繰り返すな戦争 憲法をめぐる激突 第4回 実力で獲得した労働基本権 労働組合の闘いが改憲を阻んだ

週刊『前進』02頁(2960号02面01)(2018/07/26)


繰り返すな戦争
 憲法をめぐる激突 第4回
 実力で獲得した労働基本権
 労働組合の闘いが改憲を阻んだ

(写真 「教え子を再び戦場に送るな」を掲げてストライキに突入した日教組組合員に生徒たちが笑顔で拍手を送る【1958年9月】)


 戦後革命の原動力は労働組合の結成と闘いである。労働基本権の憲法への明記や労働基準法の制定は、当時の労働運動が実力でもぎとったものを追認し、法に書き込むことによって成立した。改憲攻撃とは、この階級的力関係の反革命的転覆を意味する。それなしに憲法9条の解体=「戦争する国」への転換もない。したがって、9条改憲をめざす日帝支配階級の攻撃は1950年代以来一貫して、労働組合と労働運動の圧殺・解体を最大の焦点にしかけられてきた。今日でもこの構造は全く同じだ。

労働者階級の団結に恐怖

 日本国憲法はその第28条で「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する」としている。労働者の団結権・団体交渉権・争議権からなる労働三権をここまでシンプルに無条件に保障した憲法は、欧米諸国にもない。この権利は敗戦直後の労働者階級が労働現場での激烈な闘いによって敵階級に力ずくで強制し、かちとったものだ。
 日本の支配階級は戦前以来、労働運動を「国家を破壊するもの」として徹底的に敵視し、労働組合の存在を認めようとしなかった。GHQ(連合国軍総司令部)は1945年10月、天皇制国家の体制をそのまま継続していては占領支配の安定が得られないとし、「日本の民主化」を掲げた5大改革を指令した。そこでは秘密警察の廃止などとともに「労働組合の結成奨励」が打ち出された。
 これを受けて新憲法の制定に先立ち、まず労働組合法の制定が行われた。それは同時に、戦後の労働者階級と資本家階級との非和解的激突の開始となった。法案作りの過程で資本家側の代表は「労働争議(ストライキ)の根絶を法文中に明記せよ」とかたくなに要求し続けた。これを粉砕して45年12月末成立した労働組合法には、続いて制定される新憲法に労働基本権の明記を義務づける付帯決議がつけられた。
 労働組合の結成は45年秋から始まったが、労組法の制定はそれに爆発的に拍車をかけた(別表参照)。労働者階級の怒りと実力決起はGHQの思惑をもはるかにのりこえて進んだ。47年に入ると当時の労働組合のほとんどすべてを糾合し、400万人以上が決起する政治ゼネストが「2・1スト」として準備された。ゼネストは日本共産党指導部の裏切りにより不発に終わったが、このままでは革命になるとの危機感にかられたGHQは、労働者階級への大幅な譲歩を日本政府に指示。その中心が、労働基準法の制定だった。
 資本の無制限の搾取から労働者を保護する制度の確立は、戦前からの労働者階級の切実な要求だった。労働基準法の制定作業は46年7月に始まり、12月末には法案が完成したが、当時の吉田内閣は閣議決定と国会提出を引きのばし、提出後も審議未了で廃案にしようと策動していた。
 この妨害を打ち破って47年3月末ついに成立した労働基準法は、労働条件決定の原則として「労働者は人たるに値する生活の必要を充足しなければならない」と宣言した。そして解雇の制限や、1日8時間労働をはじめとする労働時間の規制、女性の産前産後休暇や生理休暇、最低賃金制、労務災害には使用者が全責任を負うことなどを規定。また「就業規則は労働協約に反してはならない」と明記していた。それらは労働争議の現場ですでに次々と実力でかちとっていた権利を追認し、法文に書き込ませたものだった。

「教え子を戦場に送るな」

 闘いの中心を担ったのは官公労働者だった。教育労働者や自治体などの公務員労働者と、公共機関の労働者(今日のJRや郵政、NTT、電力など)の闘いが圧倒的な力をもった。恐怖したGHQと日帝は、48年に入ると公務員労働者のスト権を暴力的に剥奪した。そして50年の朝鮮戦争突入で戦後革命を最終的に圧殺すると直ちに、労働組合の解体攻撃を全力をあげて開始した。
 これと真っ向から激突して闘われたのが、1957〜58年を頂点とする日教組の勤評闘争(勤務評定実施反対闘争)だった。勤務評定とは今で言う人事評価制度だ。愛媛県に始まり全国に拡大した勤評実施攻撃に対し、日教組は絶対反対を打ち出すとともに「勤評は戦争への一里塚」「教え子を再び戦場に送るな」のスローガンを掲げて闘った。
 勤務評価の導入は教育労働者を個々バラバラに分断し、学校現場の団結を破壊し、子どもたちよりも権力の顔色をうかがう教員をつくりだし、ひいては教育そのものを破壊する。その結果は、子どもたちから考える力を奪って国家の命令に無条件に従う人間を育成したかつての戦争教育の再来ではないか。それだけは絶対に許さない----この思いが日教組の全組合員を激しくとらえていた。
 闘いは58年4月東京都教組の24時間スト決行を転機に、国家権力とのむきだしの激突へと発展した。勤評攻撃の最大の狙いが再び戦争をするための教育の国家支配と労働組合の破壊にあるとつかんだ以上、闘いは徹底抗戦以外にない。力ずくの攻撃には力で押し返すしかない! スト権を奪われていたため「一斉休暇闘争」の形をとったが、一人ひとりが弾圧と処分を覚悟し、「法」の枠を決然と踏み越えての決起だった。
 スト当日の4月23日、全都1500分会中、不参加はわずかに33分会。全組合員の実に98%が全一日のストライキに立ち上がった。父母をはじめ地域の民衆も教育労働者の全人生をかけた決起に心を打たれ、圧倒的にストを支持した。権力は組合幹部26人の逮捕(うち7人起訴)と3057人の処分という大弾圧を強行したが、ストを貫徹した勝利感は組合の団結をさらに揺るぎないものとした。
 日教組の勤評闘争は、同時期に闘われた国鉄新潟闘争とともに、60年安保闘争の大爆発への道を切り開いた。改憲・戦争攻撃との大決戦を迎えた今、この日本労働者階級の闘いの歴史と魂を今こそよみがえらせて闘おう。

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終戦直後の労働組合の拡大(労働省『資料労働運動史』より)
組合数 組合員数
1945年 9月 2 1,077
10月 9 5,072
11月 75 67,453
12月 509 385,677
1946年 1月 1,517 902,751
    2月 3,243 1,537,606
    3月 6,538 2,568,513
    4月 8,531 3,023,979
    5月 10,541 3,414,699
    6月 12,007 3,681,017
    7月 12,923 3,814,711
    8月 13,341 3,875,272
    9月 14,667 4,122,209
   10月 15,172 4,168,305
   11月 16,171 4,296,589
   12月 17,265 4,849,329
1947年 1月 17,972 4,922,918
    2月 18,929 5,030,574
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