繰り返すな戦争 憲法をめぐる激突 第2回 戦後憲法と日米安保は一体 日本全土が米軍の出撃基地に

週刊『前進』02頁(2954号02面02)(2018/07/05)


繰り返すな戦争
 憲法をめぐる激突 第2回
 戦後憲法と日米安保は一体
 日本全土が米軍の出撃基地に


 前回(本紙第2952号)見たように、第2次大戦終結直後、米日の支配階級は「戦争放棄」を含む新憲法の制定をもって、日本における戦後革命の危機を乗り切った。だが、彼らは日本を本当に「平和国家」にする気などさらさらなかった。それどころか、米帝は日本全土を米軍の出撃・補給基地とし、沖縄を本土から分離して軍事要塞(ようさい)化することで、アジア・太平洋地域における恒常的な戦争態勢を構築した。日帝はそのもとで自らも再軍備に踏み出し、帝国主義国としての復活をとげた。以後、日本労働者階級の戦争・改憲反対の闘いは、このような米日帝の軍事同盟=日米安保体制をめぐり闘われることとなった。

沖縄売り渡し軍事要塞化

 第2次大戦以降、米軍は世界各地で無数の戦争や軍事行動を展開してきたが、沖縄を始めとした在日米軍基地は常にその最重要の出撃拠点とされてきた。とりわけ朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタン戦争やイラク戦争といった長期にわたる大規模な戦争は、日米安保なしには遂行できなかった。「極東の平和と安定のため」と称して日本に駐留する米軍によって、他国の人民を大量虐殺する不正義の侵略戦争が繰り返される一方、米軍基地の周辺では頻発する事故、米兵の凶悪犯罪、騒音、環境汚染などあらゆる形で住民の生活が踏みにじられ、人々の命が日夜にわたり脅かされてきたのである。これが「戦争放棄」をうたった憲法9条の裏に隠された戦後日本の実態だった。
 この日米安保体制は、直接には、第2次大戦終結直後に中国、朝鮮、東南アジアなどで一斉に爆発した戦後革命を米軍の軍事力で鎮圧し、その波及を阻止することを目的として構築された。それは何よりも沖縄の分離と軍事要塞化によって成り立つものであった。
 47年5月の憲法施行後、GHQ(連合国軍総司令部)最高司令官マッカーサーは「沖縄を空軍基地化すれば、日本を(憲法9条で)非武装化してもアジアが軍事的空白地帯になる心配はない」との考えを繰り返し述べたが、これに飛びついたのが昭和天皇ヒロヒトだった。天皇は同年9月、側近を通じてGHQにメッセージを送り、「米国が25〜50年ないしそれ以上の長期にわたり沖縄を占領し続けることを希望する」と伝えた。この天皇による沖縄の売り渡しが米帝の対沖縄政策の決定に重要な影響を与えた。
 続いて中国革命の勝利が目前に迫っていた49年7月、「日本を共産主義進出阻止の防波堤にする」(マッカーサー)との方針に基づき、米議会が沖縄基地建設予算5千万㌦を可決。「銃剣とブルドーザー」による軍用地接収と基地建設が50年から本格化した。
 そして朝鮮戦争の真っただ中の51年11月、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約が調印され、米占領軍は安保条約に基づく駐留軍として日本に残る一方、沖縄は本土から分離されて米軍の軍事支配下に置かれることとなった。
 また安保条約はその前文で、日本が「自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負うこと」を米国が期待するとの文言を盛り込み、日帝が本格的な再軍備に踏み出すことを促した。続いて54年3月に日米相互防衛援助(MSA)協定が結ばれ、これを基礎に米国製の装備で武装した陸海空の自衛隊が同年7月に発足した。

「安保粉砕」は革命に直結

 米帝は日米安保の形成と前後して米比相互防衛条約(51年9月)、ANZUS条約(米・豪・ニュージーランド安保条約、53年10月)、米韓相互防衛条約(53年10月)、SEATO(東南アジア条約機構、54年9月)、米台相互防衛条約(54年12月)を次々と締結し、NATO(北大西洋条約機構)と並ぶアジア諸国との軍事同盟網を構築した。この軍事同盟網が実際に機能するための軍事拠点として、沖縄が「太平洋の要石」と位置づけられた。
 さらに重要なのは、沖縄が米軍の核兵器貯蔵庫=核戦争出撃基地として重視されてきたことである。56年6月の米下院軍事委員会の調査報告書「プライス勧告」は、「沖縄では原子兵器を貯蔵または使用するわれわれの権利についていかなる外国政府の制限も受けることはない」と述べ、沖縄の核基地として戦略的価値を強調した。
 このように沖縄の核基地を最大の実体とする日米安保体制は、米帝のアジア支配の要をなした。それは同時に、敗戦国・日帝が帝国主義国家として復活し、再びアジアと世界にのしあがるために、日帝にとって唯一可能な世界戦略であった。したがって日米安保が動揺し、沖縄の米軍基地がその機能を果たせなくなることは、ただちに米帝のアジア軍事支配の破綻と核戦略の崩壊をもたらし、日帝にとっては帝国主義国家としての延命の道が絶たれるに等しい事態を意味した。「安保粉砕」とはすなわち「日帝打倒」であり、世界革命に直結するのである。
 72年の「沖縄返還」は、米軍支配を揺るがす沖縄人民の本土復帰闘争と本土における70年安保闘争が合流し大高揚する中で、沖縄に基地を残したまま施政権だけを日本に「返還」するというペテン的なやり方で日米安保体制を維持しようとするものであった。それはまさに米帝・日帝の帝国主義としての存亡をかけた乗り切り策であった。
 このような日米安保と対決し、日本の労働者階級は戦後革命期以来、「二度と戦争を許さない」という共同の決意のもと、労働組合を中心に闘い抜いてきた。朝鮮戦争下、当時の総評(全国労働組合総評議会)を現場組合員の決起で左旋回させ「中立・全面講和・米軍基地撤去・再軍備反対」の平和四原則を採択させたことに始まり、60年安保闘争は巨万の民衆決起として闘われた。さらに70年安保・沖縄闘争は青年労働者・学生の丸ごと一世代が革命をめざして決起した。この激闘の中から生まれた動労千葉を先頭に、80年代の国鉄分割・民営化反対闘争が三里塚軍事空港粉砕の闘いと一体で打ち抜かれた。その後の国鉄闘争・階級的労働運動の不屈の継続は、日帝の改憲=戦争国家化を今日まで阻止する最深の力となってきた。
 改憲阻止闘争は、この日本労働者階級の闘いの全歴史を引き継ぎ、戦争絶対反対の広範な怒りの声と深く結合していく壮大な決戦である。「改憲・戦争阻止!大行進」を発展させ、ゼネスト―革命を切り開こう。

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