農地死守を貫いた50年の勝利 三里塚7・3集会の発言から

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週刊『前進』04頁(2763号03面01)(2016/07/11)


農地死守を貫いた50年の勝利
 三里塚7・3集会の発言から

(写真 市東孝雄さんが農地を守り闘う不動の決意を表明した【7月3日 墨田区】)
(写真 ロビーでは反対同盟の記念Tシャツ、バッジ、ハチマキ、新作DVDなどが販売され大好評)

戦争繰り返さない
 反対同盟事務局長 北原鉱治さん

 本集会にご参集のみなさん、ご多忙の中お集まりいただきありがとうございます。
 地元住民を無視した寝耳に水の7・4閣議決定の日から50年を迎え、三里塚闘争は今なお成田空港の完成を阻止し闘い続けています。71年2度にわたる強制代執行阻止闘争をはじめ国家暴力と真っ向から対決し、戦い抜いてきた50年でありました。この永い闘いの中で、3300人を超す仲間が逮捕され、その幾倍もの人びとが傷つき倒れました。全国からの労働者・学生・市民の長年にわたる力強い支援に支えられて、こんにちまで闘ってこれたことをあらためて感謝申し上げます。
 空港が決定された当時はベトナム戦争で、羽田空港には米軍機が頻繁に飛来していました。反対同盟は羽田を視察し、以来「軍事空港反対」をかかげ反戦反核の闘いの先頭で闘ってきたと自負しております。最近の安倍政権の動向をみると再び戦争の危機が迫っているとひしひしと感じます。
 私は成田の第3滑走路建設策動が戦争攻撃と一体であることを訴えずにはいられません。子や孫の世代に絶対に戦争の惨禍を繰り返させない為にも私たちには重大な責任があります。市東孝雄さんの100年近く耕してきた農地を死守することは戦争への道を阻止する闘いでもあります。絶対に勝利しましょう。
 私は残念ながら療養中で本日の集会に参加できませんが、これからも反対同盟は意気軒高と闘い続けます。
 皆さんの絶大なるご支援を心からお願いします。〈メッセージ〉

現地から安倍倒す
 反対同盟 敷地内天神峰 市東孝雄さん

 きょうはできるだけ多くの人に集まってもらいたいと思ってきましたが、こうして実際みなさんのお顔を見て、きょうはこの集会をやってよかったという気持ちが今十分にあふれています。
 沖縄・福島と結ぶ三里塚闘争50年。あらためて50年ということを考えてみますと、反対同盟の最初からの「農地死守・軍事空港反対」の闘い、諸先輩やきょう見えてる方々が担ってきた偉大な闘いだなあと、あらためて思っています。私はまだ3分の1くらいの年月しか携わっていませんが、ここ10年の間、私の農地問題でみなさんには、署名、裁判、あるいは援農という形で本当にお世話になっています。
 あらためて言うのもなんですが、私は農業が好きです。生まれた土地で誰にも文句言われず、100年耕してきました。それを「空港を造るからどけ」という攻撃がかかってきたわけですが、それは絶対に譲れない。やっぱり農地は私の命だ、「耕す者に権利あり」、そのことをあらためて問いたいと思います。
 ですから、これからもみなさんとともに、天神峰の地でできるだけ長く農業をし、空港反対を闘い、今の安倍政権をひっくり返すような闘いを三里塚現地から上げていきたいと思いますので、みなさん、これからもよろしくお願いします。

裁判闘争は正念場
 反対同盟顧問弁護団事務局長 葉山岳夫さん

 1966年7月、反対同盟が戸村一作委員長、北原鉱治事務局長の体制で発足して以来、50年間闘い続けてきました。私はそれに1年遅れて、67年から顧問弁護団の事務局長に就任して今年で50年になりました。
 「空港絶対反対・農地死守」「一切の話し合い拒否」「労農学市民の連帯した実力闘争」で、三里塚闘争は日々勝利しています。歴史学者・羽仁五郎さんは「三里塚は現代のパリコミューンだ」と賛辞を述べました。まさに絶対反対で闘い続けること自体が勝利です。
 今、市東さんの農地をめぐる裁判闘争は正念場を迎えています。
 市東さんが農業を営む南台と天神峰の7300平方㍍の農地の収奪を阻止する闘いは、最高裁に上告して1年間たちました。この裁判の本質は、憲法29条、31条に真っ向から違反する農民殺し、反対運動つぶしです。農地収奪のために裁判所を収用委員会の代わりに悪用して、収奪しようとしているのです。
 こんな暴挙は絶対に許せません!
 千葉地裁民事2部での耕作権裁判は勝利的に闘われています。7月11日、10時30分から裁判が行われます。農民殺しの判決は絶対に阻止しましょう。安倍政権の戦争政治、改憲策動、労働法制改悪と一体の農地収奪・反対同盟つぶしの攻撃を許さず、利権のかたまりである第3滑走路を絶対に粉砕しましょう。
 安倍を打倒する闘いの勝利は市東さんの裁判闘争に勝利する闘いと一体です。弁護団はみなさんと連帯して徹底的に闘いぬいて勝利します。

労農連帯50年の力
 動労千葉委員長 田中康宏さん

 三里塚闘争の50年は動労千葉の千葉地本時代を含む50年とほぼ重なっています。中野洋前委員長が、1965年に結成された千葉県反戦青年委員会の議長だったこともあり、ほとんど空港反対闘争の初めから動労千葉はかかわりました。
 組織を挙げてともに闘うようになったのは、ちょうど40年前のジェット燃料貨車輸送阻止闘争からでした。当時福田内閣は、「成田空港開港」を第一の方針に掲げました。その開港への障害の一つが、燃料輸送のパイプラインが完成せず貨車で輸送しなければいけない問題でした。その燃料輸送にかかわる職場、成田運転区、佐倉機関区、新小岩機関区、この三つの職場は全員が動労千葉の組合員でした。
 当時は、動労本部との間で大変な組織対立が起きていて、千葉地本青年部は執行権停止を受けていました。この処分攻撃を粉砕し、そこからジェット燃料輸送反対で反対同盟と連帯して闘うようになった。そして千葉地方本部は、分離・独立をして動労千葉という道を歩みました。この試練があったから、国鉄分割・民営化反対闘争を闘うことができたんです。
 この労農連帯、反対同盟との共闘関係と50年の歴史がつくってきたものの中に、今安倍政権が戦争に向かって進もうとすること、そのために戦後の労働法制を全部根底から覆して、労働者の権利、団結、労働基本権を踏みにじることに対して立ち向かう力が必ずあると思っています。
 動労千葉は、反対同盟とともに連帯してこれからも進みます。

全国農民の先頭で
 全国農民会議共同代表 小川浩さん

 三里塚闘争は何よりも農民の闘いです。今現在市東さんの農地取り上げの攻撃がかけられていますが、同じ農民としてなんとしてもこれを阻止する闘いに立ち、勝利しなければならないと強く感じています。
 私が農家を始めたのもちょうど50年前で、三里塚闘争とともに自分の現在があると思っています。50年前当時の農家戸数は550万とか600万ですが、今は200万。家族農業そのものを絶滅しようとする攻撃がかけられてきています。農民として生きていけるのかが、安倍農政の中で今問われています。
 アメリカでは大統領選の最中ですが、クリントンもトランプも二人とも「TPP反対」と言い、トランプは脱退するとまで言っています。トランプは日頃「メキシコからの不法移民」を問題にしていますが、これはNAFTA(北米自由貿易協定)によってメキシコの農業がだめになり、食えなくなった農民がアメリカにどんどん出稼ぎに行っているということです。TPPによって、そういうことも起こると思います。食の安全を含めて、農業問題は農業者だけでなく労働者の問題でもあります。
 市東さんの農地を守る闘いは、農民を労働者階級の側が獲得するのかどうかが問われる問題としてもあると思います。
 私たちは市東さんの農地を守り、三里塚に勝利するために、全国農民会議を立ち上げました。全国の農民の先頭で、勝利へ向けて闘います。

福島からの訴え

帰還政策許さない
 ふくしま共同診療所医師 杉井吉彦さん

 今、福島で何が起きているか。国、県、医師会などあらゆる団体による「福島は安全・安心であり、帰還はできる。復興しよう」というキャンペーンです。安全ではないんです。現在行われているのは帰還政策です。避難している約10万人が国の政策で「帰れ」と言われても帰れない、帰らない状況が続いています。
 チェルノブイリの基準ですら1㍉シーベルト以下なのにもかかわらず、日本政府は、独自の基準で年間20㍉シーベルト以下で帰すという。まさに福島県民の人体実験をやろうとしています。
 まだまだ避難を続けなければならない。日本中の人たちがそれを支え、福島の子どもたちと県民の健康を守らなければならない。
 この健康を守るという運動を、本当に真剣にやりぬく。大人にも起こるであろう長期内部被曝による放射線障害をいかに予防し、見つけ、守りぬくか。そのために、「避難・保養・医療」という原則に立ちきって診療所を運営していきたい。
 三里塚では、野戦病院と統一救対のもとに全国の医療従事者が現地に駆けつけ、数千人の負傷者を守りぬいてきた。私はまだ学生で医療行為はできなかったが、私たちは「成田日赤病院や東京警察病院で待つのか。それとも野戦病院と統一救対のもとで医療をするのか」を問われ、自分たちの階級的な意識や医療の問題を学び闘ってきた。その精神は脈々と現在まで、ふくしま共同診療所の中に生きぬいています。

診療所の意義重大
 福島診療所建設委員会 佐藤幸子さん

 震災直後に福島は戦場になったというふうに思いました。見えない、においもない、感じないけれども、赤い戦場の炎が私には見えました。その戦場から子どもたちを避難させることがまず最初ということで、運動が始まったんですけれども、実際には避難できる子どもがわずかで、とどまってしまう子どものほうが多いのが現実でした。その中で、放射能による健康被害を未然に防ぐためにあらゆることをしなければいけないと思った一つが、診療所でした。
 診療所建設委員会を呼びかけた時に、両方からバッシングされました。「診療所ができることで、福島にとどまってもいいと思われてしまうのではないか」という考え方と、「健康被害がないのに、そんなところにつくる必要があるのか」という正反対の意見の方からのバッシングです。
 広島での原爆の経験をされた助産師さんから、「福島につくることは絶対反対だ」と、実際に直接会って言われました。その時に、「予防のための診療所なんです。避難、保養、そして残ってどうしてもという人のための医療という立場でつくるんです」とお話をして、ようやく「納得しました」という言葉をいただきました。
 今も恐怖におののき、健康被害を心配しながら過ごさなければならない。それが現実です。
 これからもふくしま共同診療所、継続できるように、みなさんのご協力をお願いします。

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