チェルノブイリ運動の教訓 被災労働者を先頭にストで闘う ソ連解体で避難の権利が国策に

週刊『前進』04頁(2813号03面02)(2017/01/23)


チェルノブイリ運動の教訓
 被災労働者を先頭にストで闘う
 ソ連解体で避難の権利が国策に

(写真 事故の起きたチェルノブイリ原発に向かう兵士。後に発病した彼らが運動の中軸を担っていった)


 「被曝と帰還の強制反対署名」は、福島と全国で日増しに拡大している。この運動を発展させるために、1986年チェルノブイリ原発事故後の教訓を生かさなければならない。チェルノブイリ事故では、放射能汚染地からの避難の権利をかちとった。なぜそういうことができたのか。誰がどういう運動をしたから可能となったのか。今こそ労働者人民の側から、チェルノブイリ運動の明快な総括をしよう。今号ではまず、その全体像をとらえてみる。

被曝で甲状腺がんの認定も

 避難の権利を定めたチェルノブイリ法がつくられたのは、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアとも91年である。年間5㍉シーベルトで強制移住、1㍉シーベルト以上で避難の権利、となった。当時のソ連は国内でも移動許可証が必要で、避難は法などで認められない限り無理だった。同法はソ連解体後も各国の法律として運用されてきた。
 避難の権利を得たことは大きな意義を持つ。当時のソ連政府は事故情報を秘密にする命令を出した。事故翌年から被曝による病気が増えると、「放射能恐怖症」と呼んで隠そうとした。さらに「生涯350㍉シーベルトまで大丈夫」との説で乗り切ろうとした。何よりも、被曝を告発する学者や医師には、交通事故を装って暗殺をしかけ続けた。そうしたあらゆる隠蔽(いんぺい)・妨害・弾圧と闘って避難できたのだ。
 避難の権利の獲得は、放射能汚染地には住めない、被曝は健康を害すると認めさせたことを意味する。しかし、国際帝国主義は認めようとしなかった。その中心は、90年にIAEA(国際原子力機関)の「チェルノブイリ・プロジェクト」委員長となった長崎大・長瀧重信とその配下の山下俊一である。
 とはいえ、ソ連崩壊の影響は大きく、そのあがきも断たれた。96年のIAEAなどの共同国際会議で、「国際的な権威」である学者が「小児甲状腺がんの原因は被曝」と認めざるを得なくなった。ただし、事故から10年たって「この問題はもうこれで終わりという宣言」を出すためだ(ソランジュ・フェルネクス編『チェルノブイリ人民法廷』)。しかもこの同じ場で、〝次の事故ではストレスだけに注意を向けさせ、避難させず情報を統制する〟と合意した(同)。

旧ソ連の原発中枢を打倒し

 チェルノブイリ法成立の91年は、ソ連が解体した年である。避難の権利も健康被害の認定も、ソ連解体という体制の激変で実現された。
 何よりも、放射能汚染と健康被害の中で生きていくにはスターリン主義の支配と体制を打倒するしかなかった。89年3月に放射能汚染地図が初公開されると、「大嘘をついた責任者を明らかにし権力の座から引きずりおろそう」(「こうして原発被害は広がった」文藝春秋11年6月)という怒りが爆発した。「スターリン主義反対運動と原発反対運動とは、同一のものだった」(同)
 特に、ソ連はスターリン主義特有のイデオロギーで成り立っていたが、その総本山だったソ連科学アカデミーで放射能問題が大論争となり、89年には1㍉基準説が勝つまでになった。また、91年8月の守旧派クーデターは、ソ連政府の原発最高機関である「中型機械製作省」のバクラーノフ長官を首謀者の一人としていたが、労働者人民によって粉砕された。イデオロギーでも権力実体でもソ連の原発推進中枢が打倒されたのだ。

事故処理作業者80万が決起

 この闘いの中軸を担ったのは約80万人とされるリクビダートル(事故処理作業従事者)だった。全男性が予備役軍人だったため、あらゆる職種の人が招集され、高線量の事故現場に投入された。直後から発症した彼らは生きるためにチェルノブイリ同盟という組織をつくった。最も健康被害を受けた当事者が先頭に立って決起したのだ。「誰かが勇気を出して動き始めないと。自分たちの権利は自分たちで守るしかない」と(16年5月20日付東京新聞)。
 リクビダートルの決起は労働者のストライキを促進した。原発から110㌔メートルのウクライナ・コロステン市(被災者5万8千人)では、鉄道労働者を中心にストライキ委員会がつくられた。「89年秋には、キエフのスタジアムで10万人集会が催された」(アラ・ヤロシンスカヤ著『チェルノブイリの嘘』)。ベラルーシでも「きれいな環境のもとで生きる権利を求めて、やむなく非常手段に訴えた。ストライキ委員会を創設したのだ」(同)。原発事故と健康被害に対するストライキがソ連解体を牽引(けんいん)した。
 国際帝国主義は原発事故からソ連解体に至る過程を熟知し、それを繰り返さないことを国際的合意としてきた。主導したのは日本の御用学者だ。だから福島で避難の権利も健康被害も認めようとしない。
 これに勝ち抜くため、チェルノブイリの教訓を生かそう。「被曝と帰還の強制反対署名」を拡大し、3・11郡山闘争に決起しよう。
(島崎光晴)

チェルノブイリ原発事故後の経緯
86年4月 チェルノブイリ原発事故(「原発大災害」)
  6月 ゴルバチョフのペレストロイカ(改革)路線
87年9月 ソ連政府のIAEA報告書で「放射能恐怖症」
88年5月 アフガニスタンのソ連軍撤退開始
  11月 ソ連政府が「生涯350㍉シーベルト概念」
89年3月 「プラウダ」で放射能汚染地図の初公開
人民代議員選挙で反原発派が大挙当選
  4月 チェルノブイリ同盟の正式な結成大会
  春〜 各地集会で「子どもの健康、避難」が要求に
  9月 ソ連科学アカデミーで1㍉シーベルト限度説
  秋〜 各地で労働者のストライキ委員会創設
90年2月 ソ連全土で民主化要求のデモ
  3月 ゴルバチョフが初代大統領に
  6月 ソ連政令で1㍉シーベルトを汚染地域に規定
91年2月 ウクライナ・ベラルーシでチェルノブイリ法
  3月 IAEA・長瀧重信、ソ連の新方針を批判
  5月 ロシアでチェルノブイリ法
  8月 守旧派のクーデター敗北、ソ連共産党解散に
  12月 ソ連解体
92年9月 科学誌『ネイチャー』に小児甲状腺がんの論文
95年11月 WHO国際会議、事故による甲状腺がんと認定
96年4月 IAEAなどの共同国際会議、甲状腺がん認定
「次回事故では避難させず情報統制」とも確認
97〜99年 チェルノブイリ同盟のハンスト反復、1人死亡

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▼チェルノブイリ法 事故直後の緊急強制避難とは異なり、年間被曝線量が5㍉シーベルトを超えると強制移住区域、1?5㍉シーベルトは移住の権利区域とされた。妊婦と18歳以下の児童・生徒は0・5㍉シーベルト以上で移住の権利。避難費用と避難先の住居・雇用の補償も制度化。

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