奈良原正男同志を悼む 産別指導の蓄積生かし国鉄闘争の発展に尽力 中央労働者組織委員会

週刊『前進』04頁(2909号04面03)(2018/01/22)


奈良原正男同志を悼む
 産別指導の蓄積生かし国鉄闘争の発展に尽力
 中央労働者組織委員会

 奈良原正男同志は、昨年12月20日午前3時30分、世界と日本の労働者の闘いの前進に夢と期待をふくらませ、希望を託しながら、東京・上野の永寿総合病院で71年の生涯を閉じました。
 奈良原同志は再々度の入院の直前まで、がんによる病苦を押して、闘いの進め方や課題についての真剣な討議に加わりました。ときには鋭い論調で、ときには物事をあいまいにせず、仲間を激励し、一つひとつの闘いの前進に共に胸躍らせ、多くの意見や率直な助言、提言を寄せてくれました。

東京北部で責任果たす

 奈良原同志は1946年に生まれ、鉄鋼労働者であった父、兄と姉、日々の生計を懸命に支えた母のもとで育ちました。65年に資生堂に入社。東京理科大の夜間部で学びながら、資生堂従業員組合の支部として最も先鋭的だった研究所支部で、春闘はもちろん研究所移転反対闘争や職務評価制度に反対して組合運動を先頭で担いました。
 研究所移転後は板橋工場支部で激しい二重対峙・対カクマル戦争を担い、東京北部反戦青年委員会の先頭で闘いました。この職場での奮闘が東京北部全体の闘いを支えました。当時、東京で有数の全金本山闘争支援の地区であった北部で階級的労働運動を前進させる土台をつくるために仲間と共に全力をあげました。
 85年の三里塚十字路戦闘と国鉄分割・民営化阻止の動労千葉ストライキと連帯した浅草橋戦闘の後、資生堂を退職。今日まで革命運動を前進させるために全力を注いできました。
 89年の東京都議会議員選挙闘争では選対本部の一員として闘い、その勝利をかちとった後は北部地区党全体の責任をとりました。
 その後は全国労組交流センターの事務局として産別の指導部として、自治体、合同・一般労組全国協議会、民間交運の仲間と共に新たな運動と組織の形成、確立へ全国各地を駆け回るなど全精力を傾けました。また8・15実行委員会の事務局として戦争・改憲阻止へ奮闘しました。

国鉄全国運動発展にも

 奈良原同志の革命家としての人生に大きな転機をもたらし、新たな飛躍の契機となったのは、国鉄1047名解雇撤回闘争の10年4・9政治和解と11年3・11東日本大震災・福島第一原発事故でした。とりわけ4・9政治和解に対しては、これと闘う動労千葉、闘う国労闘争団の仲間の決意に応えて始まった国鉄闘争全国運動に全国事務局として加わりました。そして、職場闘争の経験とその後の産別指導の蓄積を生かして運動全体の前進と確立へ大きな力を発揮しました。
 鉄鋼労働者であった父を誇りに、兄弟とのつながりを大切に、何よりも息子たちの今後に大きな夢を託してきた奈良原同志、本当にお疲れさまでした。私たちは人生のすべてをかけた同志の闘いを引き継ぎ、必ず日本革命勝利、世界革命勝利へ前進します。あのいつもの静かな笑顔で見守っていてください。

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