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2008年08月号党学校通信

党学校機関紙 A4判月1回発行 頒価100円

今月の内容 『レーニン『国家と革命』(上)』

講義概要 P1-5

★討論から- P5-9

受講レポート P9-16

2008年12月号
通信 バックナンバー
党学校通信 p1-5 講義概要

第8期第6課目 レーニン『国家と革命』(上)

前半講義概要 講師 丹沢 望

1 『国家と革命』をどのような立場から学ぶか

 帝国主義が末期的危機の時代に突入し、戦争と民営化攻撃が急激に激化している今日、どのような立場で『国家と革命』を学ぶかという点をまず明らかにしたい。

●レーニンの問題意識

  レーニンは『国家と革命』を、10月革命の直前という、ロシア革命がまさに現実に進行している真っ只中で執筆した。なぜならこの時期、ロシア革命は重大な危機に直面していたからだ。
  2月革命以降、ロシア革命をブルジョア革命と規定し、ブルジョアジーのヘゲモニーを承認してブルジョア臨時政府による帝国主義戦争の継続を容認する社会革命党とメンシェビキが、労兵ソビエトを支配していた。ボルシェビキの一部国内指導部もプロレタリア革命の開始にあたって、国家権力のプロレタリアートによる奪取とプロレタリアート独裁樹立を断固として追求する立場に立ち切れていなかった。
  これに対してレーニンは、4月テーゼを打ち出し、『国家と革命』を執筆して、ロシア革命がブルジョア国家の打倒とプロ独国家の樹立をめざす社会主義革命であることを強烈に押し出すことによってこの危機を突破しようとした。『国家と革命』は、国家論、革命論におけるマルクス主義的原則を全面的に放棄した社会革命党やメンシェビキと闘い、第2インターの日和見主義者たちの敵対を粉砕して、ロシアでプロレタリア革命を貫徹してプロ独を実現するために、マルクス・エンゲルスの国家・革命論を全面的に復権しなければならないというレーニンの激しい危機意識に貫かれたものだった。レーニンのこの実践的問題意識を共有しつつ『国家と革命』を学ばなければならない。

●21世紀革命を実現する実践的立場からの学習

  われわれも今、レーニンと同様の戦争と革命の時代に直面している。しかも、現代はレーニンの時代よりもはるかに革命の展望のある時代です。
  当時のロシアは圧倒的な農業国であり、プロレタリアートは少数派だった。第2インターは崩壊し、日和見主義や社会排外主義が国際階級闘争を制圧していた。
  これにたいして、今日の日本では11月労働者集会の成功によって、日米韓3国の労働者間の国際的連帯の圧倒的強化と新たなインターナショナルの形成の展望が切り開かれている。また、米、西欧の諸帝国主義国においては体制内労働運動の制動を打ち破るランク・アンド・ファイルの労働者階級の巨大な決起が始まり、新潮流の戦闘的労働運動の新たな高揚期が到来している。反戦闘争においても労働組合が重要な役割を果たすようになり、巨大な反戦デモが全世界で爆発している。
  他方、帝国主義は末期的危機の時代を迎え、大恐慌と帝国主義戦争の時代に完全に突入している。また民族解放闘争もイラク、パレスチナ、アフガニスタン、中南米など世界各地で米帝をはじめとする帝国主義の侵略戦争をはねかえす地平を切り開いている。
  まさに21世紀プロレタリア革命の決定的条件が存在している中で、国家と革命に関するマルクス主義の革命的理論を復権し、労働者階級の武器とすることが死活的課題になっている。『国家と革命』の内容を実践的に貫徹する階級的労働運動路線をもって日本革命−世界革命に向かって前進しましょう。

●塩川一派のマルクス主義の歪曲を粉砕し、マルクス主義の復権かけた闘い

  塩川一派の反マルクス主義的な国家・革命論などの批判と彼らを打倒するという実践的闘いを通じて、マルクス主義を復権しプロレタリア革命を貫徹するという立場から『国家と革命』を学習することの決定的意義を確認したい。これは自己のマルクス主義の理解を全面的に検証し直し、階級的労働運動路線を決定的に推進する闘いでもある。塩川一派打倒の闘いはきわめて価値創造的な闘いなのです。
  塩川一派の最大の問題は、労働者自己解放の思想とプロレタリアート独裁の思想を放棄していること。職場生産点での資本との非和解的な闘いの組織化を土台として階級的団結を形成し、労働者細胞を建設する闘いを推進しつつ、帝国主義打倒の階級闘争全体を推進する階級的労働運動を否定する塩川一派は、「革命とは労働者階級の自己解放闘争」であることを認めない。
  彼らの言う革命とは、労働運動・労働組合と切り離された党による革命です。労働組合は「自立した共産主義者」の集団である党の成員を一本釣り的に獲得する場所でしかなく、労働組合それ自身は体制内労働運動に屈服して体制内派の組合指導部と住み分け的に共存する場所でしかない。また労働組合を媒介として広範な労働者人民と結合することなく、党による政治決戦主義的決起によって革命を労働者に代わって行おうとする代行主義です。
  プロ独を実現するためには、「党と階級の徹底した同一性」と「革命のために独立した最高の団結形態の党」という2つの問題の弁証法的な緊張関係の中で、死活をかけて飛躍を実現することを通して「党と階級は一体である」と言い切ることのできる地平を獲得しなければならない。党と階級の一体性を実現することなしに、プロレタリアートの前衛としての党と階級が一体となって広大な階級的基盤をもったプロレタリアート独裁を樹立することは不可能です。だが塩川一派はこのような飛躍を拒否し、体制内労働運動との折り合いをつけた「労働運動」に固執している。階級的労働運動路線の実践的貫徹としてある動労千葉労働運動の否定は、彼らがこの飛躍を拒否したことから不可避となった。
  彼らにとって「党の革命」とは、「現実の階級闘争のなかで強いられてきた様々な限界性やゆがみ(血債主義や糾弾主義など)を克服し、マルクス主義を復権して、革命党たりうるための必死の飛躍をかけた路線」である階級的労働運動路線を実践するための闘いではなく、血債主義や糾弾主義をテコとして階級的労働運動路線の推進を指導する党中央を打倒することです。このような立場に立つ限り、動労千葉の闘いの偉大な地平も、11月労働者集会が切り開いている国際連帯と新たなインターナショナル建設の重大な前進も否定すべきものとなる。われわれは今こそ、このような塩川一派を打倒するとともに、そのための武器として『国家と革命』を復権しよう。

2 『国家と革命』の内容の現代的復権

●第1章 階級社会と国家

  国家は、生産力が一定の発展段階に達した結果、社会が和解できない対立物(支配階級と被支配階級)に分裂したことから発生した。この階級対立が非和解的なものであるため、これらの諸階級が相互の闘争によって自分自身と社会を滅ぼさないようにするために、社会秩序を維持する権力が必要になった。それは日和見主義者が言うように「諸階級を和解させ調停する」ものではなく、被支配階級の反抗を鎮圧し、暴力的に支配して支配階級の利害を守るためのものだった。
  したがってそれは、原始的共同体社会における「住民の自主的に行動する武装組織」を解体し、支配階級の利害を守る公的暴力装置としての「武装した人間の特殊な部隊」に依拠する国家です。このような公的暴力装置は階級闘争と侵略競争が激化するにつれて全社会を、そしてついには国家そのものすら飲み込むほどに肥大化していく。
  国家は様々な形態をとって歴史的に発展していくが、結局は被抑圧階級を搾取し、支配するという点では共通の性格を持つ。したがって、労働者階級はプロレタリア革命によって、階級社会を解体し、プロ独国家を樹立して国家を死滅に導くことによって自分自身を解放するだけでなく、全人民を解放する以外にない。
  この過程は暴力革命として実現される。暴力は労働者階級と資本家階級の非和解的対立を止揚するために不可欠なものであるとともに、ブルジョアジーとの暴力的激突過程そのものが労働者階級の団結=共同性を打ち固め、革命的英雄主義を鼓舞し、支配階級としての自覚を高める重要な契機となる。なぜなら、暴力とは「他者との対立を媒介として表現される共同性」(本多延嘉著作選第2巻『暴力の復権のために』)であり、労働者階級が非和解的な対立者である資本家や国家権力との対立と彼らへの暴力の発動を媒介として自分たちの団結(=共同性)を表現し打ち固める役割を果たすものだからです。労働者階級の団結の強化は、この団結を暴力的に破壊することによって非和解的対立を「緩和して」その支配を貫徹しようとするブルジョアジーの支配を打倒する力を生み出す。青年労働者の主張する「団結の究極の拡大」は、労働者階級がプロ独をめざしブルジョアジーと暴力的に激突する過程で生み出される。まさに「団結の究極の拡大が革命」なのです。

●第2章 国家と革命。1848〜51年の経験

  この章ではレーニンは、マルクス、エンゲルスの国家・革命論の歴史的形成過程を振り返り、それが労働者階級の実践的階級闘争の経験の総括を通じてのみ形成されたことを明らかにしている。それは観念のなかで作られた空論的理論ではなく、プロレタリアートの実践的闘いの発展と密接に関連して形成されたプロレタリアート自己解放の理論として明らかにされる。
  マルクスは1848年〜51年のフランスにおける革命の経験を通じて、プロレタリアート独裁は、ブルジョアジーが自分のために作り出した国家機構をまず粉砕することを前提とすることを明らかにした。これを明らかにすることは、レーニンにとっては同時に、カウツキーらの既成の国家をそのままプロレタリアートが奪取して利用するというマルクス主義の歪曲を粉砕する理論的・歴史的根拠を示すものだった。
  だが、この時点ではマルクスはまだこの粉砕されるべき国家機構を何にかえるかという問題を具体的に解決してはいない。この問題の解決には、パリ・コミューンの経験を必要とした。

●第3章 国家と革命。1871年パリ・コミューンの経験

  マルクスが、マルクス主義者によって指導されたものでもなく、自然発生性的で様々な限界をもっていたにもかかわらず、パリ・コミューンを革命的に総括し、様々な教訓を引き出し、それをきたるべき本格的なプロレタリア革命の指針として練り上げることができたのは、彼がプロレタリアートの自己解放能力に全幅の信頼をおいていたからです。パリの労働者の創造的営為は、ブルジョアジーを打倒し、労働者階級の独裁を樹立して自らを解放するためには何が必要かを考えぬいた彼ら自身の革命的実践活動の中から生み出された。

▼コミューン4原則の決定的意義

  マルクスはこの革命的実践の総括の中で、コミューン4原則をまとめた。
レーニンは、ロシア革命においてソビエト権力をプロ独権力としてどのようにつくり出すかという差し迫る実践的課題への解答を与えるものとしてコミューン4原則を重視した。
第1の原則「常備軍の廃止と武装した人民へのとりかえ」は、労働者人民を抑圧する「特殊な力」としてのブルジョア軍隊の解体とその復活を阻止するための人民の総武装をめざしたものです。ブルジョアジーの暴力装置の解体とプロ独権力の支柱である武装した人民の自主的な組織の建設は、全人民が自らの力でプロレタリアート革命をなしとげるために絶対に不可欠の条件だった。
コミューンはその上で、選挙制、責任制、解任制を導入(第2の原則)し、労働者なみの賃金と特権の廃止を実行(第3の原則)した。さらに、議会制度を廃棄し、コミューンを議会風の機関ではなく、同時に執行し、立法する行動的機関へと転換する(第4の原則)ことを目指した。
これらの諸原則は、ブルジョア的官僚制度やブルジョア的議会制度の復活を永遠に阻止するためのものであるとともに、労働者階級のすべてがひとしくプロ独国家を担う主体になることを目的として打ち出された。それは文字通り労働者国家としてのプロ独国家を建設するための指針となった。
プロレタリアート自身による大規模生産の組織化を基礎として、このような4原則が貫徹されれば、つまり、経済の労働者による支配と運営が政治的支配と統一的に推進されれば、あらゆる官僚制度は徐々に死滅し、ついには国家そのものの死滅に至る。 
パリ・コミューンに見られた、労働者階級のプロレタリアート独裁によってあらゆる抑圧から自らを解放しようとする労働者自己解放の闘いの偉大な経験は、今日、全世界の労働者階級に巨大な展望を示し、鼓舞激励するものとなっている。
帝国主義の末期的危機の今日、われわれはパリ・コミューンの教訓を学び、その限界を乗り越える闘いで労働者自己解放の闘いを爆発させ、プロ独を実現しよう。現在的にプロ独を目指す階級的労働運動路線を断固として推進しよう。

(前半講義了)

党学校通信 p5-9

討論から

●I

 『国家と革命』には、私的にも非常に思い入れがある。
  一つは、今日的な現実という中で、『国家と革命』そのものとどう向き合っていくか。国家と革命の領域というのは、今日の提起のとおり、現在的というか喫緊の課題だと思う。その上で、『国家と革命』の核心部分は、プロレタリアートの独裁という問題。プロレタリアートの独裁と言った場合に、当然そこには国家そのものをプロレタリアートが独裁するわけで、そこのところを抜きにしてプロレタリアートの独裁というのはない。
  『国家と革命』は、17年の10月革命の真っ只中で書かれているから、まさにプロレタリアートの独裁を、あえて言えば技術的にも、どう貫徹していくのかという観点がそこにある。その意味では非常に生々しいし、得るものは多い。もう一方で言えば、カウツキーですよね。積極的には暴力革命論の否定みたいな形ですけども、本質はプロレタリアート独裁の否定だし、あらゆる日和見主義と、レーニン言うところの修正主義とかは、プロレタリアートの独裁をめぐって、そこを本質にして分岐している。したがって逆に言うと、レーニンの『国家と革命』が最も激しく提起をした核心も、プロレタリアートの独裁だったろうと。そこをはっきりさせるためにも、あえて言えば技術論的なことも含めて出したということだし、それが可能であるということを出したということだと思う。
  だから、塩川一派とのやり合いですね。まさに7月テーゼをめぐって、問われている中身はプロレタリアートの独裁そのものであって、その否定そのものが、結局マルクス主義の撲滅運動そのものになっていく。今回の提起で言えば、『国家と革命』の否定であり、プロレタリアート独裁の否定。そもそも、できあいの国家を打倒対象ともしない。血債主義・糾弾主義に至っては、打倒対象とさえ措定されていない。塩川一派は、「革命」を口にしながら、できあいの国家そのものについて絶望しか組織しないし、まさに血債主義・糾弾主義とくっついて、そこで革命の否定、プロ独の否定をやるということだろうと。むしろ、そういう形で問題点をはっきりさせると、どういう国家機関、例えば、軍隊を武装した人民に置き換える問題とかいうのも、結局プロ独の過程そのものですよね。だから、いわゆる暴力論とかが、もうひとつ基底にあると思うが、もっとその本質が鮮明になるのではないか、ちょっとうまく言い切れていないんですけど。
  もう一つは、党学校をどうやっていくのかということ。原典を原典としてやっていくことは確かに必要だとは思う。その上で、やっぱり現在的な課題、問題と無関係には存在しない。前回、柴田同志は相当実践的に出しました。その方が党学校のあり方としてはいいのかなと思う。それが、立ち返って1点目の問題ですけど、プロ独の問題に焦点を当てて、そこから明かしていく。そういう方法、接近の仕方が、今日的に『国家と革命』を深めていくという点では、妥当じゃないかと感じた。

●N

 今実際に、労働運動でも学生運動でも、国家権力が弾圧してくる。実際に労働運動を実践していくときでも、学生運動を闘っていくときでも、国家論というのはストレートに問題になっている。今、労働者の闘い、団結を叩き潰すという役割を、国家権力が直接表に立ってやってきているということがあるわけです。一歩でも階級闘争を前に進ませようとした途端に、国家権力という問題に直面するというのが、現実の階級闘争だと思う。だから、そこを踏まえて、その国家権力を打倒対象として据えきっていくという切り込み方が必要だなと。
  だから、塩川一派の批判にしても、そこのところを据えてやるというか。マルクス主義の理解を深める理論的な課題というところも大事な領域だと思う。だけど、実際の運動に対する弾圧にしても、完黙問題なんかをめぐってそこにあると思うし。塩川一派批判にしても、最末期帝国主義というところの問題、そこにあるんじゃないかと。プロ独を軸にしていくという問題も、そこから実践的にはつながっていくし、参加する、聞く方も力になるんじゃないかなと思います。

●E

 国家権力との非和解性を徹底的にはっきりさせるのは決定的なことだと思う。実践的には、国家権力との非和解性をはっきりさせればさせるほど、体制内との闘いになってくる。非和解的に闘って最後に襲いかかってくるのが体制内執行部なんです。革命情勢であればあるほど、より激しく体制内執行部から処分なり、弾圧なり。今日の内容で言ったら、国家死滅とか、暴力革命、プロレタリア独裁というところで、体制内が、塩川一派なんかがつねに忘れ去っているというか、否定しているところかなと思う。
  要は、労働組合の革命論的意義と一体で、国家死滅論とかをやらないと、塩川一派だって多少扇動的なことを言っていたりするんですけど、何がないかと言ったら、プロレタリア独裁であり、動労千葉のような労働組合というものの否定なわけじゃないですか。その辺も含めて、塩川一派との闘いというのは、はっきりさせていった方がいいかなと、個人的には思いました。
  あと、革命の問題ということで、国家を打倒し、プロレタリア権力を樹立していくということで、今の青年労働者・学生がおかれている現状がすさまじい。体制内によって絶望を組織されている中で、自分の大学で、体制内執行部が団体解散というのをやろうとしていて、それに対して何が必要かと言ったら、扇動だというふうに今言い切れる。サークル団体で、本部が解散提起を行ったことに対して、それと闘って全部がひっくり返って、解散反対で断固残り続けるというカネも権力も全部奪われるけど、それでも残り続けるんだと決定した。というので、1回の扇動で一気に変わるような情勢だということをはっきりさせたい。
  あとは、国家と革命の問題をはっきりさせ、職場とか学園で闘う。その結論は、3・16に5000人集める、もちろん11月集会に向かってというのも含めて、実践的に出した方がいいと思いました。

●G

 階級的労働運動路線の中でどう読んでいくのか、『国家と革命』を、というのがテーマとしてあって、僕も、その立場から読むとどうなるのかなと。序章で言っている、日和見主義がどこから発生するのか、国家にたいする日和見主義なんだということで、「国家についての日和見主義的偏見と闘うことなしに不可能だ」と。できあいの国家機構をそのままにして革命に転じるわけじゃないということをはっきりさせたことが重要。マルクスとかエンゲルスの言葉をもって、カウツキーなんか転向していく。それに対して、レーニンも、マルクス、エンゲルスのそのままの言葉を持ってきて、そしてパリ・コミューンの実践をもって、どうだ、というふうにカウツキーとのやり合いに勝っていく。そういうレーニンがロシア革命を2重的にやりながらやっているのかなと、『国家と革命』を読んでいてそう思います。
  2点目は、塩川一派が去年の3・18にたいして、革命というのは、国家と革命、暴力だ、と言ってて、マル青労同の大会なんかに『国家と革命』を引用して、ここには暴力革命がないんですよ、みたいなことを出してきたのが、奴らの言っている中身なんですね。暴力ということの持っている本質みたいなこととかまったくない。そこのプロ独ということの内容の問題、団結の内容の問題ということなのかなと。そこを、次に深められたらいいのかなと、塩川一派とのやり合いという意味でも、暴力の本質的なものというか。
  3つ目は、今の情勢の中で、国家論がどういう位置をもっているのかと言ったら、『共産主義者』155号島崎論文で出されて、いわゆる新自由主義ということが社会的にもバーバー言われていて、僕もいろんな思いで使っているんですけど、世の中的にはいろんな人が新自由主義という言葉を使っていて、内容が全然違うんじゃないですかね、体制内左翼が新自由主義と言うのと。いわゆる一般的な新自由主義をいろいろ見ても、国家と新自由主義ということにたいして、その言っている中身というのはわれわれと違う、帝国主義じゃないというか。それは、国家というところにおいて、非常にはっきりされてるなと思って、島崎論文は「新自由主義はデマゴギーだ」と書いてるんですけど、市民主義的な新自由主義批判はやっぱり国家にたいする日和見主義なんじゃないかと、僕なんか思ったりする。

●L

 新自由主義の時代、これをこの1年間の闘いに照らし出して考えると、僕は、一言で言えば、プロレタリア革命の前夜である、世界革命の前夜である、と思う。最末期帝国主義=プロレタリア世界革命の前夜だと。
  この1年間の中で、参院選の自民党の敗北と、そして9・29沖縄の闘いがあって、プロレタリアートが反転攻勢を開始した。新自由主義の攻撃に対して、革命を対置するという闘いを開始しているということです。その先頭に立っているのが、動労千葉であり、青年労働者であると言える。
  新自由主義というのは、国家との関係で言えばどうか。プロレタリアートの内乱に構えきっているというのが、新自由主義における国家の姿だと思うんです。国家の凶暴性というのが、これから私たちの前で、私たちに向かって、どんどん現れてくるけども、それは、革命の現実性におびえている姿なんだと僕は思います。敵の弾圧は、団結の強化で闘っていけるし、ここで勝利できると思います。

●V

 帝国主義が完全に行き詰まっているということは、この『国家と革命』で言われているようなプロ独ということを、本当に現実の課題として問われている。そこでの、どう闘いとるかという点でいつも感じることは、実際に帝国主義の側のやってくるいろんなイデオロギー的な攻撃もそうですけども、ありとあらゆるところで分断を持ち込むというね。労働者自身の分断もそうですし、労働者と農民の分断もそうですし、いろんな分断が持ち込まれてくる。そういう形で完全に行き詰まった事態を何としても乗り切るという形で、戦争に向けて乗り切っていくという国家のやり方に対して、われわれは絶対にプロ独をやりきるという立場から、本当に団結をつくり出していくということが、一番のカギだろうと思う。そういった点で、この『国家と革命』の学習を、プロ独樹立ということをきちんと軸に押さえて学んでいくということが重要だなと。今回その辺がすごく提起されたと感じています。

党学校通信 p9-16  受講レポート

受講レポートから ★『国家と革命』(上)のレポートです。

【Q】

1。『国家と革命』の核心はプロレタリア独裁論であり、その実践(17年ロシア革命そのもの)そのものであること。ここに踏まえた上で、主体化していこうということ。もっと言えば、我々にとって切実でなければならない課題そのもの。
2。すべての日和見主義、レーニンの時代のカウツキー…、我々の時代の塩川一派…は、「プロ独の否定」にその核心があること。(同時に「国家」への屈服)
  1と2の問題意識から『国家と革命』を学んでいくこと、実践的に塩川一派批判の深化が課題である。−現代革命、いまの課題そのもの−塩川一派批判→プロ独論深化という関係性がある。
3。「国家」が何物かというのは、たたかいに立ち上がった時にはっきりするということ。例えば、動労千葉のたたかいの前進に対する反動や弾圧、あるいは5・27臨大闘争弾圧のことを見ればはっきりしてくる。
  塩川一派が「完黙」問題で屈服した内容を暴露していることは、「国家」に対する美化、プロ独の否定なんだということをはっきりさせるべき。
  「弾圧」の問題は「国家」の問題そのものである。国家権力打倒→廃絶の立場は、労働者自己解放の中味そのものではないのか。つまり、プロ独問題ということだと思う。
○本学習会の最後の結論は、「3・16へ」ということを出していくべきという意見に賛成。
○「新自由主義」と国家の問題については、『共産主義者』155号島崎論文で出されていると思うが、この問題は、相当重要だと思う。勉強したい課題です。(動労千葉労働運動の意義=プロ独、世界革命の問題etc.)
○パリ・コミューンがプロ独の現実的内容だということの内容を、もっとヴィヴィッドに知りたいと思います。たとえば今、「東京コミューン」とかを動労千葉派がやったとき、どうするのか、というような問題意識で実感していくことが大事なのでは。つまり、「切実さ」として、革命の現実性として、ということからの接近。

【G】

 討論が充実しました。
  第1に、塩川一派批判を全体として貫くのは難しいのかなあと思いました。前回『帝国主義論』では、秋月論文(『共産主義者』152、153号所収)での前進もありましたので、スッキリした感があったのですが。暴力と団結の問題、プロ独の問題を、今日的実践的に踏まえ、学習会として成功させていきたい。
  第2に、新自由主義と国家の問題について。一般的「左翼」が使っている「新自由主義」のゴマカシは、国家に対する日和見主義だということ。国家は階級対立を不鮮明化させ、「競争」というイデオロギーで、ブルジョアジーの私的所有=民営化攻撃を隠ぺいする最後の支配階級の道具なのだということ。警察や軍隊の肥大化は、それだけ帝国主義が行き詰まっていることであり、革命の前夜であることがわかる。国家という形で、資本の論理を貫徹する。5・27弾圧や法大弾圧などは、そう思いました。
  「何故、国独資政策は破綻したのか?」ということは、74−75年恐慌で米帝が行き詰まったからという視点、とらえ方が重要ですが、そもそもロシア革命で終わった体制なのだということ。主体的問題としてとらえていくことは、新自由主義攻撃が、階級戦争であることをはっきりさせていくために重要だと思います。

【E】

 国家と革命の問題をあいまいさなくはっきりさせることは、塩川一派や体制内日和見主義と闘う上で極めて重要であることがはっきりした。
  つまりは、プロレタリア独裁である。議論の中でもはっきりさせられたことだが、新自由主義、最末期帝国主義下において、いよいよプロレタリアートが全権力を握る時が来たということだ。
  塩川一派は「革命情勢ではない」などと言うが、冗談じゃない。今こそプロ独の実現の時だ。この情勢から脱落・逃亡した塩川一派や最末期帝国主義の最後の先兵と化した体制内執行部と断固たたかい、3・16に首都5000を実現することを実践的結論としたい。
  自分の大学でも、すでに体制内をぶっ飛ばした決起が始まっている。勝負のカギは我々の煽動だ。動労千葉のような闘いをあらゆる職場・学園でまき起こし、11月は1万人結集を何としても実現しよう。

【N】

 今日的に我々が『国家と革命』をどう学んでいくのか? はじめ階級的労働運動路線を実践的にいかに突っ込んでいくのかという問題意識と、どう結びつくかピンとこない面があった。今回の学習を通じて、革命の問題の核心点にプロ独=国家の問題があるということがはっきり確認できた。
  「一般にブルジョアジー、またとりわけ帝国主義ブルジョアジーの影響下から、勤労大衆を解き放つための闘いは、『国家』についての日和見主義的偏見と闘うことなしには不可能である」
  現実の階級闘争は、世界の帝国主義国下で民営化=労組破壊の攻撃との死闘戦になり、それは体制内労働運動の弾圧・攻撃と、国家権力の暴力的な弾圧・攻撃と一体のものとして襲いかかってきている。国家論の問題は、この国家権力の問題、最末期帝国主義の体制的危機の問題として、あらゆる攻防の局面で問題になっていると思います。
  「労働運動の力で革命を」「団結の拡大で革命を」。この闘いの中に、『国家と革命』の精神が脈々と息づいていることが重要だと思います。これをさらに団結の武器として、理論的・路線的にうち固めていくうえで、重要な提起でした。
  マルクスもレーニンも、まさにいかに革命を実現していくのかと、実践的に現実の階級闘争に肉迫していく中で、国家論を形成しました。塩川一派と闘いながら、階級的労働運動路線を実践する我々が、『国家と革命』を今日的に再摂取していく作業は決定的だと再認識しました。
  「イギリスの例外規定」の問題は、もう少し踏み込んで結論が得られれば、と思います。

【U】

 「国家とは何か」というテーマは、労働者と論議する時に、必要不可欠なテーマです。「帝国主義」の破綻・危機は、現実の世界でかなりわかりやすさをもっている。「国家」は、イデオロギーに種々色取られていて、これを突き破っていくのは、国家と革命の基本的な骨格をしっかりとつかんでいないと、展開できない。
  『家族・私有財産・国家の起源』にもとづいた論理展開は、ものすごく重要ということを今回も感じました。
  「新自由主義」の使い方が、市民運動から体制的御用学者などで使われている点について、共通していることは、「資本主義の悪い政策」「政策を変えろ」ということではないか。我々の「帝国主義の破綻・危機・革命情勢論」でしっかりと前者を批判しつくすこと。体制内運動の論点が前者。体制内を批判し、粉砕する上で重要なテーマと思います。
  その上で、今回の論議で、「新自由主義と国家」ということで討論になったことは、多くの学ぶものがありました。「新自由主義」の中で国家は凶暴化し、ブルジョアジーとその国家を守るためには、徹底して攻撃をかけてくる、労働組合の破壊(=民営化)、労働者の分断です。だからこそ、「革命情勢」なんだ! ということ。
  塩川一派の核心的なことは、労働者の革命性、階級性に信をおかないから、これを革命情勢ととらえられないこと。今回感じたことは、「国家と革命」を「国家と革命」として学ぶことは、塩川一派の徹底批判でもあるということです。これは、前回の「帝国主義論」においても、しかりです。

【Z】

(1)あらためて『帝国主義論』と『国家と革命』は、レーニンにとって飛躍点を形成していることが、よくわかる提起であったと思います。
  1912年プラハ協議会路線(=階級的労働運動路線)をやって、ロシア革命への過程に踏み込んできていたレーニンにとって、実際の実践的準備=蜂起・プロ独に今ひとつ飛躍するために、やはり『帝国主義論』(革命的時代認識)と『国家と革命』は、絶対不可欠のプロセスだったということです。
  ▲その場合の核心問題は、カウツキー主義に代表される日和見主義=体制内運動との、全面的戦争ということです。
  革命とプロ独を否定する日和見主義の全重圧をはね返し、パリ・コミューンの直接の継承を歴史的に決断していくためには、マルクス・エンゲルスの全文献の丹念な調査の作業が絶対に必要だったということです。
(2)ここに、今日の塩川一派との闘いの歴史的意味が、完全に浮きぼりにされています。革命−プロ独への実践的準備に対する逃亡と敵対が、真に彼等の本質です。
  マルクス主義・レーニン主義の真の継承と発展に対する(血債主義・糾弾主義をもってする)後退の要求ということです。

【V】

 前回の『帝国主義論』の学習もそうだったが、どのような立場から学ぶのかが非常に重要で、とらえ方が全然違うものだということを強く感じる。
  革命前夜という今の情勢の中で、革命に向かっての実践を本気でやるのかどうか。『国家と革命』で言えば、プロ独樹立の立場に立ちきるのかどうか、ということが核心だと思う。今回の塩川一派に対する批判に引き寄せた提起は、問題意識をより鮮明にさせてくれるものだった。
  翻って、1980年代に初めて学習した時は、単に理論、イデオロギーを学ぶという立場でしかなく、およそ実践という問題意識はなかった。しかし、今や革命前夜情勢だからこそ発生する、様々な日和見主義や反動的イデオロギーと対決していくためには、そのイデオロギーがどう間違っているのか徹底的に明らかにし、実践的にこれと闘っていかなければならない。それが、マルクス主義の理論を今日的に研ぎすまし、この力で、様々な分断をうち破って、真に階級的な団結がつくり出せると思う。

【O】

1.レーニンの最重要文献である『帝国主義論』と『国家と革命』の学習会で、『帝国主義論』の学習会に参加できず、今回『国家と革命』の学習会に参加でき、非常にうれしく思っています。日常活動の中で解決できない事、モンモンとしたものが、マルクス、レーニンの文献を実践として学習し、集団で議論することで、「スコン」と落ちることがあります。やっぱり古典の学習は何才になっても、何度読んでも必要だと思います。マルクス、レーニンの文献は、現代(いつの時代でも)と結びついており、また実践の書でもあるからだと思います。
2.レーニンの『国家と革命』は、マルクスを継承し、レーニンの国家論、革命論、プロレタリアートの独裁論を展開したものだと思いますが、とくに今回の学習会で感じた点は2点あります。
  @第2章の
  「階級闘争を承認するだけでは、まだマルクス主義ではない。……階級闘争の承認をプロレタリアートの独裁の承認に拡張する人だけがマルクス主義者である」
   この点の重要性。
  Aコミューン4原則(革共同の整理)
   この点は、決定的に重要だと思います。
  パリの労働者、民衆が40万人、歴史上初めてブルジョアジーに勝利し、コミューンをうちたてた。しかし、反革命軍隊に数万の労働者、民衆が処刑された歴史。
  この血塗られた闘いから、マルクス、レーニンは、革命は絶対実現できると確信し、レーニンはプロレタリアートの独裁論を形成し、同時にロシア革命を成功させた。
  現在における革命の現実性。このパリ・コミューンからロシア革命に至る過程にあると思います。
3.塩川一派の事が議論になった。
  僕は、塩川一派というのは中央打倒から、そのためにあらゆるものを利用し、革共同破壊のための策動をしている反革命であって、革命理論というのではまったくないと思う。
  権力への屈服にたいする全同志の批判に対して、完全に居直り、革共同破壊にまで転落した一派であり、打倒ある以外ない一派であると思う。そのためにも、彼らを打倒する革命理論も必要です。
  そのためにも、今日の学習や討論はよかったと思います。次回が楽しみです。

【J】

 レーニンが『国家と革命』を書くに当たって、エンゲルスの『家族・私有財産および国家の起源』から書き始めているのには意味があります。
  レーニンは『国家と革命』を1917年ロシア革命の最中に書いた。プロレタリア独裁国家が焦眉の課題だった。と同時に『国家と革命』は、ツァー国を暴力革命で打倒するために、日和見主義潮流とたたかうためであった。
  国家の起源は、原始的な共同体社会が階級分裂したことによっている。初期の共同体社会は、氏族制社会を単位としていた。氏族・部族の長老、祭祀等が、共同体社会に行動的機関をもって社会を運営・営んでいた。民主的であった。
  生産力の発展の中で、剰余生産物が生み出され、所有階級が発生し、共同体社会は階級社会にと分裂する。支配階級の統治機関が国家である。この国家は、支配階級の特殊の武装力をもっている。
  階級社会は、剰余労働の搾取のあり方から、奴隷制社会−封建制社会−資本制社会にと発展してきた。資本主義社会は、資本家が生産手段を所有して、労働力を売る以外に生きられない労働者を搾取している社会である。
  労働者階級が、暴力革命で資本主義を打倒して、職場・生産点で生産手段を自ら管理・運営するとき、共産主義社会が建設される。労働者階級は、自らの民主主義をもとに、労働者自身の共同体意識(総意・事務・人間的営み)を作り出し、プロ独国家の統治機能をなくしてゆくのである。労働者階級は、階級としての自分自身を廃止するたたかいで、プロ独国家の成立根拠をなくしていきます。労働者個々人の共同体意識の成熟は、「国家の死滅」=「民主主義の死滅」を可能にしていくのである。
  講師の提起で、“こういう社会が歴史的に存在していたということは、新たな共産主義社会形成の展望を物質的根拠をもって示す”に感銘を受けました。パリ・コミューンは、歴史的にプロ独国家のあり方を指し示しました。

【A】

 『国家と革命』前半の今回の講義は、当面する現在的課題に切り込もうとする、とても生き生きとした活きの良い提起であったと感じました。
  ことに、「はじめに」の部分で、レーニンの問題意識を今日的に継承する立場を鮮明にし、マルクス主義国家論・革命論・レーニン『国家と革命』の復権が、戦争と革命の時代に生きる私達にとっても死活的な課題であるという提起は、決定的に重要です。この立場から、塩川一派との闘いにとっての『国家と革命』の重要性の指摘も、同時に決定的に重要です。
  これらの課題の最焦点に、プロレタリア革命そしてプロレタリア独裁の問題があるという指摘は、正鵠を得ていると考えます。討論においてもかなり深められているように感じ、感銘を受けました。
  後半の講義と討論をおおいに期待しています。

【I】

・討論で出した点を再度、記しておきたいと思います。
  一つは、確かに後半部分の「国家と革命における労働組合の役割」の問題を抜かしては語れないものもあるのですが、その上で、この『国家と革命』が、カウツキー(日和見主義)との論争(党派闘争)の書であった、ということから言って、今日的、より実践的には“プロ独”の問題として(プロレタリアートによる独裁国家の問題)として焦点をあてていくと、より実践的な提起になったように思えること。
  もう一つは、いわゆる「原典」にこだわりつつも、「党学校」としては、より実践的方向性を強く持って、内容的にも今日的な焦点を鮮明にさせつつ展開していく、というあり方が正しいように思える、という点です。
・(もう一つ)直接『国家と革命』とは多少離れますが、前回(と前々回)の『帝国主義論』をも受けて、さらに今回のレジュメにある塩川一派批判をも受けて感じたこととして…
  後発帝国主義としての日帝の支配階級たる日帝ブルジョアジーの危機性(脆弱性)について。日本の資本主義が、帝国主義の時代に資本主義化せざるをえなかったことに規定されて、「賃労働と資本」の関係に一切が規定されている中で、「非資本主義的要素(部落差別を含む)」を残存させてきたことは、ブルジョアジーの、むしろ危機性・脆弱性の現れとして押さえるということではないか、と感じました。国家権力を前面にたてた非常に暴力的な支配のあり方も、まさにブルジョアジーの危機性、脆弱性のゆえであることについて、あらためて確信を持った、ということです。

【L】

 新自由主義と国家の関係についての議論の中で、ブルジョアジーは完全に破産し、それを開き直って、ブルジョア的私的所有で何が悪いと、一方ではごう然と国家を前面に押し立て、団結破壊の攻撃に出ているのですが、他方では、国家の関与を隠ぺいし、競争原理のように語ると言われました。ここで思ったことは、今日では、ブルジョアジーは支配階級として極めて脆弱な姿をさらけだしているということです。
  これから階級的労働運動路線を職場で実践していく上で、大事なことだと思います。新自由主義においては、国家=支配階級の暴力装置ということが、誰の目にも明らかになっていく。労働者は、人間として生きるためには、仲間とともに団結して、革命に向かっていく以外にない。国独資政策の時代には、眠り込まされていたプロレタリアートの力が、急速に目覚めていく。国家権力の弾圧と一体化する資本、当局、そして体制内労働運動指導部に対して、自分たちの階級性に依拠して闘うことを学んでいく。ブルジョア国家の打倒、プロレタリア独裁の樹立に向かう意欲を、「オレたちに権力をよこせ!」と全社会のどこでも示す。プロレタリアートの課題に、自分も一体的に向かっていくつもりで、今後も「国家と革命」を取り組んでいきたい。

【S】

 思い起こせば、私が生まれて初めて読んだマルクス主義の古典が、この『国家と革命』です。当時は学生でしたが、「スゲー、スゲー」と興奮しながら読んだものでした。
  今回久しぶりに学習することになりましたが、一番感じたのは、今「願ってもないチャンス」を我々が手にしている、ということです。
  レーニンの時代はどうだったか? 当時のロシアは封建制度の残滓が色濃く、プロレタリア階級は未成熟、おまけに頼みの第2インターが戦争賛成にまわり、ボルシェビキ党も古参の幹部の右翼的雰囲気が党内を支配し、まるで塩川一派に牛耳られたような状態、こんな四面楚歌の状態を不屈の革命精神でぶち破り、世界初のプロレタリア革命を成し遂げた。
  一方、今の我々はどうか?
  帝国主義は末期も末期、出口が見つからず、サブプライムローン問題に表れたように「死の苦悶」にのたうち回っている。一方主体の側も、一旦はかなり危ない所まで行きそうになったが路線的腐敗を暴き出し、革命党として息を吹き返した。青年労働者の決起にも支えられ、本来の革命運動をまっしぐら、3国連帯で現代のインターナショナル、世界革命の展望を切り開いている。
  こんな好条件に恵まれてモタモタしていたら罰が当たる。あらためて『国家と革命』を闘いの武器として活用したい、と思った。

【X】

 これまで読んだときより、カウツキーやベルンシュタインらSPD批判に全力投入しているレーニンの強固な決意を読み取ることができた。『帝国主義論』も『国家と革命』も最後はカウツキーらの批判についやされている。これまでの党学校(とくに『ゴータ綱領批判』のとき)におけるSPDやドイツ自由労組についての紹介や討論が、そういう理解を深めさせた。
  4月テーゼによって、全ての権力をソビエトヘというスローガンが、ロシア・プロレタリアートとボルシェビキとの行動綱領となったとはいえ、依然として臨時政府とソビエトとの2重権力状態はつづいていた。このとき一方でドイツ社会民主党SPDは、議会主義的な「躍進」のなかで第1党にもなる「先行的」状況があった。改良主義・社会排外主義に転落しながらといえども。巨大な山のような反革命の存在。
  このときレーニンがやったのが、全面的な徹底したマルクス主義の復権であった。それが帝国主義論につぐこの『国家と革命』だとおもう。だから、ここでレーニンは、国家論のみならず、プロレタリア革命とはなにか、めざす共産主義とはなにか、およそマルクス主義の全部を展開した。この革命に、われわれは何をかけているのか、なんのために闘っているのか、その思いのたけを論述しているのだ。ここがすごい。
  国家は階級支配の道具だ。目的は階級の廃絶であり、無階級社会だ、だから革命は、議会主義的ブルジョア国家の擁護などではなくその粉砕であり、(さしあたって)プロレタリア独裁にとってかわられなければならないと訴える。ソビエトこそパリ・コミューンだ、全ての権力をソビエトヘ、プロ独へ、レーニンの、そこ深い渾身の扇動は、感性を吸引し、奮い立つ勇気をうみださずにはいない。

【P】

 世界大恐慌へと突入し、今日、世界的にプロレタリア革命が課題となっている。その時代に応えるために、革命の性格とプロレタリアートの任務を現代的に明確にし、階級を武装していくことが必要であると思います。
  「労働運動の力で革命を」「団結の究極の拡大が革命」と、青年労働者が闘いを開始していることに対し、塩川一派が「空論だ」「暴力革命論がない」等々と悪罵を投げかけているが、彼らの方こそプロレタリアートの階級的闘いを基盤にしない空論、暴力革命論のもてあそびでしかない。階級的労働運動路線と職場闘争の実践こそ暴力革命の路線そのものだということです。即ち、職場闘争の実践によってこそ、日々賃労働と資本の非和解性が明白になっていき、かつ、その資本が買収した政府であるブルジョア国家権力を打倒することによってしか自分たちの解放はありえないことを、プロレタリアートは自覚していくということです。故に、今日的に言えば、職場闘争をトコトン実践することが核心であるということ。従って、冒頭に書いたレーニン国家論・革命論で武装を勝ちとっていくということも、「欠落しているものを提示していく」という意味ではなく、闘いの中でプロレタリアートがつかんできたものを、より自覚的・意識的・理論的なものにしていくということだろうと理解しています。
  4大産別決戦こそが、今日的にプロレタリアートの武装蜂起−プロ独−共産主義革命を準備していくものだということです。帝国主義段階に入って、ブルジョアジーは支配機構の中に大量のプロレタリアートを組み込まざるをえなくなった。ここに階級的闘いが残っていることは、ブルジョアジーにとって喉元に刃を突き付けられているに等しい。故に、敵は自治労を始めとした4大産別に攻撃を集中してきているということです。
  4大産別決戦論こそ、レーニンの暴力革命−プロ独論を今日的に継承し、実践化した路線と思います。4大産別の労働者を革命の側に獲得するのか、ブルジョアジーの側にとられる=産業報国会的に動員されてしまうのか、ここに勝敗がかかっているということです。ここの攻防に全力を集中し、ここでこそレーニンの国家論・革命論を復権し、闘うことだと思います。

【R】

 『国家と革命』というと、今までは「暴力革命の必要性、必然性」を説き明かす書として見てきたが、昨今の最末期帝国主義の下での「労働運動で革命を!」を掲げる階級的労働運動路線の推進論としてとらえ直すと、やはり新しいコミューンをどう準備し、つくり出すかという極めて積極的、実践的で、対ブルジョアジーへの徹底したイデ闘、党派闘争としてあることを確認したい。
  国家とは「外から押しつけられるものではなく、内部から発生する」というのは重要である。労働者階級こそが、「国家」として表現される資本の独裁による階級対立を粉砕し、さらに階級をも止揚・廃絶することができる任務を持っているからこそ、言い当てることができるのだと思う。無政府主義と異なる階級的団結を軸にしたマルクス主義の真髄だと思う。それは、パリ・コミューンに実例を取ったコミューン4原則を実現し、プロ独を推進しながら共産主義を闘いとる歴史を切り開くことが、やはり具体的には労働組合(と党)という団結形態をとりながら、ブルジョア独裁と戦いぬいていく過程だと思う。まさに階級的労働運動がプロ独を切り開くそのものの路線であることを、鮮明にさせていると思う。今日の職場闘争の推進も、こうしたプロ独をたぐり寄せるための「労働者の誇りと団結」をとり戻す行為だということが、よくわかる。
  また、国際連帯をうち固め、農民、被抑圧諸国人民と連帯し、被差別人民等をプロ独に糾合させるための闘いも、軸は労働運動の爆発にかかっているし、青年獲得と指導部建設が絶対的だ。“戦線的利害”は、すでに国独資の解体と新自由主義的蹂躙の開始によって、プロレタリアート対ブルジョアジーの戦争を軸に変転しているのであり、プロレタリア階級としての強固な自覚と階級移行の闘いのもとで、プロ独への糾合として問題をたてないと解決されていかないと思った。