今や日共は、国労解体・労働者の団結破壊の先兵と化した。
 断じて許せないのは、「もうこれ以上の混乱は御免です」などという言辞である。いったい、この間の「混乱」を生み出したのは誰なのか。上村副委員長を含む本部執行部が、労働組合の原則を投げ捨てて「四党合意」を受け入れたことに一切の原因があったのだ。ところが革同上村派は、「四党合意」に反対する闘争団の闘いに「混乱」の原因があったとして、まったく転倒した反動的憎悪を募らせ、「一票投票」で反対派を鎮圧せよとわめき散らしているのである。闘争団へのこれほどおぞましい敵対があろうか。
 彼らは今、゛「一票投票」で賛成が多ければ解決交渉が直ちに開始され、定期大会までに具体的解決案が示される゜などというデマを振りまいている。だが、定期大会までに解決案が出されることなど絶対にありえない。「四党合意」から出てくるものは「ゼロ回答」でしかない。
 事実、国鉄再建監理委員会委員長代理として分割・民営化当時から国労解体攻撃の先頭に立ってきた加藤寛は、続開大会直後に「四党合意をごり押しで拒否する一部の闘争団の姿勢は、主張を通すことだけを考える時代遅れの労働運動の象徴だ。『職場復帰』を訴える闘争団の態度では世論の理解も得られない。四党合意は解決のラストチャンス。闘争団は認識を改めるべきだ」(北海道新聞)と言い放った。これこそ、「四党合意」さらには「一票投票」すらもが支配階級の意思であることを示しており、だからこそ「職場復帰は絶対に認めない」というのである。「解決」とは、闘争団の闘いを押しつぶすこと以外の何ものも意味しないことにおいて、宮坂・チャレンジと革同上村派の主張は敵階級と驚くほど一致しているのだ。

 大合理化攻撃に屈服するのか!

 さらに、JR資本はあくまでも国労解体を狙っている。九月十三日、JR東日本は設備と検修・構内関係の全面的外注化を内容とする大合理化を提案した。三千人を削減し、二千人を出向に出す、残りの千人は「余力」として「活用策を考える」というすさまじいものである。とりわけ、国労が拠点としてきた保線区、電力区など施設関係の職場は軒並み廃止される。この全面外注化攻撃は、東労組カクマルが率先推進してきた「シニア協定」とも完全に一体だ。
 これが敵階級の回答なのだ。この時に革同上村派は「四党合意」受諾を説き、資本との闘いも放棄して、大合理化攻撃を受け入れようとしているのだ。彼らは、闘争団だけでなくJR本体の組合員をも、資本とJR総連=カクマルに売り渡す裏切り者に転落した。

 ゛解決案はすぐに出る゛とデマ宣伝

 「四党合意は闘いの到達点」「四党合意で解決交渉の場ができた」などという革同上村派のデマ宣伝を支えているのは、「一票投票」を指示した本部の「指令第一〇号」のまったくでたらめな内容だ。
 国労中央は、「四党合意について全組合員に賛否を問う」とした続開臨大での高橋委員長の特別発言さえねじ曲げて、「七・一臨大での執行部提案」について「一票投票」を実施するとの指令を出した。その「執行部提案」には、「JRへの採用と和解金についても合意されており、政治の責任で解決が図れることを確信した。雇用確保や労使関係の改善等々についても各方面との折衝の過程で感触を得、具体的な解決作業が始まること等々が確認できた」などとぬけぬけと書かれている。
 革同上村派は、これに依拠して「四党合意で解決交渉が始まる」などというデマを振りまき、本部方針に賛成せよと組合員を恫喝しているのだ。それは、「四党合意」受け入れを決定した本部の方針、行動のすべてを認めろということだ。
 さらに彼らは、採用差別事件の高裁判決が十一月に迫っていることを口実にして、゛反動判決は間違いないから、「四党合意」を受け入れて判決を先延ばしにするべきだ゜などという「ラストチャンス」論を叫んでいる。
 だがこれは、宮坂・チャレンジ一派とも共通する根っからの敗北主義と、それに基づく路線の破産を意味するものでしかない。

 第3章 政治決着=和解路線は完全に破産している 「闘争団解散」叫ぶ樫村メモ

 こうした敗北主義を全面開花させたものこそ、樫村前書記長の「『JR不採用問題』の解決にむけた所感」と題するメモである。
 そこで樫村前書記長は、「裁判闘争の展望は厳しい」「最悪の状態(最高裁の敗訴判決)となることも視野に入れた対策を作らなければならない」などと言う。そして「四党の『考え方』を国労が飲まなかったとして、政府の攻撃が強まることも容易に想定される」として、「四党合意」受諾を唱えている。
 ここから樫村前書記長が引き出す結論は、「闘争団は代表五名(北海道、九州各二名、本州・四国一名)を闘争に専念する者とし、その他の人は不況下の中で大変ではあるが求職して闘争を支えるという態勢に切り換える」というものだ。闘争団は解雇撤回をあきらめ、事業体なども含めて解散しろというのである。
 宮坂・チャレンジ一派や革同上村派は、国鉄闘争に勝利できるとは少しも考えてこなかった。だから彼らは、政治決着=和解を自己目的化した路線に際限なくのめり込んできたのである。それは敵の言いなりになり、敵の情けにすがるというものでしかない。この間、本部は政府・JRから次々と理不尽な要求を突きつけられては窮地に追い込まれてきた。その集大成が「四党合意」なのである。

 勝利の確信なき本部は退陣せよ

 裁判での反動判決が国鉄闘争の終わりであるかのような錯覚も、こうした政治決着=和解路線と一体だ。
 確かに、国鉄闘争にとって裁判闘争は重要な位置を占めてきた。だが、そこで争われてきたことの核心は、闘争団というかけがえのない団結体を、維持し抜けるのかどうかということだったのである。
 闘争団は、血のにじむ苦闘を重ねて「JRに法的責任あり」という労働委員会命令をもぎり取った。それは、国鉄分割・民営化という国家的不当労働行為に必死で立ち向かうことによってかちとられた巨大な獲得物である。八九年の地労委勝利命令は、被解雇者が闘争団を結成して闘いを貫く確信と出発点を形成した。
 政府・JRは闘争団を解体しようと躍起になった。彼らにとって、闘争団が団結を維持して闘いを貫いていること自身が、自らの死につながりかねない恐るべきものとしてあったのだ。
 そこで日帝は全反動を結集して五・二八反動判決を振り下ろした。国労本部はこれに震え上がり、かねてからの敗北主義を全面化させて、屈服と転向へと一気にのめり込んだ。「補強五項目」の提案や「改革法承認」の臨大の強行は、その最たるものであった。だが、闘争団はすさまじい苦闘を経て、この試練に耐え抜いた。この時、敵は闘争団を押しつぶす手段を基本的に失ったのだ。昨年秋のILO中間勧告は、闘争団のあくなき闘いへの執念が引き出した成果である。
 権力・資本にとって残された方法は、国労自身に「労働委員会命令もILO勧告もなかったことにします。首切りを認め、不当労働行為の追及はもうやめます」と言わせることだけになった。それが「四党合意」なのである。
 ところが国労中央は、追い詰められた敵が苦し紛れに出してきた「四党合意」にやすやすと飛びついた。これによって初めて、「四党合意」は国労解体をもくろむ政府・JRの凶暴な武器に転化したのである。勝利の確信を初めから失っていた国労中央にとっては、闘争団をいくらで売り渡すかが一切だったのだ。だから本部は、二束三文でもタダよりはましだとばかりに、自ら進んで闘争団売り渡しに走ったのだ。
 全国各地の国労組合員によって開始された「四党合意」撤回の労働委員会闘争は、本部が投げ捨てようとしている国労のこれまでの労働委員会闘争のすべてを守り抜き、闘争団と国労の団結をさらに打ち固めるための新たな闘いだ。「四党合意」絶対反対の闘いの軸が、こうして打ち立てられたのである。
 不採用事件の裁判も、こうした攻防の中に置かれている。もとより、国鉄分割・民営化は国家の総力をあげた一大攻撃であり、高裁判決を楽観視することはけっしてできない。しかし、闘争団の不抜の団結がある限り、反動判決はそれへの怒りの反撃をとおして闘争団と国労組合員、全支援勢力の団結を固め、闘いを一層拡大する契機に転化することもできるのだ。
 事実、五・二八反動判決は、国鉄闘争が全労働者階級の問題であることを闘うすべての労働者に認識させた。支援勢力は、これを契機に国鉄闘争と自らの命運を緊密に重ね合わせたのである。重要なのは、あらゆる攻撃にもかかわらず、闘争団の団結が維持されているという事実である。
 今日、国鉄闘争に追い詰められ、危機に陥っているのは政府・JRの側なのだ。戦後かつてない恐慌の中で、無数の労働者の首を切らなければ生きていけない資本にとって、国鉄闘争が今なお不屈に闘い抜かれていることほど恐ろしいことはないはずだ。この敵の危機を見据え、団結を固めて闘い抜けば、数年にして勝機は必ず訪れる。
 こうした時に屈服を説く宮坂・チャレンジ一派と革同上村派には、国労を指導する資格など一切ない。

 「一票投票」阻止を貫いて闘おう

 「四党合意」受諾のための「一票投票」粉砕へ、最後の一瞬まで全力で闘おう。国労規約にもない「一票投票」は断じて無効だ。そもそも、八・二六続開大会での高橋委員長の特別発言が「拍手で承認された」から「一票投票」は大会決定だ、などということ自体がでたらめなのだ。
 「一票投票」の結果が拘束力を持つのかどうかの判断も、本部の独裁的な裁量にゆだねられている。「一票投票」中止を申し入れた闘争団に対して、宮坂書記長は「『一票投票』は世論調査のようなもの」と答えている。つまり、賛成が多ければそれを口実に闘争団を切り捨て、反対が多ければ「単なる世論調査」として片づけて、定期大会で「四党合意」受諾を強行しようとしているのだ。
 しかし、「一票投票」が強行されれば、闘争団とJR組合員の間には決定的な分断が持ち込まれる。だからこそ、闘争団は「組織分裂をもたらす一票投票の中止を」と、必死に訴えているのである。実際に投票が強行されれば、あらゆる不正が横行することも明らかだ。土壇場に追い詰められた宮坂・チャレンジ一派、革同上村派は、ここに反動的巻き返しの一切をかけているからだ。
 投票が強行されたら、圧倒的な反対票の集中で「四党合意」を最後的に葬り去ろう。不正を監視する「点検・摘発」の闘いも重要だ。「四党合意」受諾のための「一票投票」をあらゆる手段で打ち砕こう。宮坂・チャレンジ一派、革同上村派をたたき落とし、「四党合意」絶対反対の代議員を全国大会に送り出そう。闘う新たな執行部を打ち立てよう。国鉄決戦を全力で闘い、十一・五労働者集会への大結集をかちとろう。

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週刊『前進』(1975号2面2)

資本攻勢&労働日誌 9月6〜18日
 能力・業績主義強まる 労働省の賃金調査
 ●都庁職が「防災訓練」抗議
 ●鉄鋼で業績連動型一時金
 ●連合が個別紛争処理立法

●6日 電力総連が7日まで定期大会。妻木会長は、今春闘ベアゼロに対し「これ以上もなし、これ以下は絶対ダメというギリギリのピンポイント解決」と開き直り。
◇ゼンセン同盟が8日まで定期大会。CSG連合との統合に向けて「統合準備委員会」設置を決定。
◇日経連は、個別労使紛争の処理について「簡易裁判所の民事調停を活用する」との意見書を政府の司法制度審議会に提出。連合の労働委員会活用案、労働省による各都道府県労働局の活用案に反論。
●7日 9・3東京都総合防災訓練に対して東京都庁職員労働組合(都庁職)が「防災訓練に名をかりた『自衛隊の治安出動・有事対応訓練』ではないかとの疑念をますます深める」と抗議声明。
◇来年春の高卒予定者の7月末時点での求人倍率は0.64倍で、依然厳しいことが労働省調査でわかった。地域別では北海道(0.22倍)、南九州(0.24倍)で苦境が続く。
●8日 鉄鋼労連が9日まで定期大会。造船重機労連、非鉄連合との三産別統合に向けた本格的な検討開始が打ち出された。一時金では業績連動型を導入し、新日鉄、川崎製鉄、NKKでは来年の実施をめざすとした。
◇労働省がまとめた従業員1000人以上の企業の今夏一時金妥結額は平均で前年比0.54%マイナスの75万8804円と2年連続の前年減。
●11日 労働省調査によると有期労働契約を選んだ理由は、自分から「望んだ」が29.5%、「やむなく」が34.1%と“消極的選択派”が積極派を上回った。契約期間の満了後「契約を更新したい」と望む労働者が65.9%と最も多い。
◇食品連合が12日まで定期大会。食品労協とのブリッジ組織をつくり、一本化して連合に加盟する方針を明らかにした。
●12日 北都銀行の行員が週休二日制の導入によって平日の労働時間が延長されたことによる時間外手当の減収部分の支払いを求めていた裁判で、最高裁は行員側逆転敗訴の不当判決を行った。
◇日立製作所を相手に解雇や賃金・男女差別の是正を求めて全国で闘ってきた全労連系の九争議が一括して和解で解決した。
●14日 連合は、中央執行委員会で「従来パターンは困難」とする「2001年春季生活闘争の基本的考え方」(前号参照)と、労働委員会に個別労使紛争処理機能を持たせる法律を議員立法として提出し成立をめざす方針を明らかに。
◇経団連、日経連、日本商工会議所、経済同友会の経済4団体は、先の通常国会で廃案となった確定拠出年金法案の早期成立を求めて総決起集会を開催した。
●18日 労働省発表の「99年賃金労働時間制度等総合調査結果速報」によると、能力・業績・成果主義が大きく賃金に反映していることが明らかに。(グラフ参照)

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週刊『前進』(1975号3面1)

新刊紹介 『戦後労働運動の軌跡と国鉄闘争』
 中野委員長が待望の新著 11月に向け活用を
 実践家が語る総括と指針新潮流の絶好のテキスト

 2000年国鉄決戦の位置

 中野洋動労千葉委員長の『戦後労働運動の軌跡と国鉄闘争』が発刊された。
 本書は、「新展開をみせる二〇〇〇年階級闘争と国鉄決戦/その歴史的位置と展望を戦後労働運動の歩みの中でとらえる」とサブタイトルにあるように、国鉄決戦が正念場中の正念場に突入している中で、それが日本労働運動全体の命運を決する闘いであることを、戦後労働運動史の総括をとおして鋭く突き出している。それは、実践家の立場に徹した総括であり、これで完結するものではない、現在、そして未来に向けて闘おうとする著者自身の実践的総括である。だから、本書の一ページ一ページ、一行一行から実践的指針を引き出せるのである。
 本書は、「第T部/歴史の岐路・二〇〇〇年階級闘争」と「第U部/戦後労働運動の軌跡と国鉄闘争」からなる。
 第T部第1章でまず「戦後的な経済の発展を前提として存在した政治のあり方、労働者支配のあり方が根本的に崩壊過程に入っている。二〇〇〇年は、これに一定の決着をつける、敵の側にとっても、われわれの側にとってもいや応なしにそれが求められている年である」(一一ページ)と、二〇〇〇年という年の歴史的性格を明らかにしている。
 その二〇〇〇年において七・一国労臨大を休会に追い込んだ闘いの意義が、第2章で明らかにされる。
 それは著者自身が現場で闘争団を始めとする国労組合員の闘いを目の当たりにして描いた生き生きとした総括であり、国労組合員へのメッセージでもある。
 「ここ数十年間の労働運動の歴史の中でもこれほどの快挙はなかった。これで国鉄労働組合という老舗の労働組合が首の皮一枚で生き延びたというだけではなく、日本の労働運動全体がいま全く無力になっている中で、二一世紀に向かってこういう闘いを軸にしてその戦闘的再生も可能になるということが、かいま見られた大会だったと思います」(三七ページ)
 これ自体、戦後労働運動史の総括の上に立って提起されていることが、第U部を読むと明らかになる。

 戦後労働運動をのりこえて

 第U部は、「戦後革命期」から「二〇〇〇年七月」までの通史である。
 その特長は、一言で言って、戦後労働運動を戦闘的にのりこえる立場から書かれた初めての戦後労働運動通史であるということだ。
 冒頭の「戦後労働運動史を学ぶにあたって」で著者の立場を鮮明にしている。
 「労働運動史というのは、客観的に一つ一つの闘いを見つめ、評価し、教訓化しなければならない面があると同時に、極めて党派的に見ていかなければならないということがあります。いまわれわれは、大失業と戦争の時代において、闘う労働運動の新しい潮流をつくろうといっている。つまり、たいへん厳しい情勢がきている中にあって、総評労働運動が解体した今日、それをいかにのりこえる労働運動をつくりあげていくのかという立場から、戦後労働運動史を見るということが必要なのであって、なにか一般的に歴史をながめるというのではだめだということです」(四九ページ)と。
 今日の連合などの裏切り方針は、彼らなりの戦後労働運動の総括から出されている。今年二〇〇〇年夏の産別大会は、二十一世紀に向かって「過去の『不幸』を清算」(全逓)など、戦後労働運動の階級的な要素を一掃する方向が明確だ。
 それに対して「戦後労働運動を守れ」では対抗できない。戦後労働運動をどうやってのりこえるのか、その伝統を引き継ぎつつも、今日の時代に通用する労働運動をどうやってつくり出すのか、その観点から歴史を見る必要があるのだ。
 戦後労働運動は、戦後革命期から総評結成、その左旋回(ニワトリからアヒルへ)、五五年体制の成立、国鉄新潟闘争、六〇年安保・三池闘争から七〇年安保・沖縄闘争(その過程での労働運動の右傾化と、それを突き破る反戦青年委員会の登場)、七〇年代の国鉄マル生闘争の勝利からスト権スト、そして国鉄分割・民営化攻撃との死闘、総評解体から連合結成−−などの経過をたどるが、いくつもの素晴らしい闘いがありながら、大きくは屈服の歴史であったと言える。
 これらを総括する場合、著者は常に、その指導部の問題、党の問題、路線の問題として総括している。例えば、六四年四・一七ストに対するスト破りの日共「四・八声明」の問題について、「ここには明白に、日共スターリン主義特有の労働者階級の自己解放闘争に対するものすごい蔑視(べっし)と敵対があります」(一三三ページ)と指摘している。
 指導部の問題として総括するということは、逆に言えば、労働者階級に限りない信頼を置いているということだ。その立場から、労働者階級の決起を評価している。もちろん「もしあの時、ああしていれば」と言ってみても、歴史は戻せない。問題は、戦後労働運動史の中から日本の労働者階級の自己解放性をつかみとり、戦後労働運動の屈服の歴史をのりこえる運動と路線、その指導部をつくり出すということなのだ。

 資本主義にNOの労働運動

 そのためには何が必要なのか。著者は、連合結成に至る労働戦線統一問題を総括して次のように言う。
 「なぜ日本の労働運動はここまできたのか。総括的にいえば、……資本主義にNOといえない運動になっているということです」「すでに資本主義が労働者を食わせていけなくなってきたことが明らかになりつつあるにもかかわらず、連合の現状に見るような労働運動の深刻な危機が続いているわけです。ここに一番大きな問題があります」
(一九九〜二〇〇ページ)
 つまり、今こそ「資本主義にNOと言える労働運動」こそが必要なのだ。
 そして、「このようにして総評解散・連合結成が実現したにもかかわらず、最大の問題は、その対抗軸として国鉄闘争と国鉄労働運動が残ったということです」(二〇一ページ)と、国鉄決戦の重要な位置が鮮明に突き出されている。
 また、九八年以来、動労千葉とともに十一月労働者集会を呼びかけている全日本建設運輸連帯労組関西地区生コン支部、全国金属機械労組港合同について、「この三つの労働組合に共通するのは、七〇年代後半、日本の権力者・資本家たちが総評的な労働運動を許さないという攻撃に踏み切り、資本主義の危機で不況が本格化し全体として労働運動が底なしの低迷・混迷を深める中で、逆にその真価を発揮して意気軒昂(けんこう)と闘いぬいてきた労働組合であったところにあります」(一九四ページ)と指摘している。同時に、それが「権力・資本の総意、および右翼暴力団、日共スターリン主義、ファシスト革マル派という相手こそ違え、等しく右からの暴力的組織破壊攻撃と血を流して闘い、勝ちぬく過程としてあった」(一九七ページ)との指摘も重要だ。
 日本労働運動再生のために国鉄闘争と三組合の闘いの合流が求められている。
 以上のように、本書は、歴史的決戦過程に突入した国鉄決戦を軸に、闘う労働運動の新潮流をつくり出すための絶好のテキストであり、十一・五労働者集会の成功へ闘うすべての労働者人民の必読の書である。
 全力で学習するとともに、あらゆる労働組合と労働運動活動家に持ち込もう。必ずや、多くの労働者に勇気と展望と確信を与えるであろう。 (大沢康)
〔本体千八百円 発行アール企画 発売元星雲社〕

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週刊『前進』(1975号3面2)

11月労働者集会へ阪神被災地の闘い
 反失業闘争を全国へ 困難のりこえ資本と対決

 震災から六年目の酷暑の夏、阪神大震災被災地は全国レベルをこえる゛大失業の街゛となっている。
 被災地では、反失業の闘いを全国へ押し広げ、国鉄労働運動を軸とする全国的な闘う労働運動の新潮流をつくりだす闘いとして、十一・五全国労働者集会への大挙結集の取り組みを開始した。
 全国最悪の失業率五・三%という雇用状況の近畿圏でも、被災地はさらに落ち込み、兵庫県の有効求人倍率は全国でも下から四番目の〇・四四、神戸職安管内で〇・三六(七月度)。震災直後を上回る最悪の状況が続いている。特に中高年の失業は深刻だ。四十五歳以上の有効求人倍率は〇・〇五、五十五歳以上にいたっては〇・〇三だ(昨年三月データ)。求人百人にわずか三人の就職先というあまりの低さに、行政は年齢別のデータを発表しなくなったほどである。
 また、中高年労働者は、仕事にありつけても、資本のすさまじい賃下げ、労働強化に耐えられず、再失業する人が多い。
 五十二歳のHさんは、運送会社で四dトラックの運転手をしていた。高校生の娘さんが二人いる。マンションのローンもまだ半分以上残っている。昨年十月にリストラで解雇され、雇用保険の失業給付を受けながら仕事探しに奔走した。そして、たった一人の募集に三十人が応募して就いた仕事が、食品加工の仕事だった。
 しかし、労働条件は運転手のときよりもはるかに悪くなった。一日九時間、輸入した豆をバーナーの釜で炒(い)る。夏場には室温が摂氏五十度に達する。体重が六`も減った。賃金は、手取りで月十六万円にしかならない。過酷な仕事に体調を崩し仕事を休んだところ、会社の執拗(しつよう)ないじめにあい、たまらず退職に追い込まれた。「体も心もずたずたにされた」というHさんの職安通いが、また始まった。
 Hさんのような中高年失業者が、被災地にはあふれている。
 失業者や、労働条件を切り下げられた被災地の労働者に、震災の時に実施された被災者助成制度の期限切れが追い打ちをかける。
 最高三百五十万円借りられた災害援護資金の返済猶予期間が切れて、償還が始まっている。また、災害公営住宅や民間住宅に入居した被災者への家賃補助制度も打ち切られる。
 そして実質的な失業対策事業として行われてきた「被災地しごと開発事業」も二〇〇一年度末で打ち切られようとしている。
 震災につぐ二度目の生活破壊が、被災労働者に襲いかかっているのだ。
 これに対して、被災地雇用と生活要求者組合や関西合同労組兵庫支部は、被災地反失業総行動を軸にした対行政闘争を闘っている。
 七月十日、第九回被災地反失業総行動が、失業者や「しごと開発事業」就労者や休暇を取って参加した関西合同労組の組合員ら百十人の参加で闘われ、県や兵庫労働局に対して被災者助成制度と「しごと開発事業」の五年延長の要求や、失業対策事業の再開を求める申し入れ行動とデモを行った。
 行政は、被災労働者や住民の闘いに押されて家賃補助制度を、完全な延長ではないものの一部助成を続けることを決定した。
 また、「しごと開発事業」の五年延長を求める闘いも延長要求署名運動を軸に就労者組合の組織化へと前進している。さらに失業労働者の「袋ごと」の団結形態をつくりだすために、関西合同労組兵庫支部では、労働者供給事業に着手している。
 震災以来、国・行政による被災者見殺しに対して生きる権利・働く権利を求めて闘ってきた被災地の労働者は、失業の問題を労働者全体の問題として、最も苦しむ同じ仲間の問題として取り組んできた。
 労働相談で関係のできた失業者が再就職した先で、資本の激しい労働条件切り下げに対して、関西合同労組の分会を結成して闘うケースが増えている。大幅賃下げにストライキで闘った百人の組合員を持つ自動車教習所の分会や、大資本の工場の下請け会社の分会など、被災地五年間の反失業の闘いが、労働組合の拡大へと結実しているのだ。
 全国三百万失業者は、資本主義の終わりの時代の象徴だ。「反失業」を掲げた労働者の生きる権利・働く権利を求める闘いは、恐慌と戦争と大失業の時代の労働者の組織化にとって決定的な位置をもつ。
 反失業の闘いは一地域の運動では絶対に勝てない。被災地の闘いに立ちはだかる「壁」は、全国的な闘う労働運動の新潮流の形成によってしか突破できない。
 雇用と生活要求者組合と関西合同労組兵庫支部では「人らしく生きたい、国労冬物語」のビデオ上映会を、職場や労働者の自宅などで行っている。「分割・民営化でサービスが良くなったぐらいに思っていたけど、労働者の闘いってすばらしいんだな」などの感想が出され、十一・五結集への決意が広がっている。
 (投稿 兵庫 H・A)

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週刊『前進』(1975号3面3)

9・14反弾圧闘争
 ”労組弾圧ゆるさぬ” 腕章闘争勝利にわく

 第二五回九・一四反弾圧闘争が九月十四日午後六時三十分から東京の赤坂・檜町公園で開かれ、集会後日比谷公園まで戦闘的なデモ行進を行った。
 九・一四反弾圧闘争は、一九七六年に争議団に対して集中的に大量刑事弾圧がかけられ、これに共同反撃する闘いとして出発し、今年は二十五回目となった。反弾圧共闘として首都圏で唯一の闘争陣形であり、全国の争議団が参加する。
 集会には北は仙台、西は福岡までの争議団、闘う労働者が約二百人結集した。集会に先だち、恒例の検問粉砕闘争を貫徹し、今回は完全に検問を粉砕した。
 最初に、沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック、破防法・組対法に反対する共同行動、三里塚反対同盟がアピールを行った。共同行動は、すでに組織的犯罪処罰法が「暴力団」を対象に関西で発動されたことを弾劾した。さらに組対法改悪による「参加罪、共謀罪」の導入が行われようとしていること、最初は「暴力団」であっても、組対法弾圧が労働運動、市民運動にもかけられてくるのは明らかだと断じた。
 刑事弾圧・長期不当勾留と闘い抜き、いま裁判闘争を闘っている洋書センター労組、さらには刑事弾圧と闘う加部建材闘争の当該が熱い決意を語った。
 争議団連絡会議の労働者が、この一年間の闘いの経過・総括・方針を簡潔に明らかにした。
 続いて国労共闘代表が闘争団切り捨ての「四党合意」採決を阻止した七・一臨大から八・二六続開臨大の闘いを報告、その意義を熱烈に提起した。
 全国各地から参加した争議団が紹介され、代表して全国金属機械港合同南労会支部の労働者が、闘争勝利まで闘う決意を表明した。
 最後に「治安出動演習を弾劾する決議」と「戦争国家化に反対する決議」の二つが採択され、ただちにデモに出発した。
 日比谷公園での解散集会では、監視弁護団、全国労働委員会対策ネットから報告が行われた。特に全国ネットから、中労委での腕章着用禁止攻撃に勝利したことが報告された。腕章着用禁止攻撃とは、労働委員会の審問の場において労組が団結の象徴として腕章を着用することを禁止する攻撃であり、労働組合の救済機関である労働委員会制度の解体を狙うものである。これに対する闘いの中、九六年には日弁連勧告、九八年国連人権規約委員会の勧告等を引き出し、ついに今年四月、中労委から「腕章着用を理由にした審問中止は行わない」との態度表明をかちとったことが報告され、大きな拍手が起こった。
 なお、東京都労委では、八七年から闘争が継続しており、現在では腕章を着用しての審問をかちとっている。これらの闘いの勝利は多くの労組による不屈の粘り強い闘いの大きな成果である。
 (投稿 N・T)

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週刊『前進』(1975号3面4)

連載 新潮流運動の大躍進へ 資本攻勢の嵐と対決を 5
 社会保障解体の攻撃 連合は年金解体の推進者
 年金は今や収奪制度 給付は激減、保険料は激増

 年金制度改悪を今春国会で強行

 戦後的社会保障制度の解体が激しく進められている。四月の介護保険制度導入に続き、労働者人民の生活に直結する年金、医療、福祉と社会保障の全領域で解体が始まっている。
 三月二十八日、年金改革関連法が、民主党・連合、社民党、日本共産党の裏切りの中で成立した。この改悪は実にすさまじい。一人ひとりの労働者が生涯に受け取る厚生年金の総額が二割も削減される。厚生省の計算で、例えば現在四十歳の労働者が生涯に受け取る総額が、現行で六千百万円だとすれば(実際にはもっと少ない)五千百万円に千万円もの減額になる。
 すでに厚生年金の基礎年金(=国民年金、図1参照、一階)の支給開始は、六十歳から六十五歳に引き上げが決まっている。二〇〇一年に六十一歳、段階的に遅らせ二〇一三年に六十五歳となる。今回の改悪で完全に(二階も)六十五歳に遅らされる。六十歳定年のもとで「強制失業」が重大問題になっている。
 さらに、厚生年金も国民年金も保険料が今後どんどん高くなる。今回は「景気への配慮から保険料(引き上げ)は据え置」かれた。ところが厚生省は、二〇二五年の保険料は厚生年金、国民年金とも現在よりも四〜五割アップすると言う。二〇〇五年から段階的に引き上げる(図2参照)。その上、一時金からも、六十五歳以上の働く労働者からも、保険料を取るのだ。

 高すぎる保険料払えない人激増

 公的年金は戦後社会保障の中心的な位置を占め、労働者階級の退職後の生活を支える主要な役割を果たしてきた。しかし、実は労働者の生活に「大きな役割」を果たすようになってまだ日は浅い。七三年春闘で「年金スト」が闘われた。これが「福祉元年」、「夫婦で月五万円の厚生年金」となった。この時導入した自動スライド制が、以後に威力を発揮した。例えば八二年厚生年金のモデル年金は十五万八千円となった。
 これへの大反動が中曽根行革の「八五年改革」である。八五年に図1のような公的年金体系に再編された。同時に、受給額を「二十年かけて三五%切り下げる」として、「年金切り下げ」が始まった。
 もともと、年金の給付額が低い。年金の平均受給額は九九年三月で国民年金が四・九万円、生活保護基準をはるかに下回る。厚生年金は十七・五万円(夫婦二人)である。「高保険料=低給付」は完全な収奪である。今や年金制度は、大収奪の制度に激変している。
 高い保険料を払えない人びとが激増している。国民年金の未払い、免除、未加入者数が加入想定の四四%になった。厚生年金保険料を払わない企業も激増している。失業者や低賃金労働者に「無年金者」が急速に広がっている。「年金崩壊」が進んでいるのだ。
 森首相の諮問機関「社会保障構造の在り方について考える有識者会議」が十月の報告書で、さらなる「年金給付の引き下げ」と「高齢者の負担増」を提案すると言われている。

 企業は保険料負担のゼロ化狙う

 大資本攻勢が労働者階級に襲いかかっている。その階級的本質は「戦後的階級関係、労資関係、社会関係を右から全面的に破壊し改変する歴史的反革命的攻撃」(革共同二〇全総報告)である。
 九五年の日経連プロジェクト報告「新時代の日本的経営」戦略は、年功序列賃金と終身雇用制、企業内組合の全面解体を宣言した。今日、雇用破壊と賃金破壊、団結破壊が激しく展開され、労働者階級の怒りの反撃が始まっている。
 社会保障の解体は、九七年の橋本「六大改革」で「社会保障構造改革」として基本戦略が打ち出された。目的は「国家財政の徹底削減」である。内容は「介護保険の創設を第一歩に」、年金、医療、福祉のすべてを解体するものだ。方法は「公的関与を必要最小限に止め、国民の多様な需要には民間活力の積極的活用でこたえる」とした。
 年金については、九九年「経済戦略会議報告」が具体策を打ち出した。@公的年金は基礎年金に限定し、財源は全額税法式に移行、A厚生年金の報酬比例部分(二階)は、段階的に公的関与を縮小し三十年後に完全民営化、Bすべての国民を対象に確定拠出型の個人年金・企業年金を創設する、というものである。
 この@、Aによって、企業の保険料負担は完全にゼロ化する。「全額税方式」は消費税の大増税であり、「老人医療・介護保険も含めて一四%に引き上げる」と言われる。財源をすべて労働者人民からの収奪に変えようというのだ。
 これが日帝の年金解体戦略だ。今年の日経連「労問研報告」は「高コスト構造是正」を「社会保障と総額人件費の削減で」と具体的に激しく強調している。

 退職金を廃止し60歳定年制解体

 いまひとつの重大な問題が退職金制度の解体だ。日経連「労問研報告」は、@「今年四月からの新会計基準の適用で退職金の積み立て不足が深刻化する」から退職金の「給付を引き下げる」、A「企業年金改革を機に、退職金が必要か、現行水準を維持できるか検討」と、とんでもない主張を展開している。
 退職金は、年功賃金の一部である「後払いの賃金」だ。成果・業績主義賃金の導入、雇用流動化と一体で退職金制度廃止の動きが出てきた。
 企業年金は退職金の積立金運用のためにつくられた。この企業年金がバブル崩壊、低金利下で破綻(はたん)し、赤字の膨大化が新会計基準で問題化した。この危機のりきり策のひとつが「確定拠出型年金(日本版401k)」だ。これは、積立金の運用とリスク(損害)の責任をすべて労働者個人に負わせる制度である。今臨時国会に再び法案が出される。
 退職金も企業年金も労働協約で締結される。改悪阻止の闘いが極めて重大だ。
 これと並んで六十歳定年制の解体である。すでに定年制は実際は早期退職、出向・転籍の強要という形で崩されてきた。今度は「年金の支給開始年齢引き上げ」を逆手にとって「雇用延長」の名による雇用、賃金、退職金制度の大改悪を進めようとしており、今春闘で中心テーマとなった。(シリーズ第三回参照)

 階級的団結の力で反撃に立とう

 戦後社会保障制度は、戦後帝国主義の延命形態の基軸にあった制度で、戦後的な賃労働と資本の基本関係を補完するものであった。この社会保障の全面解体が今、激しく進められている。これは、賃金、雇用の基本形態を右から破壊することと一体で「上からの階級戦争」である。
 賃金、雇用をめぐる闘いと同じく、社会保障をめぐる闘いも、労働者人民にとってのいのちの要求=生活要求そのものである。賃金、雇用も社会保障も、労働者が団結して闘わない限り奪い取られる。
 連合の反労働者的な役割はますます許せない。電機連合は七月の大会に、@厚生年金の報酬比例部分(二階)を廃止する、Aすべての財源を年金目的消費税でまかなうという年金方針を出した。消費税率が一〇%、@の替わりは個人年金、企業年金(両方とも民営)に任せるという。「経済戦略会議」の提案そのものであり、これを連合方針にしようというのだ。完全な年金解体の推進者だ。
 連合打倒、戦闘的労働運動の前進以外に労働者階級は生きられない。国鉄決戦に勝利し、新潮流運動の発展をかちとろう。
〔川島和彦〕

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週刊『前進』(1975号4面1)

一年間決戦突入アピール
 成田の軍事基地化阻止へ10・8三里塚現地に結集を
 暫定滑走路建設粉砕せよ

 江波敏之

 日帝・森政権は、九月二十一日に始まる臨時国会で臨検(船舶検査)法、土地収用法改悪など反動法案の強行成立へと突進している。防衛庁は米軍有事法制定を準備し、都知事・石原は羽田空港の軍事使用に踏み込んだ。三里塚にかけられた戦時徴発の先取り的土地強奪と軍事基地化の攻撃が全国化しつつある。新安保ガイドライン体制確立と有事立法・改憲攻撃が激化する中で、三里塚闘争はさらに巨大な階級的意義を持つに至った。戦後政治と国家体制の転換をかけた階級的大反動に対して、ガイドライン・沖縄決戦、国鉄決戦が反革命カクマルの闘争破壊策動を粉砕して爆発している。三里塚闘争は暫定滑走路を実力粉砕する一年間の決戦に突入する。十・八三里塚集会に全国から総決起しよう。
 

 敷地内の生活・営農破壊と東峰神社立ち木伐採許すな

 日帝・運輸省、空港公団は、暫定滑走路を二〇〇二年五月二十日の期限までに完成させるために暴力的建設路線を強行している。
 一九七八年暫定開港直後に始まった二期攻撃は、その後の買収攻撃が破産し、八六年見切り着工でも屈服させることができず、九〇年成田治安法による拠点解体攻撃、これと一体のものとして進めた成田空港シンポジウム−円卓会議による「話し合い」路線によっても闘争陣形を崩せず、旧熱田派・実験村グループの取り込みにも失敗した。
 「二〇〇〇年平行滑走路完成」方針は破産し、成田からの撤退がささやかれるといった危機の中で浮上したのが、未買収地を避けるために二千百八十bに縮めて北側にずらした暫定滑走路計画である。
 だが、目標はあくまで平行滑走路(二千五百メートル当初計画)の完成であった。暫定滑走路計画は、その計画発表と軒先工事の再開で農民に打撃を与え、平行滑走路の膠着(こうちゃく)状態を打開することを狙いとしたものである。しかしこの策動も粉砕された。暫定計画の暴挙は農民の怒りをかきたて、逆に闘争陣形を強化する結果を招いた。
 八月二十五日に運輸省は来年度予算の概算要求を発表したが、この概算要求に平行滑走路建設費を盛り込むことができなかった。二〇〇二年五月の期限までに平行滑走路を完成させることが不可能であることを自認したのである。
 こうして運輸省・公団は二〇〇二年五月の期限内に暫定滑走路を暫定滑走路として完成させることに全力をあげることになった。
 そしてこの暴力的強行路線は、その路線が農民の怒りをかき立て対立関係が深まれば深まるほど、凶暴さをエスカレートさせる。東峰神社の立ち木の伐採、団結街道破壊攻撃は追いつめられた公団による凶悪な破壊攻撃である。
 @立ち木の伐採とは、暫定滑走路の南側着陸帯から六十メートルの地点にある神社の立ち木が航空機の離着陸の障害になる(進入表面を九メートル突き出す)ため、切り倒そうとする攻撃である。神社は平行滑走路予定地の真上にあるのだから、当初計画では立ち木の高さは問題ではなかった。暫定滑走路から航空機を飛ばすしかなくなったことで発生した問題である。
 運輸省・公団は、早ければこの秋にも東峰地区に伐採の同意書を強要し、拒否すれば来年夏、緊急性を口実に航空法に基づく仮処分による立ち木伐採の強行方針を固めている。日帝・運輸省は立ち木の伐採を強行し、強権を発動することで三里塚闘争を押しつぶす攻撃に出てきたのである。
 Aさらにエスカレートした攻撃として、団結街道破壊攻撃がある。団結街道は天神峰現地闘争本部とともに空港反対闘争の象徴である。空港公団は住民の既得権を奪い、団結街道を空港用地の外に押し出し、迂回(うかい)させて外周道路と一体のものにすることを絶えず策動している。「小見川県道トンネル化」を口実とした街道封鎖はこの狙いのもとで強行された。
 だから機動隊を動員し故郡司とめ反対同盟婦人行動隊長の葬儀の日に奇襲的に強行した。成田市は道路法十八条が義務付ける公示を行わなかった。空港に反対する住民は市民ではなく、行政行為の対象外という暴挙である。
 さらに権力・公団は、小見川県道迂回道路の工事を九月四日から東峰生活区域に入り込んで開始した。強制収容所のようなフェンスで農家を威圧し、その中で軒先工事が進行している。
 完成後は誘導路上のジェットブラストの轟音(ごうおん)と飛行直下の四十メートルの大騒音で、農家を追い出そうとしている。
 以上が三里塚の現局面である。三里塚現地攻防の焦点は第一に、二〇〇一年東峰神社の立ち木伐採攻撃との闘いであり、団結街道破壊攻撃との闘いである。軒先工事による営農・生活破壊と不断に闘い、地域共同体を破壊する攻撃を実力で粉砕しなければならない。
 第二に、二〇〇二年五月の暫定滑走路の供用開始との闘いである。日帝は供用開始で打撃を加え、追い出そうとしている。これは事実上二〇〇一年十一月(十一月三十日暫定滑走路完工予定)をめぐる決戦的攻防である。その後に完成検査、テスト飛行を経て五・二〇開港(予定)となる。
 従って、十・八三里塚全国集会に始まる一年間が三里塚闘争の帰趨(きすう)を決する最大の決戦となったのである。

 日帝の航空政策の大破綻と不可避となる農地強奪攻撃

 成田暫定滑走路攻撃の激化を不可避とする第一の要因は、間近に迫る航空ビッグバン(二〇〇二年一月)と日米争闘戦における絶望的なまでの日帝の危機である。戦略産業である航空分野での争闘戦では、圧倒的に優位に立つ米帝が日帝を全面的に屈服させようとしている。日帝は成田平行滑走路の破綻(はたん)と、米帝の争闘戦の両面から追いつめられている。
 米帝はクリントン政権になって、「オープンスカイ協定」の対外的強要を国家政策の柱とした。これは圧倒的な優位に立つ米航空資本をテコに西欧とアジア各国に対して航空権益の開放を迫るものである。
 ヨーロッパでは仏独の抵抗を抑え込んで権益を拡大してきた。日米航空交渉は何度かの決裂の後九八年一月に暫定協定を締結した。これで熾烈(しれつ)な争闘戦に脆弱(ぜいじゃく)な日帝航空資本が投げ出される形となった。この暫定協定の効力は四年間であり二〇〇一年一月に見直し交渉を再開する。
 これが意味することは日本の空の全面開放である。その大前提となるのが日本の空港キャパシティーであり、通商交渉などで度々槍玉(やりだま)にあげられてきた成田空港問題の解決である。
 他方、アジア各国は大航空時代への対応として競って巨大空港建設を推進し、アジア勢力圏化を図る日帝にとって、空港整備の遅れが致命的となっている。
 これらに対応する日帝の政策が、成田平行滑走路完成と羽田国際化、首都圏第三空港建設である。九八年暫定協定締結当時、日帝の成田政策は「二〇〇〇年平行滑走路完成」であった。
 そしてこれらの政策が再び暗礁に乗り上げてきた。すなわち成田平行滑走路の二〇〇〇年完成の破産、二〇〇二年五月完成の破産の確定。そののりきり策として運輸省の羽田国際化方針と、これに対する千葉県の頑強な反発−運輸省の屈服と羽田国際化の一旦の頓挫(とんざ)である。
 羽田国際化問題は、東京都と千葉県の対立、自民党東京都連と千葉県連の対立と支配階級内部の対立を深刻化させている。
 そして、平行滑走路を完成させ「国際空港成田」を不動のものとしない限り、羽田国際化など論外とする千葉県の抵抗で、運輸省の羽田国際化政策は現段階では具体的見通しが立たない状態に陥ってしまった。
 結局、森政権は一地方自治体にすぎない千葉県の反発と抵抗を抑え込むことができず、ここにおいても統治能力の欠如をさらけ出したのである。
 こうした千葉県の圧力に押された運輸省は、逆説的ながら、羽田国際化のためにもまずは暫定滑走路を完成させ平行滑走路へと突進せざるを得ない状況に陥ったのである。
 そうしないと、成田は使い物にならない暫定滑走路に終わり、羽田国際化は実現せず、オープンスカイにおける「日米合意」が違約となって対外的信用を失うばかりか、オープンスカイ後の争闘戦に敗北する。アジア勢力圏化と基幹空港をめぐる競争で致命的な打撃をこうむることになる。

 人民の抵抗闘争を圧殺して侵略戦争参戦体制構築狙う

 成田暫定滑走路攻撃の激化を不可避とする第二の要因は、三里塚闘争の反革命的制圧と成田空港の軍事的一元的管理なしには、侵略参戦体制の遂行が不可能だからである。

 住民運動圧殺

 ガイドラインの発動とは陸海空の自衛隊と米軍の共同作戦の発動であるが、それ以上に重大な問題は、日本の労働者人民をこの戦争に動員することである。ガイドラインが発動されると米軍が成田空港を始め全国の主要空港、港湾業務を管理運営する。運輸部門を筆頭に全産業部門が直接に侵略戦争(兵站支援)に動員される。
 この侵略戦争下で、戦争に反対する人民的抵抗闘争が存在することは、内乱に直結する。三里塚闘争は日帝の朝鮮侵略戦争参戦に対する労働者人民の反戦闘争の拠点であり、内乱の砦(とりで)である。三里塚の存在、沖縄の基地撤去闘争の存在は、参戦体制を構築する日帝にとって絶対に許容できないのである。
 だから日帝は、侵略参戦体制の最重要の環である挙国一致体制を構築するために、三里塚と沖縄を始めとする住民運動と抵抗闘争の圧殺へと突進している。
 自民党都市問題研究会は八月二十一日までに土地収用手続きの簡素化のための改悪案を臨時国会に提出する方針を決定した。原発、産廃、環境といった住民運動も鎮圧と規制の対象である。そして一切の住民運動圧殺攻撃の先端に三里塚と沖縄を置いている。
 体制の脆弱さと強権政治は裏表の関係にあり、森政権の支配能力の欠如は強権的な政治を必然化する。

 全土の基地化

 さらに民間空港、港湾の戦時徴発と空港整備の問題である。
 「首都防災訓練」に名を借りて、羽田空港に戦後初めて自衛隊機が飛来したことは決定的事態である。都知事・石原は山形県(第六師団)と愛知県(第十師団)の自衛隊部隊を輸送機C130で羽田に輸送し演習に参加させた。「防災訓練」のための兵員輸送なら、航空自衛隊入間基地や米軍と共用の厚木基地を使えばよい。石原があえて羽田空港を使ったのは、民間空港の航空管制を自衛隊に移管するという有事を想定したガイドラインの具体化にある。「防災訓練」を口実に民間空港の戦時徴発に突出して踏み込んだのだ。
 また新ガイドラインに盛りこまれた日米軍事協力の運用体制が整い、民間空港、港湾の軍事使用のメカニズムが具体化してきた。
 九月十一日、日米帝は外交、防衛担当閣僚による安全保障協議委員会(2プラス2)を開き、日本有事や周辺事態の際に自衛隊と米軍の共同作戦行動や対米支援をすみやかに実施するための枠組みである「日米調整メカニズム」の設置を決定した。
 民間空港、港湾の軍事使用や米軍基地の徴発は、課長級実務者の「合同調整グループ」を経て外務省北米局長や在日米軍副司令官らで構成する既存の「日米合同委員会」で処理される。
 このための国内法として、防衛庁は日本有事の際に自衛隊と共同作戦を行う米軍の作戦行動を円滑に進めることを目的とした米軍有事法制定にむけた本格的な研究作業を開始した。
 研究では@有事に米軍が必要とする土地、施設の強制収用や物資提供を可能とする法令整備、A道交法、航空法など国内法令の適用除外のあり方などが問題となる。また周辺事態発生時に適用される日米兵站支援物品役務相互提供協定(ACSA)を日本有事に適用することも検討する。
 朝鮮半島が緊迫した九四年、防衛庁や運輸省は在日米軍の支援要請を受けて、成田、関西、福岡などの主要民間空港の管理権を米軍に委ねることを検討した。そのときの法的裏付けは、日米地位協定第二条四項b(通称2−4b)だった(日本政府が管理し米軍が共同使用する施設・区域という規定)。米軍有事法はガイドラインの発動に対応して民間施設の徴発を全面的に可能にしようとする戦争法である。
 成田空港は朝鮮有事のときの本土最大の兵站・出撃基地である。暫定滑走路は平行滑走路の破綻を突破し、北側ずらし部分を加えた三千七百b軍用滑走路をつくる攻撃である。三里塚闘争はこれと対決している。有事立法、戦時徴発が具体化し、羽田のように先取り的に既成事実化するようになった今日、有事体制づくりと先端的に闘う三里塚闘争の位置が実に重大になってきたのである。

 三里塚農民と人民の正義を貫き日帝・森政権の打倒へ

 三里塚における日帝の国家暴力の発動は、ガイドライン参戦体制構築という戦後最大の階級攻防において危機を深める日帝・森政権にとってまさに墓穴を掘るものとなるであろう。
 三里塚の農民圧殺との闘いは三十年前の問題ではない。一貫して階級攻防の先端に位置して不屈に闘い続け、いま新安保ガイドライン体制の中で先端で激突している。シンポと円卓会議座長・隅谷三喜男の「成田問題は社会的に解決した」や「成田は軍事空港ではない」というデマ暴論、同類の朝日新聞成田・千葉支局の反動キャンペーンの犯罪性は明らかである。
 正義は三里塚農民と人民にある。革共同は朝鮮侵略戦争体制づくりとガイドライン攻撃に突進する日帝国家権力を三里塚に深々と引き込み、実力闘争、武装闘争で粉砕する。連続的に敢行された運輸省幹部に対する戦闘(八・二六−九・一三)は、新たな農民殺しに対する正義の巨弾である。
 当面する三里塚闘争方針の第一は、目前に迫った十・八三里塚全国集会を新安保ガイドライン体制構築阻止、有事立法・改憲攻撃粉砕の闘いの一環に位置付け、労働者人民の大結集をかちとることである。
 今月二十一日召集の臨時国会では、船舶検査法や有事立法、戦時徴発の先取りとしての土地収用法の改悪など、反動法案成立が策動されている。そして三里塚現地は暫定滑走路をめぐる一年間決戦に突入する。三里塚反対同盟の決起に大動員をもってこたえよう。
 第二は、敷地内農家の営農と生活をあらゆる手段で防衛する闘いである。
 東峰神社の立ち木伐採攻撃、団結街道破壊攻撃、東峰生活区域に迫る迂回道路と軒先工事を粉砕しなければならない。また私服刑事と機動隊による検問、尾行と生活監視は、農民の人権を踏みにじって日常的に行われている。断じて許してはならない。
 団結街道破壊は成田市・小川国彦の道路法違反を明らかにして阻止した。現地実力闘争と、法的反撃を含むあらゆる手段でこれらの攻撃を一つひとつ粉砕し農家を守りぬかなければならない。そのために現闘組織を強化しよう。
 第三は、革命的武装闘争の断固たる推進である。正義は力をもって貫かれなければならない。
 ガイドライン粉砕・三里塚決戦勝利へ、反革命カクマルの決戦破壊策動を粉砕し、十・八三里塚に全国から総決起しよう。

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週刊『前進』(1975号4面2)

10・8へ結集を 三里塚反対同盟からのアピール (下)

 みなぎる勝利の確信 事務局次長 萩原進さん

 運輸省、空港公団は昨年十二月三日に暫定滑走路工事に着工した。これに対して反対同盟は、二年間決戦で絶対に粉砕すると宣言して、十一カ月間闘いぬいてきた。この闘いの中で、暫定滑走路は使い物にならない代物だと言ってきたが、いよいよそれがはっきりしてきた。
 そもそも暫定滑走路計画は、平行滑走路をつくるための最後の手段として打ち出し、とにかく工事を始めるためにもちだしたものだった。計画を練って、じっくり準備して始めたものではないわけだ。だから、暫定滑走路と言いつつ平行滑走路をつくってしまおうというもくろみは、行きづまってしまった。この一年間の反対同盟を先頭とする三里塚闘争の前進によって、使い物にならない暫定滑走路のまま固定化してしまうという現実を突きつけられている。
 そうした暫定滑走路計画の不手際とほころびを示すものが、東峰神社の立ち木の問題や天神峰の団結街道迂回道路の問題として出てきた。これからの一年間には、こうした問題が浮き彫りになってくる。
 工事開始は、工事を始めることで敷地内農民をたたき出すことに目的があったわけだ。だが、工事を強行することで、敷地内農民の怒りに火をつけ、反逆の精神を打ち固めることになった。このことが今日、何よりも大きな意味をもっている。敷地内農民が国家権力の暴力的なやり方に怒りを爆発させれば、暫定滑走路はつくったとしても、使い物にならず、無用の長物として天下に恥をさらすだけのものになるからだ。
 だから、反対同盟には勝利の確信がみなぎってきている。着工以来、連月闘争を展開し、局面、局面で闘いを挑み、暫定滑走路建設にかけた敵のもくろみの行きづまりを確定させてきたことに、勝利の手ごたえをつかんでいる。勝利の大道を歩んでいることにまったく変わりなく、この一年意気軒高と闘いぬいてきたと実感できる。
 こうした三里塚の状況をとりまいている日本全体はどうなっているか。政治的混迷、経済的破滅、社会の混乱が日本全体を覆っている。戦争への道で突破せざるをえない政治、経済、社会の状況を見逃すわけにはいかない。
 そこでは成田空港の軍事的、戦略的位置というものがはっきりしてくる。首都圏における四千b級滑走路の軍事的意味が重要性を増していることを物語っている。それは、昨年の新ガイドライン関連法を始めとする戦争のための法律の制定が示している。
 だから反対同盟が空港建設反対闘争の開始当初から掲げ続けてきたスローガンである「軍事空港建設絶対反対」はますます重要性を帯びてきている。これはひとり三里塚にとってだけではなく、日本の労働者人民全体、アジアの人民全体にとって重大な問題だ。沖縄や北富士を先頭に基地闘争を闘う全国の人びととの融合を強化しなければならないということでもある。
 三里塚闘争の勝利は階級情勢を一変させる要素となる。しかも今日、勝利の具体的展望をつかんでいる。全国のみんなで闘うことが大切。十月は日本の政治の行方を決める重要な時でもある。十・八三里塚集会に全国から結集して、暫定滑走路粉砕の一年間決戦に突入しよう。

 公団の無法を許さぬ  敷地内・天神峰 市東孝雄さん

 昨年十二月、天神峰に戻ってきたら、暫定滑走路の工事が始まった。夜七時過ぎまで工事を続けた。その騒音や震動はものすごかった。十年前の軒先工事では井戸の水がかれたと聞いていたので、とても心配だった。運輸省、公団は、とにかく自分を天神峰から追い出すことしか考えていないことがよくわかった。
 今度は、小見川県道を滑走路の下に通すトンネル工事をやるために、団結街道を封鎖して迂回道路をつくった。これもめちゃくちゃなやり方をした。
 工事を始める前には、私服刑事が家の周りを徘徊し始めた。検問もひどくなった。どこへ行くにも尾行してついてきた。そして郡司さんの葬儀に出かけている間に、団結街道を封鎖して迂回道路をつくった。
 しかもこの工事を始めるのに、一言の通知もなかった。工事が終わってから知らせるというとんでもない無法を行った。八月十日に工事を始め、工事が終わった十一日の夕方になって、「道路切廻しのお知らせ」という看板を団結街道の入り口に出した。この看板は工事を始めるときにはなかったものだ。十日の朝から全部日付入りの写真に撮ってあるから、公団や成田市がうそを言ってもだめだ。
 公団は法律を破ってでも天神峰から追い出そうとしている。どんなことでも、やっちゃえば通ると思っている。何も言わなければどんどんやるのが公団、権力だ。
 天神峰に戻ってくる時点で腹を決めているから、公団がどんなに嫌がらせをしても、それに負けず立ち向かって闘います。二〇〇一年完成はさせません。十・八には全国から集まって正義の力を示して下さい。

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週刊『前進』(1975号4面3)

軍報速報 運輸省幹部に追撃の火炎戦闘 9・13白井町

 革命軍は以下の軍報を発表した。
 革命軍は、九月一三日午前三時一〇分、千葉県白井町堀込二−五−二にある運輸省大臣官房文書課長・梅田春実の自宅駐車場に対して、強力な火炎戦闘を敢行した。この戦闘によって、梅田の乗用車を完全に焼き落とした。
 梅田は、前職の運輸省鉄道局総務課長の時には、芝山鉄道建設工事計画に加わっていた。今度は大臣官房文書課長となって、九月七日には、運輸政務次官・実川幸夫を案内して成田空港視察を行い、暫定滑走路建設を強引に推進しようとしていた。
 梅田は、暫定滑走路建設工事を強行するために、敷地内農民に対して警察権力を差し向け、検問・尾行・監視を行わせてきたのである。空港建設を強行し、敷地内農民を叩き出そうとする農民殺し・農地強奪を率先して遂行してきた極悪の運輸官僚である。鉄槌が打ち下ろされて当然の人物である。
 革命軍は、この九・一三戦闘を八・二六戦闘を引き継いで連続的に勝ち取り、暫定滑走路建設実力阻止決戦勝利の血路を切り開いた。いよいよ日帝・運輸省・空港公団の「暫定滑走路二〇〇一年一一月完成計画」を完全に粉砕する決戦過程への突入である。
 一〇・八三里塚全国集会からの一年間決戦に勇躍、決起しよう。革命軍は、反対同盟との血盟にかけて、ますます強力なゲリラ戦闘を連続的に爆発させるであろう。
 二〇〇〇年九月一三日 革命軍

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週刊『前進』(1975号5面1)

プーチン訪日が示したもの
 「領土交渉」の現実主義外交で経済協力引き出し狙うロシア
 日帝は露骨な領土拡張の野望

 藤沢明彦

 日ロ首脳会談と゛交渉継続゛

 九月三−五日、ロシア大統領プーチンが訪日し、森首相と首脳会談を行った。
 首脳会談で日ロは平和条約締結に向かって交渉を継続することで合意した。ロシアは、領土問題で譲歩することなく、日帝から対ロ経済協力を進展させる約束(「森・プーチンプラン」)を得た。逆に、平和条約締結交渉は仕切り直しとなり、日帝のめざす領土問題の解決なるもの、すなわち「北方四島返還」の実現は先延ばしとなった。領土交渉をテコに対ロ経済協力を獲得するというロシアの冷徹な現実主義外交の前に、日帝・森の帝国主義的排外主義に立った領土的野望の展望は開かれないままとなった。
 しかし、ロシアの現状では計画された経済協力がスムーズに進展するとは考えられない。日ロ交渉のこうした停滞を根底的に規定しているのは、崩壊したソ連スターリン主義を受け継いだロシアの資本主義化政策の行き詰まりであり、また恐慌の深化と日米争闘戦の激化の渦中にたたき込まれている日帝の危機の深刻さである。
 こうした行き詰まりを打破するために日帝は今後ますます領土拡張のための排外主義的、国益主義的、愛国主義的キャンペーンを強めるだろう。それに対応してロシアは領土問題をもてあそびつつ日帝から経済援助の引き出しを図ろうとする傾向を強めるだろう。
 「北方領土問題」とは、プロレタリアート人民大衆、被抑圧民族人民の利益とは無縁の帝国主義的な領土争い、勢力圏争いでしかない。国際プロレタリアート人民は、日帝の領土拡張のための排外主義的、愛国主義的扇動を粉砕すると同時に、資本主義化政策のために日帝資本の導入を図るプーチンの反プロレタリア的策動を許さず、闘わなければならない。

 「北方領土返還」の要求と日帝の帝国主義的な排外主義

 もともと日帝のいう「北方領土」「北方四島」とは、クリル諸島(千島列島)の南部の四島、エトロフ(択捉)島、クナシリ(国後)島、ハボマイ(歯舞)諸島、シコタン(色丹)島を指す。日帝は、これら四島が「日本の固有の領土であるにもかかわらずソ連−ロシアに不当に軍事占領されている」と宣伝し、それらの「返還」を要求してきた。
 だが、日帝には、この四島を「日本の固有の領土」として主張する正当な根拠などそもそもない。
 まず第一に、クリル諸島の先住民族はアイヌ民族であり、日本とロシアはこの地を侵略して奪い取り、分割して支配してきたことをはっきりさせなければならない。あえていえば、クリル諸島は日本の領土ではなくアイヌ民族の固有の領土なのである。クリル諸島は日本の固有の領土だとか実効支配しているソ連−ロシアの領土だとか主張することは、アイヌ民族の存在を無視した帝国主義的で一方的な言動なのだ。
 第二に、一八五五年の日魯通好条約で日本とロシアがともに「クリル諸島(千島列島)」と呼んでいた地域は、カムチャツカ半島の南のシュムシュ島から始まる十八の島々とエトロフ島、クナシリ島、ハボマイ諸島、シコタン島までである、ということを確認する必要がある。(村山七郎著『クリル諸島の文献学的研究』三一書房一九八七年を参照)
 第三に、日帝は、一九四五年八月のポツダム宣言受諾=無条件降伏によってクリル諸島(千島列島)全体を放棄した。ポツダム宣言の第八項は「カイロ宣言の条項は履行されるべく、また日本国の主権は本州、北海道、九州および四国ならびにわれらの決定する小諸島に局限されるべし」と規定している。カイロ宣言(一九四三年十一月)は「日本国はまた暴力および貪慾(どんよく)により日本国が略取したる他の一切の地域より駆逐さるべし」と述べている。
 一九五一年の対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)第二条C項でも、日本国は、千島列島ならびに南樺太を放棄すると規定している。(日本が放棄した千島列島と樺太がどの国に属すかは明記しなかった)
 ところが、日本の全権代表・吉田茂は対日講和条約締結の場で、「歯舞諸島は千島列島に含まれない」とする米国代表ダレス発言の後押しを受け、ソ連グロムイコ代表の主張に対抗して、「千島列島と樺太は侵略によって奪取したものではない。日本開国の当時から千島南部の択捉島、国後島は日本領であった。歯舞諸島、色丹島は日本の本土たる北海道の一部を構成する」と演説した。
 このように対日講和条約締結の場で千島列島にエトロフ島、クナシリ島が含まれると公式に認めた日帝には、今さらエトロフ、クナシリの二島を返還要求する権利はないのである。

 第2次大戦に敗北してクリル諸島を自ら放棄した日帝

 「北方領土」問題は、第二次世界大戦で敗北した日帝が自ら放棄したはずのクリル諸島の四島をあえて「固有の領土」であり、放棄の対象に入らないかのように強弁し、返還を要求していることに発している。日帝は、こじつけ的解釈をもって「北方四島」は日本固有の領土だとか、千島列島に含まれないとか主張しているにすぎない。
 日帝の「北方領土」要求は、戦後世界体制の基本的枠組みを決定したヤルタ協定に対する部分的な異議申し立てであり、米帝に盾突くことを意味する。しかし、米帝は、対ソ対決政策に日帝を引き入れるためにこれを容認した。米帝は、日本における米軍の駐留、日米安保条約を合理化するために、日帝とソ連スターリン主義との緊張関係をつくり出し、日帝が領土を主張するよう仕向けたのだ。
 日帝は、日米同盟政策、対ソ対決(=帝国主義間争闘戦貫徹)政策を進める米帝のしり馬に乗って帝国主義的領土拡張をめざした。「領土引き渡しを拒否するソ連」「ソ連の不当な北方四島占領」を一方的、排外主義的に非難し、ソ連を仮想敵国とする日米軍事同盟を合理化し、それを人民に飲ませようとしたのだ。
 日帝は、一九五一年のサンフランシスコ平和条約の場では、“歯舞、色丹の二島は北海道に属する日本固有の領土だからソ連に対して返還を要求しうる″と主張したが、それからわずか数年後に、これら二島にエトロフ、クナシリを加えて四島とも千島列島から除外し、「日本固有の領土」と主張するようになった。この根拠として持ち出されたのが、「平和的に締結された」とされる先述の日魯通好条約である。
 他方、ソ連は、カイロ宣言、ヤルタ協定、ポツダム宣言を根拠に対日参戦し、クリル諸島軍事占領を続けてきた。ヤルタ協定第三項は「クリル諸島はソヴィエト連邦に引き渡されること」と明記している。一九四五年のソ連の対日参戦とクリル諸島支配は、いわばヤルタ協定の履行にすぎない。だが、戦後数年にして米帝とソ連が対立を前面化させたため、ソ連のクリル諸島の支配の意味が変化した。ソ連はクリル諸島を対米対抗の最前線として軍事化した。
 こうしてソ連が日本との関係ではサンフランシスコ平和条約に参加せず、その後も日ソ平和条約が未締結であるという戦後処理の不備が生じた。ここに日帝がつけ込んで、ソ連に「領土返還」を迫ってきたのである。
 これに対してソ連は、日本との関係では戦争状態が続こうとも、スターリン主義として日米帝に対抗していかなれば体制を維持できなかったため、クリル諸島の支配を継続した。
 以上に見たとおり、日帝の領土拡張要求にしても、ロシアの経済支援要求にしても、プロレタリアートと被抑圧諸民族の利益に反する帝国主義的侵略・植民地支配、資本主義的搾取・収奪の強化にほかならない。

 日帝の展望のない「交渉継続」と日ロ経済協力の「進展」

 九月の日ロ首脳会談は、プーチン外交の冷徹な現実主義と日帝の対ロシア外交の破綻(はたん)・行き詰まりを示した。日帝の望む領土問題の解決の展望は立たないが、ロシアの望む日ロ経済協力だけは徐々に進んでいくという関係が定着しつつある。
 日帝は、ソ連崩壊と日米争闘戦のかつてない激化の中で、かつてのように対ソ対決政策の一環として米帝の支援を受けつつ「北方領土返還」要求を突きつけることができなくなった。かといって、深刻な恐慌の中では、日帝単独の力で「領土を買い取る」大胆さも発揮できない現実にある。日帝のできることは当面、ダイナミックさに欠ける対ロ経済協力を実施すること以外にはない。
 崩壊過程のソ連とロシアは領土問題=平和条約締結交渉にどう対応してきたか。
 ソ連末期においてゴルバチョフは、ソ連スターリン主義の崩壊を食い止めるためにペレストロイカ(再建)を提唱し、「民主化」と大幅な軍備削減、市場経済原理導入の政策を進め、一国社会主義の根本矛盾の爆発をのりきろうとした。対外的には、日米安保を容認するなど帝国主義への軍事的対抗性を弱めて、それと引き替えに帝国主義の経済力を導入しようとする戦略をとった。
 一九九一年に訪日したゴルバチョフは、領土問題の存在を認めて「北方四島」の帰属問題を話し合うことを確認し、日帝から対ソ経済協力を引き出そうとした。しかし、ペレストロイカの激動と危機の中での領土の引き渡しは、民族問題を爆発的に噴出させ、ソ連の国家的存立を危うくする可能性があった。このため領土問題=平和条約交渉の進展はなかった。
 次に、ソ連の継承国家であるロシアは、エリツィン体制のもとで急進的な資本主義化路線をとり、帝国主義世界経済の中にロシアを組み込もうとしたが、たちまち行き詰まった。それを打開する決定的なテコとして日帝の経済力を導入する必要があった。
 一九九三年に訪日したエリツィンは、細川とともに「東京宣言」を発した。領土問題が「北方四島」の帰属問題であることを明記し、間接的に一九五六年の日ソ共同宣言の有効性を確認した。そして平和条約の早期締結をうたった。
 日帝は一九九〇年代に入って、領土問題の進展がなければ経済協力をしないという路線を改め、領土交渉を進めると同時に経済協力など日ロ関係を全体として進展させる「拡大均衡」路線、「重層的アプローチ」に転換していった。
 橋本は「ユーラシア外交」をうたい、ロシアへの投資に本腰を入れる姿勢を示してエリツィンを引きつけようとした。
 こうして一九九七年にエリツィンと橋本が「クラスノヤルスク合意」を成立させ、「二〇〇〇年までに日ロ平和条約を締結するために全力を尽くす」と宣言した。この合意と同時に「橋本・エリツィンプラン」が策定され、経済協力の進展が図られた。
 エリツィンは、期限を二〇〇〇年に区切って平和条約締結=領土譲渡があり得るかのような大胆な姿勢を示すことで、日帝から大幅な経済協力を引き出し、資本主義化政策の行き詰まりを打開しようとしたのだ。
 日帝はクラスノヤルスク合意を契機に平和条約締結、領土獲得への道を速めようとした。橋本は一九九八年の川奈会談でエリツィンに、平和条約締結前に日ロの国境線を「北方四島」の北側に画定し、ロシアに当面する施政権を認めるという提案を突きつけた。 しかしエリツィンは翌年、小渕に、国境線画定を先送りして、日ロの協力関係を強化する「平和友好条約」を結ぶという対案を示し、日ロ交渉を振り出しに戻そうとした。平和条約交渉、領土問題の解決は再び膠着(こうちゃく)状態に陥った。
 その中で「橋本・エリツィンプラン」による日帝の対ソ経済協力は、ロシアの社会的混乱と法的未整備が続く中で少しずつしか実施されていない。
 一九九一年以後の日本の対ロ支援総額(合意分)は六十三億jで、ドイツ、米国に次ぐが、その多くはどこに消えたか分からなくなっている。日本の対ロ投資は世界十三位にすぎない。一九九九年の日ロの輸出入総額は四十二億jで、前年よりも四・四%減少した。対ロ貿易額は日本の貿易総額のわずか〇・六%である。
 エリツィンから権力を引き継いだプーチンは、ロシア経済の一定の回復とプーチンへの圧倒的な政治的支持を背景にして、平和条約=領土問題についてより長期的に交渉し、譲歩を避けつつ、日帝の経済協力を引き出す実利主義的な外交戦略をとっている。

 チェチェン侵略戦争の泥沼化と原潜事故で危機が激化

 だが実際にはプーチン体制は根底的な危機にさらされている。ロシアはまだまだ資本主義化されていない。旧ソ連の膨大な資産と資源をただ同然で買い取った数人のオリガルヒ(金融財閥指導者)がロシア経済を独占的に分割支配している現実は変わっていない。現在、投機的に高騰している国際エネルギー価格が低下したら、たちまちロシア経済は危機に陥る。
 チェチェン侵略戦争・軍事占領は長期化・泥沼化し、財政負担と将兵の死亡者はますます膨れ上がっている。チェチェンでのロシア軍の戦争犯罪、人権侵害はすさまじい。一万八千人もの市民が行方不明となっている(欧州会議報告)。二十万人が難民のままだ。
 原潜クルスクの沈没事故は、ロシアの海軍力のさびつきと財政難を明るみに出した。乗組員百十八人は軍事機密を守るための犠牲にされた。百二十万人のロシア軍を三五%削減したとしても、また戦略核を千五百発に減らしても、ロシアの財政規模からして多すぎるというのが現実だ。
 プーチンは森との会談でクラスノヤルスク合意は「努力目標」と強調、平和条約の二〇〇〇年内締結をあくまで努力目標とし、年内締結を立ち消えにしてしまった。ただ一九五六年の日ソ共同声明(平和条約締結後、歯舞、色丹を返還することで合意)の有効性を認めた。プーチンは、領土問題の存在を認めた上で「日ロの全面的な関係を改善させる中で解決が可能」と述べた。ロシアにとって領土問題を語った方が経済協力を獲得する上で有利だからだ。
 こうして日ロ共同声明は平和条約交渉の継続を確認した上で、一九九三年の東京宣言、一九九八年のモスクワ宣言などの尊重を確認した。またプーチンが重要視する極東開発を含む「森・プーチンプラン」が決められた。
 日帝は「領土をカネで買う」しかなく、経済協力を拡大し、ビジネスチャンス(リスクが大きい)を得たが、結局、平和条約交渉の継続を約束しただけで政治的にはほとんど何も得られなかった。

 プロレタリアの立場は何か

 日ロ交渉は停滞と行き詰まり、仕切り直しを繰り返している。日帝は、ますます排外主義的、愛国主義的に「北方領土返還要求」キャンペーンを強化せざるをえない。ロシアは、領土をもてあそびつつ、日帝からの経済援助の獲得のために策動を続けている。これらは、すべてプロレタリアートと被抑圧諸民族の解放、利益に反する行動だ。
 日帝の帝国主義的領土拡張と対朝鮮・中国−アジア侵略、対ロシア侵略の野望を打ち砕き、闘うアジア人民、闘うロシア人民と連帯し、侵略を内乱に転化しよう。帝国主義の経済援助をテコにロシアの資本主義化を図り、大ロシア主義を振りかざしてチェチェン侵略戦争を推進するプーチンを弾劾し打倒しよう。

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週刊『前進』(1975号5面2)

東富士 ”米軍演習やめろ” 静岡県共闘が抗議デモ

 九月十五日、静岡県共闘の呼びかけで、米海兵隊の東富士演習場実弾演習に対する抗議集会が御殿場市内で開かれました。集会には県内各地から労組、市民団体など九十人が参加、国労の宣伝カーを先頭に鮮やかな「富士を撃つな!」の横断幕を掲げてデモ行進が行われました。
 この米軍演習は、沖縄の県道一〇四号越え実弾訓練の本土移転で、十三日から二十六日まで十日間の実施が予定されています。東富士での演習は今回で三度めですが、兵力、砲数とも過去最大、夜間演習も拡大しました。一方、東富士演習場にはこの秋、「対テロ・ゲリラ用」と称する自衛隊の治安訓練基地建設も強行されようとしています。
 私たちは、森政権の有事立法・改憲攻撃と対決し、東富士演習場での戦争訓練のエスカレーションに徹底的に反対していきます。
 連合は集会もデモも一切取りやめ、戦争推進勢力の本質を明らかにしました。またカクマルは昨年に続いて何ひとつアリバイ行動を起こすことすらできず、彼らの運動的破産をより一層鮮明にしました。
 静岡の闘う労働者は、東富士闘争を闘いぬき、今秋の国鉄決戦、十一月労働者集会に全力で決起していきます。
 (投稿/静岡 K・S)

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週刊『前進』(1975号5面3)

読者からの手紙

 今闘えば反動を食い破れる 青年労働者 H・M 

八・二六国労臨大続開大会のその日、私も社会文化会館に駆けつけ、「四党合意糾弾! 執行部総退陣!」という怒りを込めて座り込み行動に参加しました。そこで感じたことは、「この闘いは半端じゃないな」ということです。
 十四年間、「千四十七人全員の地元JR復帰」をかちとるため、人生をかけて闘い続けている闘争団・家族を先頭とする国労組合員、そしてそれを牽引(けんいん)する動労千葉の闘い……。私はそこに「ともに働く仲間の首切り・賃下げを許さず、労働運動(労働組合)破壊を許さない、労働者の戦争動員に断固反対していく」という階級的な頑固さ、たくましさを感じました。
 今、日本帝国主義は自らの生き残りをかけて、この階級的労働運動の大黒柱を切り倒そうと躍起となっています。なぜなら日帝が帝国主義的な労働者政策を貫徹し、労働者を戦場へと送るためには、この大黒柱を切り倒し、他の柱を一気に崩すほかないからです。
 今一番求められていることは、次世代を担う青年労働者がこの大黒柱を守りぬき、それに続く階級的労働運動を創出してゆくことだと思います。
 そのためには何よりも、十一月労働者集会への五千名結集を必ず実現させることが必要です。
 連合のような資本へのゴマすり運動、そしてJR総連=カクマルのファシスト労働運動……。このような闘わない労働運動、闘いつぶしのエセ労働運動が蔓延(まんえん)する中、肩を落とす青年労働者に対して「今、立ち上がるならば、この反動を食い止めることができる。その主軸である国鉄決戦を自分の問題として見据えることが、階級的労働運動の創出のキーであり、第一歩である」と、あと二カ月間、私自身、がけっぷちに立たされたつもりで訴えてゆきたい。

 9・3治安演習粉砕を闘って 法政大 T・S

 九・三自衛隊治安出動演習を粉砕する銀座での集会・デモは、ファシスト石原都知事の狙いを打ち破って勝利しました。
 九・三に向かって、法大生を先頭とする首都圏の学生は、銀座・白鬚(しらひげ)西・葛西・木場・舎人(とねり)・駒沢・都庁・篠崎の各演習会場と、市ケ谷の九カ所で、九・三演習絶対反対を訴えるパンフレットを配布しました。
 パンフの作成過程には多くの学生が参加しました。「軍事演習の実態を載せて『防災演習』のペテンを暴こう」「労働者に新安保ガイドラインの発動=戦争動員拒否を訴えよう」「関東大震災での大虐殺の再現を許さず、日本の労働者に在日外国人の支援・防衛を訴えよう」といった意見を出し合い、一万部以上のパンフを作りました。
 都庁前や銀座での街頭宣伝では「九・三演習は、朝鮮・中国−アジア侵略戦争と一体の治安出動演習であり、有事立法・改憲攻撃です。演習協力を拒否しよう」「ファシスト石原都知事を打倒しよう」と訴えました。特に都庁では、労働者が皆パンフを受け取り、街頭宣伝を聞いていました。多くの労組が反対決議を上げるなど、高まりつつある労働者の怒りをじかに感じることができました。
 「軍服を着た労働者」である自衛隊員にも防衛庁の最寄り駅である市ケ谷駅でパンフを配布し、「労働者・在日民衆に虐殺の銃を向けるな」と訴えました。
 街頭宣伝中にある在日朝鮮人が声をかけてきました。その人は、「石原はファシストだ。ナチスだ。私たちに何をするかわからない。日共はまるで闘わない」と怒り、「全学連はまだ闘っているのか。九・三訓練に君たちのような人たちが反対していることで励まされた」「このパンフをぜひ在日外国人の多い地域にまいてほしい」と私たちに訴え、ともにパンフ配布を行いました。
 今回実施された演習地域十カ所は、在日人民の集住地域に集中しています。日帝、とりわけ石原による排外主義の扇動、日本の労働者・学生と、在日朝鮮人・中国人、アジア人労働者との連帯を破壊する分断攻撃を許してはなりません。在日人民と連帯し、感動的な合流をかちとったのです。

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週刊『前進』(1975号5面4)

2000年日誌 阻もう!戦争への動き 9月13日〜19日
 臨検は安保理決議なしでも 森が有事立法の作業を指示

●東富士で実弾砲撃訓練
在沖米海兵隊が東富士演習場で、一五五_りゅう弾砲八門を使った実弾砲撃訓練を始めた。第一二連隊第三大隊の約三百八十人が参加。二十六日までの期間中に、砲撃訓練と夜間訓練を予定。今回は初めての大隊規模の訓練で、りゅう弾砲数、八十台の車両数とも過去最大規模。(13日)
●教育改革国民会議中間報告案 「教育改革国民会議」の全体会議が首相官邸で開かれ、中間報告の最終案がまとまった。焦点の教育基本法については「必要に応じて改正されてしかるべき」としている。さらに「奉仕活動の義務化」などを提言している。(13日)
●臨検は安保理決議に限らず 自民、公明、保守の与党三党が臨検活動に関する実施要件について、国連安保理決議に限定せず、新ガイドラインなどの「確立された国際法規」も含める方針を決めた。実施要件の幅を拡大したもので、安保理決議にこだわっていた公明党が自民党案に歩み寄った。政府はこの内容を盛り込んだ臨検法案を臨時国会に提出する。(13日)
●河野「常任理入り」演説
 河野洋平外相が国連ミレニアム総会で演説し、「軍縮や核不拡散、開発、人間の安全保障の分野で、常任理事国として一層の責任を果たしたい」と、日本の安保理常任理事国入りへの野望を示した。(13日)
●PKO武器使用を装備攻撃にも拡大 公明党は、自衛隊が国連平和維持活動(PKO)に参加するための前提条件となる「五原則」の武器使用条件について、隊員の身体生命を守る場合に限られていたのを、自衛隊の装備が攻撃されたケースでも反撃できるとするなどの修正に応じる方針を固めた。(14日)
●「九条改正の前に緊急事態法制整備」 民主党の菅直人幹事長が新聞のインタビューに「九条改正の前に、専守防衛の自衛隊のあり方を詰め、侵略された際のルールを作るべきだ。緊急事態法制を整備すれば、それを超えた部分が見えてくる」と答えた。(14日)
●武器輸出3原則緩和も
カンボジアなどでの対人地雷除去問題で、政府は「対人地雷問題関係省庁連絡会議」を発足させた。地雷の埋設された国への機材提供や技術移転を進めるため、紛争当事国への武器輸出などを禁止した武器輸出三原則の運用緩和も検討するという。(15日)
●PKOで、米軍が指揮統合へ動く 米国が東南アジア諸国などに対し、PKOや「国際人道支援」に参加する国々が「統合指揮グループ」をつくってすぐに派遣できる態勢を提案していることが明らかに。また来年から多国間の演習「チームチャレンジ」を始めたい意向で、その柱にPKOの指揮訓練をすえることも提案している。東アジアを歴訪中のコーエン米国防長官が、シンガポール政府などと論議したことを明らかにした。(17日)
●有事法制の立法化指示へ
 森首相は、有事法制を整備するため、虎島防衛庁長官ら関係閣僚に法制化作業の開始を指示する方針を固めた。これを受け、政府は関係省庁による作業部会を設置、「日本有事」の際の自衛隊の円滑な部隊移動、物資輸送、陣地構築や土地使用などを可能にする自衛隊法改悪案など関連法案を策定する。早ければ来年の通常国会に提出。(18日)
●「米軍アジア10万人体制維持」とコーエン アジア歴訪中のコーエン米国防長官は、アジア太平洋地域に米軍十万人を展開する体制について、来年の四年ごとの兵力見直し(QDR)でも「削減につながるような要素はまったくない」と語った。在沖米軍についても、訓練や部隊を部分的に他国へ移転するという一部に出ている考えには否定的な姿勢を示した。(19日)
●「自衛隊活用は当然」と日共 日本共産党の第七回中央委員会総会(七中総)で、十一月の党大会での大会決議案や党規約改定案などを提案した。決議案に「必要に迫られた場合には、自衛隊を国民の安全のために活用することは当然である」との見解を盛り込んだ。規約改定案では党の目的や性格づけを盛り込んだ前文を全面削除し、「社会主義革命」「階級闘争」という言葉もなくなった。不破委員長は記者会見で、綱領の改定も「やがては日程にのぼる」と述べた。(19日)
●空自F4緊急着陸で那覇空港閉鎖 那覇空港の南約三十`の洋上でエンジントラブルを起こした航空自衛隊那覇基地第八三航空隊所属のF4戦闘機が、同空港に緊急着陸。同空港は七分間閉鎖された。(19日)
●オスプレイ配備明言 米海兵隊トップのジョーンズ総司令官が新聞のインタビューで、沖縄配備が計画されている垂直離着陸機MV22オスプレイについて「海兵隊の近代化の観点から重要だ。現行ヘリに比べ騒音を軽減できる」と述べ、組織のトップとして初めて公式に同機の配備を認めた。(19日)

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週刊『前進』(1975号6面1)

日帝の核武装化攻撃との全面対決を
事故原因隠蔽し核燃サイクル計画の推進狙う「最終報告書」

 労働者に責任と事故報告書

 世界経済と世界戦争の危機の深まりの中で、日帝は「帝国主義戦争のできる国」への反動的飛躍をかけて、独自の核武装化=核燃料サイクル政策推進の攻撃を激化させてきた。そして九九年九月三十日、東海村臨界事故を引き起こし、JCO労働者の大内久さん、篠原理人さんを虐殺し、多数の労働者住民を被曝(ひばく)させた。東海村臨界事故一周年に際し、われわれは日帝打倒の階級的誓いをあらためて宣言する。
 この重大核事故の責任の一切は、独自の核武装化と利潤取得を目的に核燃サイクル計画を推進し、高速増殖炉実験炉常陽用燃料を労働者に生産させていた日帝支配階級(日帝政治委員会・科学技術庁−原子力委員会・原子力安全委員会、核燃料サイクル開発機構〈旧動力炉・核燃料開発事業団〉、JCO資本=住友資本)にこそある。
 事故から三カ月後の九九年十二月に「ウラン加工工場臨界事故調査委員会報告」が出された。
 事故調査委員会は日帝・小渕政権の指示で原子力安全委員会に設置された。その構成員は、事故の元凶である原子力安全委員会の委員や核燃機構の幹部を始め、日本原子力研究所、御用学者など核燃料サイクル推進・支持勢力で占められている。だがこの報告で「第三者の立場から事故原因を徹底的に究明し」たとほざいている。
 「最終報告書」の最大の犯罪性は、「直接の原因は全(すべ)て作業者の行為にあり、責められるべきは作業者の逸脱行為である」(事故調査委員会委員長・吉川弘之日本学術会議会長)と決めつけている点だ。現場労働者を犯罪者と罵倒(ばとう)し、自分たち=真犯人を全面的に免罪する居直りの論理である。
 日帝は「もんじゅ」、東海再処理工場の重大事故を起こした動燃を核燃料サイクル開発機構と名称変更させて温存した。核燃機構は臨界事故が起きる直前まで東海再処理工場の再開を策動していた。同機構は、常陽用核燃料の発注者としてJCOに君臨していた。事故発生前、一カ月の短期間に生産量と納期の変更を三回以上強要したことで、臨界事故の引き金を引いた。核燃機構が調査委員会に参加し、事故責任のもみ消しに躍起となったことは罪万死に値する。
 「最終報告書」は、今になって「原子力の『絶対安全』という標語は捨てられなければならない」と叫んでいる。だが、東海村や六ケ所村、敦賀市など核施設周辺住民を先頭に労働者人民は、これまで一貫して核事故の危険性を指摘し、核燃サイクル白紙撤回を要求して闘ってきたのだ。これに対し、日帝は「原子力は安全」のデマを垂れ流し、機動隊暴力で全面敵対してきた。「安全神話」の標語の放棄とは、核燃サイクル計画の破棄以外にないのだ。ところが同報告書は逆に、核燃サイクルの推進続行(=重大事故は不可避)を反革命的に宣言した。
 二人の労働者を虐殺し、さらなる犠牲を強制して延命しようと策す日帝支配階級に、労働者階級人民の渾身(こんしん)の怒りをたたきつけよう。

 核燃サイクル解体こそ必要

 小型核兵器二十発分のプルトニウム四十`グラムをすでに生産している常陽、大量の高純度プルトニウムの生産を目的としたもんじゅ、これらプルトニウムを抽出する高速炉用再処理工場(RETF、建設中)。すべて、電力生産とは無縁の核兵器材料製造施設だ。
 もんじゅ運転再開・RETF建設阻止! 高速増殖炉を廃炉にせよ!
 原発用再処理工場では、核燃機構の東海プラントに続き、日本原燃が青森県六ケ所村に大型再処理工場(二〇〇五年操業開始予定)の建設を強行している。周辺自治体に対する安全協定締結から、原発の使用済み核燃料の本格搬入強行へ向けて、日帝・原燃は激しく動き出している。六ケ所村にはすでにウラン濃縮工場、高レベル核廃棄物中間貯蔵施設、低レベル核廃棄物埋設施設が稼働中であるが、さらに@MOX燃料加工工場、A炉内構造物等廃棄物(高ベータ・ガンマ廃棄物)埋設施設、B核融合関連施設などの立地計画がもちあがってきている。
 六ケ所村の核軍事生産基地化、核廃棄物集積場化を断じて許すな! 闘う地元住民とともに、安全協定阻止、再処理工場阻止の決戦に立とう!
 核燃サイクルの諸環がずたずたになる中で、日帝は最後の綱としてプルサーマル計画を全面的に浮上させてきた。二〇〇一年に福島・柏崎・高浜の各原発でプルサーマル(ウランとプルトニウムの混合酸化物でつくったMOX燃料を軽水炉などで燃焼させる計画)を実施する攻撃をしかけてきている。プルトニウムを原発の燃料に使うプルサーマルは、いっそう深刻で大規模な核事故を急接近させる。危険この上なくコスト高のプルサーマルに日帝がしがみつくのは、その目的がプルトニウムの大量生産・蓄積(原発でつくられるプルトニウムも核兵器材料になる)にあるからだ。
 昨年、英国から関西電力高浜原発への初のMOX燃料搬入に対し、カリブ諸国、南朝鮮などで激しい抗議の声が巻き起こった。「東北アジアの平和を脅かす日本の核武装を糾弾する」−−南朝鮮人民はMOX燃料・プルトニウム海上輸送反対の闘いをソウルの日本大使館前や釜山の日本総領事館前で展開した。闘う朝鮮人民・アジア人民、全世界の労働者人民と連帯して、プルサーマル計画粉砕・MOX燃料搬入阻止、日帝の核武装阻止の闘いをさらに強化していこう。
 日帝とその先兵となった連合、JR総連=カクマルの行き着く先は、朝鮮・中国−アジア侵略戦争、世界戦争・核戦争だ。「連帯し侵略を内乱へ」の旗のもと、闘う国鉄労働者との団結を強め、軍事・核軍事生産企業の労働者、自衛隊兵士に反戦・反核を訴え、新潮流運動の躍進をかちとろう。

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週刊『前進』(1975号6面2)

事実調べを強く要求 狭山異議審「棄却許さぬ」の気迫

 九月十一日、部落解放同盟全国連合会と部落解放共闘は、狭山異議審闘争の勝利をめざして、朝の霞が関ビラまき、昼の高裁デモを貫徹し、五十人の参加で東京高裁に対する要請行動を闘いぬいた。
 昨年七月八日の再審請求棄却から十四カ月たったが、高裁第五刑事部・高橋省吾裁判長は今日に至るもまだ事実調べを行っていない。事実調べなしで再審が決定されたことは過去に例がない。要請団は、高橋裁判長が高木棄却決定護持=異議申し立て棄却を狙っていること、しかも九月末に弁護団が足跡に関する新証拠と補充書を提出した後には、いつでも棄却決定に踏み切るおそれがあることを見据え、なんとしても事実調べを開始させようという気迫をもって闘いぬいた。
 要請行動に先立って、午前十時から裁判所近くの弁護士会館で決起集会を開いた。全国連の井橋昌夫中央委員が、石川さんの無実を明らかにする新証拠の説明を行い、高木決定の不当性、差別性を弾劾した。
 井橋さんは、「斎藤鑑定」の内容とその意義について明らかにした。昨年六月に提出された斎藤第一鑑定は、脅迫状の封筒に記載されていた「少時様」のうち、これまでボールペンで書かれたとされていた「少時」が万年筆で書かれていることなど、決定的な新事実を明らかにした。
 この新証拠は、「兄のボールペンを使って脅迫状を作成し、犯行後に被害者から万年筆を奪ってあて名を訂正した」という石川さんの自白がデッチあげであることを、明白に示すものである。
 ところが高木棄却決定は「『少時』と『様』の溶け具合の違いは、指紋検出溶液のかかり具合によるものだ」などという独断と非科学的決めつけで斎藤鑑定を退けたのである。
 今年三月に提出された斎藤第二鑑定は、指紋検出作業は、溶液の中に脅迫状をどっぷり浸して行うものであり、高木決定がいう「かかり具合が違う」などということはあり得ないことを指紋検出の写真で突きつけた。
 指紋検出のやり方などは鑑定人を法廷に呼んで裁判長が直接尋問すればたちどころに分かることだ。高木のデタラメな棄却決定は証人調べ(事実調べ)をやらないことによって、ようやく成り立っているのだ。
 午後からの要請行動で、要請団は、高木決定がおよそ裁判の名に値しないデタラメの固まりであること、「部落民にはまともな裁判も保障しない」という、国家権力の部落差別意思に貫かれた差別裁判そのものであることを弾劾し、直ちに事実調べ−再審を開始することを強く要求した。
 最後に、要請団は、@要請行動参加者を裁判所の建物の外で長時間待たせることを直ちにやめること、A狭山担当部の主任書記官を要請行動の場に出席させること、B事実調べについての高橋裁判長の見解を明らかにすること−−の三点を申し入れて、この日の要請行動を終えた。
 暗黒の差別裁判の壁をぶち破る力は、労働者人民の狭山大衆決起の爆発だ。狭山百万人署名運動と高裁要請行動に決起し、十・三一寺尾判決二十六カ年糾弾の十・二九狭山中央闘争に全国から総結集し、事実調べ−再審をかちとろう。

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週刊『前進』(1975号6面3)

連載 部落解放運動−−その課題と展望 第4回 日帝の危機と差別の洪水
 差別糾弾闘争の復権を
 解放運動への憎悪を煽動

 インターネットで恐るべき差別

 部落解放運動をめぐるこんにちの情勢をひとことで言えば、それは「部落差別の洪水」とでも言うべき現実である。ある種「堤防決壊」的に、差別主義が噴き出しているのである。
 この事実をもっともよく示しているものは、インターネット上で行われている差別扇動である。
 過去には「B&K会議室」と呼ばれるサイトがあり、あまりの悪質さゆえに何らかの規制によって閉鎖されたものと思われるが、現在でも「2ちゃんねる」という有名なサイトを始めとして、インターネット上に多数の「会議室」が存在し、それらのサイト上で、きわめて悪質な差別主義的扇動が行われている。しかも現在では、規制することが事実上不可能化するほどにふくらんでいるのだ。
 そこで行われている差別扇動の手口のひとつは、部落の地名、人名(姓)を教えて、公然と差別を呼びかけることである。露骨に「部落地名総鑑」(注)をつくるとする主張や、そのための情報提供の呼びかけさえ、手をかえ品をかえて何度も登場している。そして、「部落民は罪人の末裔(まつえい)」などのデマゴギーや、優生思想などのあらゆる差別主義イデオロギーが鼓吹され、「差別する権利」なるものが公然と主張されているのである。
 いまひとつの手口は、「自由な討論」という名目で、差別糾弾闘争、同和対策事業などの部落解放運動とその獲得物に対する憎悪と敵視をあおりたてることである。「部落民と糾弾闘争が世羅高校校長を殺した」「同和事業という特権によって自治体の財政が破綻(はたん)し、市民が苦しめられている」などのデマゴギーが流布され、差別糾弾闘争の撲滅、同和対策事業の一掃の大キャンペーンの場となっているのだ。
 しかも、注目すべきことは、その規模の大きさ、影響力の大きさである。もっとも有名な「2ちゃんねる」というサイトだけでも、そのなかに部落差別に関連する掲示板(「会議室」)が三けたの規模で存在し、少なくとも数十万人がこれらに日々アクセスし、あるいは書き込んでいるのだ。まさに、空前の規模での一大差別扇動事件である。

 日帝の体制危機と国家的な犯罪

 これらは、インターネットという媒体が生み出した特殊な出来事などではない。その基底にあるのは、むきだしの差別主義の析出、跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)という事実なのである。実際に、差別事件の数も、一説によると年間に二万件を超える規模で起こっているのだ。差別の扇動と、部落民による自己解放の闘いに対する憎悪、こうしたものが、いまやファシストを先兵として公々然と登場し、労働者階級をたぶらかし、組織しようとしているのだ。
 この背景には、日帝の体制破綻的危機がある。二九年型大恐慌過程への突入と、そのもとでの体制的危機、社会不安の中で、日帝の体内に潜んでいた膿(うみ)ともいえるファシスト的差別主義や排外主義が噴き出しているのである。
 しかし、単純にそれだけではない。日帝国家権力による、きわめて意図的な、むきだしの差別主義的扇動が行われているのだ。それは、体制的危機の中で、資本と国家が生き残るための一大資本攻勢の一環としての、同和対策事業を始めとした戦後的獲得物の一掃の攻撃である。そして、対米対抗的な侵略戦争へと労働者人民を動員していくための、伝統的な部落差別−人民分断支配の確立の攻撃なのである。
 そのために、ファシスト的突出をテコとして、狭山差別裁判−高木再審棄却決定(九九年七・八)を頂点に、差別糾弾闘争の絶滅攻撃が襲いかかっているのだ。この現実に激しく身構え闘わなくてはならない。

 本部派の転向が「止め金」はずす

 だが問題は、たんに日帝が危機に陥り、部落差別攻撃を強めていることにあるのではない。それに対する社会的抵抗の力の崩壊、差別の「止め金」がなくなっているということにこそ核心があるのだ。
 戦後の一定の時期の差別主義の後退は、なにも権力者が民主的になったからではない。同和対策事業にしても、それは権力者による「慈悲」や「恩恵」によって生まれたものではなかった。部落大衆による血みどろの闘争によってかちとった人間的権利とその保障なのだ。
 それは、部落民の団結、プロレタリアート人民との階級的連帯によって守られてきたのである。その核心にあったものは、差別徹底糾弾の思想であった。
 だが、今や、この差別糾弾の思想が崩壊しているのである。そして、これを促進しているものこそ部落解放同盟・本部派の転向なのである。(この詳細な批判は次回にゆずる)
 「差別の洪水」に対する唯一の回答は、差別徹底糾弾闘争の復権である。公然たる差別の扇動とは、実際には無数の差別事件となってあらわれ、部落大衆の幾多の血が流され、命が奪われるという現実を生み出すのである。だが、部落民は差別によって虐げられ、ときの支配者によってもてあそばれるだけの存在ではない。誇り高い人間解放の主人公なのだ。
 差別の洪水という恐るべき現実は、しかしその裏で、三百万部落大衆の怒りの決起、それこそ三百万の丸ごとが、帝国主義による身分的差別支配との闘いに立ち上がってくる時代の始まりを告げ知らせているのである。
 差別糾弾闘争は、部落大衆自身を主人公とした闘いである。だが、労働者階級自身も差別糾弾の主体として立たなくてはならない。全国水平社以来の徹底糾弾闘争を復権すること。差別の洪水の時代を、嵐(あらし)の糾弾闘争の時代に塗り替えること。これこそ、われわれの態度でなければならない。
〔穂高岳志〕

(注)部落地名総鑑
 差別図書「部落地名総鑑」の販売が発覚したのは、一九七五年十一月であった。その後何種類もの「地名総鑑」が摘発され、部落大衆の激しい怒りの的となった。
 「地名総鑑」には全国の部落の地名・所在地・戸数・主な職業などが記載され、一冊五千円から五万円程度で売られていた。購入者の大半は企業であり、購入の動機は、採用にあたって部落出身者を差別し排除するためであった。

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週刊『前進』(1975号6面4)

獄中戦士裏切る白井

 元全学連委員長 鎌田雅志

 指名手配を粉砕した勝利に拍手

 一九七四年一・二四カクマル戦闘で指名手配されていた五同志に続いて、八五年四・一二成田・羽田ロケット弾戦闘でデッチあげ指名手配されていた高田武同志が、時効をかちとって地下から姿を現しました。国家権力・反革命との戦争、非合法・非公然の党建設における偉大な勝利です。
 二十六年、十五年という超長期にわたり、その生活と行動を秘匿しぬいて同志を守りぬく活動と組織のあり方をつくりあげ、闘いぬき、勝利したのです。この長期の困難に耐えぬき、逆にそれをバネにして強靱に闘いぬいて勝利をかちとった当該の同志たちに心から喜びの拍手を送ります。
 七四年一・二四戦闘にも八五年四・一二戦闘にも、強い思い入れがあります。
 中核派に結集することを決意し、横浜国大でカクマルとの戦争に決起していったころ、大きな精神的支えになったのは、投獄されている一・二四戦士の存在であり、また潜行して指名手配攻撃と闘っている戦士たちの存在でした。一・二四戦闘精神で戦う−−同世代の同志たちがすでにこんなに偉大な戦いをやってのけていることに感動し、これから闘いを始める自分も負けてはいられない、くじけてはいけないと大いに鼓舞されたものです。
 四・一二戦闘は、三里塚二期着工実力阻止、国鉄分割・民営化阻止−中曽根打倒の八五年蜂起戦へ、闘う全人民に突撃を呼びかける号砲でした。前年九・二七の自民党本部炎上戦闘に続いて、敵・日帝権力の度肝を抜く革命的武装闘争だった。「九・二七−四・一二の革命軍に続け」を合言葉に、われわれは十・二〇成田空港突入の目標に向かって進撃を開始したのです。
 今日まで十五年に及ぶ獄中闘争を闘ってきましたが、指名手配攻撃と闘う同志たちとわれわれ獄中戦士とは、ともに党と運動を階級闘争の最深部で支えるきょうだいだと思ってきました。全獄中同志が、そう思っています。

 党建設の苦闘からの逃亡が本質

 ところで、このような勝利と感動の対極にあるのが脱落・転向者=白井朗にほかなりません。われわれがはっきりと勝利感をもって確信できる非合法・非公然の党建設の苦闘と前進に背を向けて逃亡し、権力に投降して転向したのが白井です。九三年に党から逃亡・脱落し、九八年に権力に投降した白井は、今では意識的な反革命スパイとなり、革命党(=革共同)破壊攻撃の悪辣(あくらつ)な手先になっています。そしてファシスト・カクマルにまでいいように利用されるような、唾棄(だき)すべき存在になり果てている。
 白井は腐りきっている。
 @政治局会議における自己批判の場から逃亡し脱落したばかりか、自己批判を「偽装転向」などと言って逃亡を開き直っていること。A九八年「失火事件」で権力に投降し、完全な転向を表明して革共同破壊攻撃の手先となったこと。B九九年七月『二十世紀』本出版に際し、通敵行為(権力への組織機密の暴露)を予告してきたこと。C対カクマル戦を否定し敵対するに至ったこと、等々。明らかにされている事実は、どれひとつとっても白井の腐敗と反革命化の進行を物語っています。白井は完全に階級移行したのであり、われわれと相入れるところは何ひとつ残っていません。
 「民主派宣言」とはお笑い草です。レーニン主義とロシア革命のプロレタリア独裁(論)、革命党・ボルシェビキの民主集中制に対して、帝国主義とその反動イデオローグどもはブルジョア民主主義をふりかざしてさんざん非難をくりかえしてきました。「民主派宣言」などは、白井自身がプロレタリア革命の立場、ボルシェビキ的な革命的労働者党の立場を捨て去って、ブルジョア民主主義の側に思想的退却と転向を遂げたことの証拠でなくてなんだろうか。
 白井は、八五−八六年を境につくりだされた党の獄中と獄外(と地下)への分割という厳しい死闘の中で、政治局員としての指導部性を喪失し、空洞化していった。
 日帝・中曽根の「戦後政治の総決算」攻撃に対し、われわれは総力をあげて蜂起戦に立ち上がりました。それは、党の存亡をかけた試練を思い切ってくぐりぬけることをとおして、情勢に対応した組織、蜂起に勝利する党への変革をかちとっていこうとしたものでした。非合法・非公然の本物の革命党への変革が求められているという、あの時のわれわれの切迫した思いはまったく正しいものでした。帝国主義とスターリン主義の戦後世界体制はそれから五、六年のうちに根底的な崩壊を開始したのです。待ったなしの時代の要請だったのです。
 大量の同志を長期にわたって獄中に奪われ、日帝が革共同絶滅宣言を発して攻撃を激化する中で、非合法・非公然の組織と活動を創造的につくりあげるという死闘が、小ブル的なあり方にしがみつく白井を激しく打ちのめしていったのは当然なのです。白井の逃亡・脱落は、革命党を革命党としてつくりあげるための死活的な、厳格な思想闘争の勝利です。党の破壊や分裂を一切許すことなく、裸でたたき出したのです。
 白井の存在を許してはならない。裏切り者、権力のスパイは、その裏切りと悪行に見合った死にざまをさらすのだ。非転向の党を強化し、守りぬいて闘いぬこう。 七月二十四日記
(八五年十・二○三里塚蜂起戦戦士、八五年十一・二九浅草橋戦闘戦士、府中刑務所在監)

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