伊藤茂夫同志を悼む 「爆取」4同志の奪還へ病はねのけ不屈に闘う 革共同救援対策部

週刊『前進』06頁(2664号06面03)(2015/01/12)


伊藤茂夫同志を悼む
 「爆取」4同志の奪還へ病はねのけ不屈に闘う
 革共同救援対策部


 伊藤茂夫同志は2014年11月27日、同志たちが見守る中、敗血症による多臓器不全で息を引き取りました。10月に体調を崩してから2カ月間、多くの同志と医師・看護師の必死の治療・看護にもかかわらず帰らぬ人になりました。残念でなりません。67歳でした。
 伊藤同志は、病床から「まだ、やりたいことがある。くたばってたまるか」「11・29の星野全国集会には絶対行くぞ」「爆取裁判は最高裁でどうなっているのか」と、もう出なくなってしまった声を絞り出し、最後の最後まで闘う意志を強くしていました。

救援の責任者に

 伊藤同志が救対部で闘い始めるのが1993年。迎賓館・横田爆取デッチあげ弾圧で、須賀武敏同志、十亀弘史同志、板垣宏同志が6年間、福嶋昌男同志が1年間の獄中闘争を闘っている時でした。4同志を獄中から奪還するために、救援運動を本格的につくり出す責任者として着任したのです。伊藤同志は救援運動を組織するために、さまざまな人たちに会いに行きました。その結果、森山忞(つとむ)牧師(故人)を始め何人かの人士が新たに運動の中心に立つことになり、それが4同志奪還の原動力になりました。
 1996年7月の「爆取に反対する会」結成へ闘っていた1月、伊藤同志は脳内出血で倒れました。さらに2002年には拡大心筋症による心不全を発症しました。
 しかし、伊藤同志はその都度再起し、獄中同志奪還の闘いに必死に立ち続けました。裁判の傍聴には欠かさず行き、裁判所前や有楽町での保釈を求める署名活動にも、杖をつき両足を踏ん張る伊藤同志の姿がいつもありました。
 そして、02年3月に未決勾留16年を打ち破って3同志を保釈奪還し、04年3月には無罪判決(東京地裁)をかちとりました。04年11月には福嶋同志も保釈奪還しました。獄中4同志の不屈さに伊藤同志の不屈さも重なり、全党の団結でかちとった歴史的勝利でした。

千葉県党で奮闘

 伊藤同志は1947年埼玉県草加市に生まれ、育ちました。高校までは油絵を描き、本ばかり読んでいるおとなしい少年でした。66年に千葉大学に入学し、三里塚闘争と動労千葉の闘いに接すると学生運動に身を投じ、ノンセクトのリーダーになっていきました。千葉大学で、カクマルを粉砕して千葉県下の学生を大結集させ、動労千葉地本青年部長だった中野洋さんの講演会を大成功させたことを、いつも誇らしげに語っていました。
 70年に千葉大を卒業すると革共同に加盟し、千葉県反戦青年委員会の若きリーダーとして70年安保・沖縄闘争や三里塚闘争の先頭に立ちました。さらに、反革命白色テロ集団カクマルとの闘いに命懸けで突入し、千葉県党の強固な礎(いしずえ)を築くために全力で奮闘しました。1974年6・26法政大カクマル戦闘で逮捕・起訴。その後の20年に及ぶ二重対峙・対カクマル戦を、革共同と動労千葉、国鉄闘争を防衛する使命感に燃えて貫きました。
 『革共同50年史』を手にした伊藤同志は、「俺がいたるところに登場している」と、目を輝かせていました。

不動の確信、誇り

 伊藤同志が大病を患(わずら)いながらも18年もの長期間、生きかつ闘い続けてこられたのは、労働者階級は必ず勝利するという不動の確信と、革共同であることの誇り、それゆえの曇りない明るさがあったからです。さらに救対部を始め前進社の全同志たち、爆取被告団とその家族の中で、守られ、愛され、ともに生きてきました。
 もっともっと闘い続けたかっただろうと思うと残念でなりません。大事な同志を失った悔しさ、悲しさも簡単に癒(い)えるものでもありません。しかし、伊藤同志! 世界恐慌の深まりが戦争と革命の時代を到来させている今、革共同は50年の歴史のすべてを力に、現代革命への大挑戦に打って出ています。階級的労働運動路線を貫いて前進し、若き階級のリーダーを多数生み出し、労働者階級の新しい党を建設する気概(きがい)に燃えて、2015年決戦に躍り出ています。
 そして、われわれはあなたが最後まで熱望してやまなかった星野文昭同志奪還を必ず成し遂げます。あなたの革命的精神は、今なおわれらとともに2010年代中期階級決戦の戦場にあります。団結固く、ともにプロレタリア革命勝利まで。
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