「50年史」と私 『現代革命への挑戦』を読んで 沖縄への執念・気迫に感銘 元琉大全共闘 山城信康

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週刊『前進』06頁(2665号06面05)(2015/01/19)


「50年史」と私
 『現代革命への挑戦』を読んで
 沖縄への執念・気迫に感銘
 元琉大全共闘 山城信康

(写真 1969年11月、那覇泊港で火炎瓶を投げながら船のタラップをかけ降り、実力で上陸する本土の学生たち)

 『現代革命への挑戦―革命的共産主義運動の50年』上・下巻を読んで、革共同50年の闘いの偉大さをあらためて実感した。同時に、プロレタリア革命に何としても勝利するんだと私自身の決意も新たにした。
 私が沖縄現地で沖縄闘争を通して革命運動に決起したということから、とくに革共同の革命党としての沖縄闘争へのかかわり方、その大きさ、何よりも沖縄現地の闘いに何としても応えるのだという執念ともいえるものすごい気迫と決意に、深い感銘を受けずにはいられなかった。

琉大全共闘結成

 私が決起したのは、1969年11月決戦直前の同年10月半ばである。10月5日の沖縄県反戦青年委員会結成に続き、21日に琉球大でカクマルと激突しながら琉大全共闘を結成した闘いであった。
 当時は、沖縄が日米安保の矛盾の集中点としてあらゆる意味で焦点化していた最中であり、また沖縄中が復帰闘争というかたちで本土復帰・基地撤去の闘いに労働者を先頭に学生や高校生・農民・市民が文字通り全島あげて決起していく、そういう時代であった。革共同はこうした時代と情勢に対して「侵略を内乱へ」「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」の戦略的総路線を真正面から対置し、組織の総力をあげて決起していった。それはこの本を読めばよくわかる。
 しかし、肝心の「革命の火薬庫」である沖縄現地においては、革共同の組織は皆無の状態であった。そのことに革共同の指導部がいかに悔しい思いをしていたかということである。とくに、1969年の沖縄2・4ゼネストの中止(挫折)は、革共同に「何としても沖縄に党をつくるんだ」という決意と実践を待ったなしに求めていた。だが当時の沖縄は、本土と分断された米軍政下にあった。沖縄へ渡るにもパスポート(渡航許可証)が必要であり、取得は簡単ではない。ましてや革共同の党員と見なされた者や逮捕歴のある者には許可が下りるはずもない。

実力上陸し闘う

 こうした中で当時、在本土沖縄闘争学生委員会(沖闘委)に結集する仲間は、沖縄に「自由に」行き来することができ、重要な役割を果たしていた。沖闘委は、宮古島出身の国費留学生の九州大生・与那原恵永同志が67年10・8羽田闘争で逮捕されたことへの怒りを契機に結成されたが、それはまた宮古島出身の琉球大生や高校生の決起にも大きなインパクトを与えた。
 しかしそれだけではまったく不十分であった。もっと多くの活動家を沖縄に送り込む必要があった。そのためには、非合法的手段をも駆使して沖縄に上陸する必要があったし、実際にそうして幾多の同志が沖縄上陸を果たし、現地で活動を始めた。69年11月には、山梨大や群馬大を主力とした全学連戦士30人余による那覇泊港強行上陸の闘いがあった。港で待ち受ける権力機動隊に、火炎瓶と角材で武装し、白兵戦を繰り広げながら強行上陸を果たすという決死の闘いであった。
 そして、こうした革共同の闘いに、沖縄現地で2・4ゼネストを裏切った既成指導部をのりこえ、またカクマルの反革命的制動をぶっ飛ばし、真に闘う新たな党・勢力を求める多くの青年労働者や学生・高校生がたちまち合流していくのである。また2・4ゼネスト挫折の悔しさを契機に、1年後の70年2月には全軍労牧港支部青年部(牧青)が結成されることになる。
 さらに特筆すべきは高校生の決起であった。当時の沖縄闘争の全島的高まりの中で、闘う高校生はほとんどの高校で独自の決起を開始し、反戦高協を形成して闘った。一昨年11月に逝去した富里常典同志は反戦高協のリーダーであった。71年11・10沖縄全島ゼネストにおいては、闘う高校生が宮古島を含む沖縄全域から結集し、その隊列は学生戦線と並ぶほどの圧倒的勢力にまで成長していた。
 また当時、日放労長崎分会長で全国反戦世話人であった鈴木達夫弁護士は、NHKディレクターという肩書きで「復帰」前の沖縄を何度も往復し、沖縄現地の闘う労働者との交流を深めていた。とくに牧青の仲間との交流は動労千葉との関係を形成していく上で決定的であった。

沖縄県委が誕生

 こうした激動の70年安保・沖縄決戦のただ中で、革共同沖縄県委員会は誕生していった。そして70年以降の二重対峙・対カクマル戦を、新たに本土から派遣されてきた真栄城(まえしろ)隊とともに全力で闘った。その勝利を経て、ついに階級的労働運動を軸に国際連帯を掲げた沖縄闘争の新たな発展段階へと突き進んできたといえる。革共同50年史は、その新たな闘いの出発点である。私自身もまたここから新たな闘いに突入していく決意である。
 最後に、沖縄県党建設ということで今ひとつ思い起こすことがある。
 それは、1970年末に行われた、私を含めた学生活動家とこれまた生まれて間もない在本土の沖縄青年委員会の同志に対する東京での学習会である。東京・奥多摩の山荘で合宿が行われたが、そのときの講師が清水丈夫同志(現議長)と陶山健一同志の2人の政治局員だった。ここでのマルクス主義と沖縄奪還論の学習が今日の沖縄県党の下地をつくったように思う。
(革共同沖縄県委員会)
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