団結ひろば 投稿コーナー

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週刊『前進』04頁(2949号04面04)(2018/06/18)


団結ひろば 投稿コーナー

星野さん解放へともに闘う
 迎賓館・横田爆取でっち上げ弾圧当該 福嶋昌男

 6・3高松全国集会とパレードの1千人の熱い力と7千人の要望書は四国地方更生保護委員会に〝星野さん解放〟を迫りました。
 不屈43年の獄中闘争を闘う星野文昭さんと暁子さんの二人のアピールは、星野さん解放全国集会の団結を全国・全世界に発しました。獄中の星野さんからの「星野の解放は自らの解放である」「人間が人間らしく生きられる世の中を」という檄(げき)が、多くの人々を共産主義社会へ導いているのを一段と学びました。
 私は今年になって、反原発―高崎駅西口金曜日行動(タカキン)の闘いとともに「群馬星野文昭さんの再審を実現する会」の旗の下で、要望書活動を一段と決意しました。
 翌日の徳島刑務所での差し入れ行動では、高崎市立美術館と高崎の土屋文明記念文学館で購入した絵はがきを差し入れました。
 その後、徳島救援会の仙田哲也さんは私たち4人を山に連れて行き、「あそこが星野さんの居るミシン工場、6棟が居房、そして右に見える土がグラウンドです」と指差しました。星野さんはあのグラウンドから「30年」この山を見、闘い、世界にアピールしてきた、と尊敬とともに、星野さん解放を必ず勝ち取ると決意を新たにしました。
 私は「群馬星野文昭さんの再審を実現する会」の営々とした闘いと援助で本集会に結集できました。お礼とともに、「実現する会」の旗の下、星野さん解放―大坂さん解放といっしょに福嶋再審闘争を頑張ってまいります。

渋谷闘争の正しさを再認識
 広島連帯ユニオン M・Y

 6月3日、「無実で獄中43年星野文昭さん解放全国集会」が高松市内で開かれ、広島からも約50人が駆けつけました。広島県外の星野集会に参加するのは私にとって初めての経験でした。行きのバスの中で参加者一人一人が自己紹介を行い、星野さん奪還への決意を表明しました。
 集会の直前、徳島刑務所は星野さんに懲罰をかけてきました。カバンづくりの責任を星野さん一人に押しつけておいて、ささいなことで罰するなんて許せません。しかしこれは、星野さんを取り戻す情勢が日々進展していることへの、国家権力の焦りの表れです。
 1971年の渋谷暴動闘争のことを知ったときは、何となく「怖い」という印象がありました。広島の皆さんと議論して、この闘争の意義を少しずつ理解していましたが、平良修さんの講演を聴き、沖縄の労働者民衆を踏みにじる国家権力への怒りから星野さんたちが決起したことの正しさを改めて認識できました。
 この集会に坂手洋二さんと高橋和也さんが来てくれるかもしれない、と事前に聞いていましたが、本当に来てくれてうれしかったです。お二人と星野暁子さんのトーク(写真)を聴きながら、「ブラインド・タッチ」の劇が今年になって再上演された意義は大きいと思いました。
 集会後、「ソリダリティ」などを歌いながら高松市内をパレードしました。更生保護委員会が入っている建物の前も歩き、星野さん解放が労働者民衆の要求だと訴えました。
 8・5〜8・6ヒロシマ大行動を成功させ、何としても星野さんを取り戻しましょう!

詩の群読で文昭さん身近に
 東京・青年 霧山明彦

 6月3日の高松集会で、全国の青年で星野暁子さんの詩の群読をしました。

 後で『前進』に載った写真を見ると、群読している後ろのスクリーンには星野文昭さんの絵が映されていて感動しました。
 準備期間が短くて、全員が集まれたのは当日の午前中、全体でやったリハーサルの1回だけでした。それでもなんとかなったのは、全国の青年たちの団結のたまものだと思います。
 周りの人に何度も「よかったよ」と言ってもらい、ほっとしています。
 後日、仲間と話していたときに、文昭さんにかけられた懲罰のことが話題になりました。
 「お菓子を時間外に食べたから」と刑務所は言っていますが、文昭さんは刑務所内のカバンの製作を1人でやっていて疲れ果てていました。刑務所から「できるのは君しかいない」と言われ、それまで一つずつ作っていたのを三つ作るように変えられていたそうです。それで疲れて「告知」を見れなかった。
 出されたお菓子も、それまでは1日のうちに食べればよかったのに、今回は「夕食までに」と変えられていた。
 ある人が言いました。「なんかそれって、うちらが職場でやられてるのと同じじゃない?」。決まりが勝手に変えられて、違反したら「読んでないお前が悪い」。ささいなミスに、重すぎる処分。
 6・3高松集会での群読で「星野さんは自分自身だ」と読みましたが、こういうところでも、自分たちそのものでした。今までになく文昭さんを近い存在に感じています。
 文昭さんを絶対に取り戻したいです。

日大腐敗によみがえる記憶
 杉並 M

 私は、世の中で無気力・無関心・無責任という三無主義が若者気質だと言われていた時代に高校生活を送り、1974年に日大文理学部に入学しました。同学部キャンパスには今問題になっている日大アメフト部の練習場があります。
 当時のキャンパスには立て看板が林立していて、その前で活動家集団20人位がよく学内集会を開いていました。上級生が新入生のクラス討論に来ては大学当局の腐敗など大学のあり方を問題にしていました。
 こうした日常の中で迎えた秋、大学当局から後期大学を封鎖するとの手紙が届きました。大学祭をめぐる問題であること、今後掲示物、ビラ等は許可制にするとの内容で、大学への批判は許さないという一方的で高圧的な通告でした。
 翌春、開講したものの、入構時に学生証の提示が義務化され、看板どころかビラ1枚ないキャンパスになってしまいました。活動家たちは遠くで「日大アウシュビッツ体制......右翼・関東軍を......」といったビラをまくのが精一杯でした。そのすきをついて今日の安倍や日本会議につながる反憲学連がキャンパスで大手を振るようになりました。
 当時、働いていた私は、職場での闘いが軸になり、学内では一傍観者に過ぎませんでした。ただ言えることは、ものを言えなくなった大学(職場も同じですが)は、腐敗がさらに進行するということです。
 新自由主義大学・日大の腐敗はここ1年で極限に達したことがはっきりしました。森友・加計で腐敗を示し、改憲・戦争へ突き進む安倍の姿そのものです。
 アメフト部員の勇気ある行動が日大の腐敗を暴きました。教職員組合も動き始めています。京大の立て看板をめぐる攻防は学生運動の未来を実感させます。京大と日大の闘いが一つになって発展したとき、改憲阻止へ青年・学生の荒々しい決起が生まれると確信します。共に闘おう。

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