西野善久同志を追悼する 職場の仲間に愛された君の遺志継ぎ勝利する 革共同京都府委員会

週刊『前進』06頁(2648号06面03)(2014/09/15)


西野善久同志を追悼する
 職場の仲間に愛された君の遺志継ぎ勝利する
 革共同京都府委員会


 去る6月14日夜、虚血性心疾患で西野善久同志が亡くなった。西野同志の突然の逝去に対して、われわれは驚くばかりであった。42歳というあまりにも早い死に、正直言って戸惑いと無念を禁じ得なかった。
 時代は西野同志が待望していた革命と戦争の激動の情勢に入った。プロレタリア世界革命に向けて革共同が労働者階級とともに歩み始めたまさにこの時に、西野同志の死去は本当に残念だが、われわれはいつまでも立ち止まってはいられない。それは西野同志の遺志でもある。
 国鉄闘争を基軸に階級的労働運動で切り開いた2014年決戦の勇躍が2010年代中期階級決戦の勝利をこじ開けつつある。必ず西野同志の遺志を引き継ぎ、プロレタリア革命に勝利することを革共同京都府委員会は同志の霊前に決意する。

全学連を牽引し

 西野同志は1972年に生まれ、91年4月に大阪市立大学に入学した。時あたかも90年天皇決戦の渦中であり、すぐに西野同志は市大学生運動に参加して、その後マルクス主義学生同盟に加盟した。前年の教養部バリケードストライキ闘争以来、国家権力と当局はわが拠点である志全寮自治会の壊滅に全力を挙げ、「5・20告」をもって志全寮廃寮化攻撃を推し進めてきた。
 また、クラス討論への弾圧として「威力業務妨害」をデッチあげ、学生5人を逮捕・起訴した。西野同志はその攻撃を粉砕する闘いを開始した。さらに全学連書記次長として全学連運動を牽引(けんいん)した。当時を知る多くの仲間が西野同志の通夜と告別式に駆けつけてきたのは、最先頭で闘った西野同志が、多くの仲間から信頼されていた証しである。
 その後、革共同に入党し、京都大学の学生運動の指導部として、キャンパスと熊野寮自治会運動に責任を取り、今日の同学会権力樹立の礎を築いたのである。

労組大会で訴え

 2006年の「党の革命」では断固、動労千葉労働運動=階級的労働運動を支持し、塩川派によるマル学同への介入と変質を阻止するために主体的に闘い抜いた。激烈な党内闘争と激務の中で西野同志の身体はむしばまれ、闘病に入り、新たな闘いの場として、07年に労働戦線に移籍した。
 地区党の団結の中で、あるいは労働者党員との交流を通じて、西野同志は生涯労働者階級として生きることを決断した。同時に病気と闘いながら労働現場に身を置いたのである。そして、西野同志の「勝利に向かっての試練」が始まった。それは地区党建設の苦闘でもあった。病気と闘いながら、西野同志は労働者階級への信頼を根底に据えて懸命に闘い抜いた。
 07年に京都生協乙訓(おとくに)支部に非正規労働者として就職し、京都生協パート労組に加盟した。生協パート労組は日本共産党の支配下にあり、長らく京都総評(全労連)の拠点労組だった。そこで西野同志は地道に職場の仲間の信頼を得て、『前進』を拡大した。10年の京都生協パート労組大会の代議員にも選出され、非正規職撤廃のアピールを行い、職場闘争に着手し始めた。誰とでも気軽に話ができ、とことん労働者を信頼する気質は職場の労働者から愛されていた。

飛躍誓い偲ぶ会

 8月23日、西野同志を偲(しの)ぶ会を地区党主催で行った。「1917年ロシア革命」を戦取するためにも、職場闘争を路線的に闘える地区党への飛躍を全参加者が誓った。
 ご両親も参加され、母堂が、子どもの頃の思い出として「友だちをたくさんつくるのがあの子の夢だった」と語っておられたように、労働者と話をするのが本当に好きな同志だった。西野同志の共産主義者として生きた姿をご両親に紹介できたことが、何よりも亡き西野同志への最大の鎮魂であったと言える。
 私たち京都府委員会は西野同志の遺志を受け継ぎ、プロレタリア世界革命を必ず成し遂げる。西野同志! 見守ってください。

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