天皇即位儀式を弾劾し11・3へ 天皇制問題Q&A

週刊『前進』02頁(3077号02面01)(2019/10/17)


天皇即位儀式を弾劾し11・3へ
 天皇制問題Q&A

(写真 1938年1月、馬にまたがり陸軍将兵を閲兵する天皇ヒロヒト)

(写真 1937年12月11日、日本軍による南京占領を祝賀する行列が全国各地で行われた。皇居前には大勢の児童たちが動員された)

暴力により人民に屈服を強制
 戦争は天皇のもと強行された

 安倍政権の改憲策動と連動して、新天皇の即位を「祝賀」することを国家の力で全人民に強制する「即位礼正殿の儀」が10月22日に迫った。安倍が狙う改憲とは、単なる法制度上の改変にとどまらず、戦後日本社会の中で多くの人々に共有されてきた「二度と戦争をしてはならない」という意識を一掃し、「国のために国民が命を捧げるのは当然だ」というイデオロギーで全社会を制圧することにほかならない。そして、そのような「戦争する国」のもとに国民を統合するシンボルとして、再び天皇制が政治の前面に押し出されたのだ。この攻撃を打ち破るために、あらためて天皇制の本質を明らかにしたい。

天皇を「神格化」するための儀式

 ----まず、10月22日に予定される「即位礼正殿の儀」、11月14〜15日の「大嘗祭(だいじょうさい)」とは何なのですか?
 いずれも天皇の代替わりに不可欠な行事として行われるもので、天皇を徹底的に「神格化」し、あたかも他の人間を超越した「神聖不可侵」な存在であるかのように描き出すために、国家を挙げて行う荒唐無稽(こうとうむけい)な儀式にほかなりません。
 「即位礼正殿の儀」は新天皇が「高御座(たかみくら)」と呼ばれる玉座に座って即位を宣言し、総理大臣を代表者とする「臣下」が万歳三唱で応えるという、戦前以来の国家神道をそのまま踏襲した儀式です。
 「大嘗祭」とは、「天皇が神殿の中で神(アマテラスオオミカミ)と一晩寝食を共にし、神霊を受け継いで現人神(あらひとがみ)となる」という奇怪千万なカルト宗教的儀式で、あまりにも国家神道的色彩が濃厚なため戦後憲法下では「国事行為」からも外された天皇家の「私的行為」にすぎません。しかし、これも巨額の税金を投じた国家を挙げての行事として行われています。
 ----なぜそこまで大掛かりな儀式を行うのですか?
 そうしなければ天皇制の権威を維持できないからです。その意味では、天皇制にとって儀式こそが命なのです。もともと天皇制イデオロギーというものが、人を納得させたり獲得したりするだけの内容をもたない、非科学的で非合理的な虚構にすぎないことの証しです。だからこそ儀礼的・外見的な「神聖さ」「荘厳さ」を必死に演出せざるを得ないのです。
 その上で重要なことは、こうした荒唐無稽な儀式も含めて、天皇制はあくまでも国家暴力に支えられているということです。上のコラムにもある通り、警察の力で厳重に警備し、あるいは右翼の白色テロで脅し、逆らう者や従わない者は徹底的に威圧・弾圧する。さらに学校を通じて児童に「祝意」を強制する。この暴力性こそ戦前から変わらない天皇制の正体です。
 そして大事なことは、国家を挙げて仰々しく飾り立て、全人民を威圧しながら行われる天皇儀式に対して、労働者階級人民の側が一切ひるまずデモや街頭宣伝などで堂々と絶対反対を掲げて登場することです。そのように登場した時に、実は国家を挙げての天皇攻撃などそれほど成功しておらず、人民をあらかじめ支配する力などないことが明らかになります。今年の5・1メーデーの成功はそれを示しています。

民族排外主義と選民思想あおる

 ----そもそも天皇制とは何なのでしょうか?
 一言で言えば、天皇とその血族を国家の頂点に置き、その神格化された権威を他のすべての人間の上に君臨させる日本特有の世襲君主制といえます。それは人間の本来的な平等性・普遍性を否定した上に成り立つものです。マスコミなどがどんなに「国民と共に歩まれる両陛下」などと天皇・皇后のことを美化しても、天皇制が「出自・血統を理由に人間を差別する国家制度」であることは否定しようもない事実です。
 そして天皇を人間以上に尊い「現人神」とし、天皇への忠誠心を植えつけることで、全人民を国家のもとに服従させ、究極的には「天皇のために死ぬこと」を最も尊い行為として賛美し全人民に強制することにまで行き着くのです。同時にそこには、「天皇という神聖な存在を頂く日本国は他の国より優れている」「日本人は他民族より優秀である」という民族排外主義・選民思想と侵略思想が貫かれています。
 ----しかし天皇・皇室は古くから日本の民衆に尊ばれてきた、いわば日本の伝統・文化の象徴のような存在ではないのですか?
 いいえ、まったくそうではありません。天皇制とは、1868年の明治維新以降、国家権力がきわめて人為的につくりあげた政治的創作物にすぎません。それ以前には、日本の民衆のほとんどは天皇・皇室の存在すら知らず、実生活においても完全に無関係でした。それゆえ明治政府は、全人民に天皇崇拝と皇国史観を植えつけるために、軍隊や学校をはじめあらゆる場面で絶えず暴力的な強化政策をとらざるを得なかったのです。天皇直属の陸海軍や膨大な皇室財産など、近代天皇制の実体が形づくられたのも明治以降です。
 ----なぜそこまでして天皇崇拝を人々に強制したのでしょうか?
 最も大きな理由は、明治以降の日本が絶えざるアジア侵略と戦争を通じて帝国主義国家へとのし上がったからです。つまり、人民を戦争に動員し、侵略の先兵へと仕立て上げていく上で天皇制イデオロギーが不可欠だったからです。
 実際、日本が行った一切の戦争は、一つの例外もなくすべて「天皇の軍隊」による「天皇の戦争」でした。あの十五年戦争に代表される残虐で犯罪的な一連の侵略戦争は、天皇制のもとで全人民を「天皇の臣民」「天皇の赤子(せきし)」として総動員することで初めて可能になったのです。天皇制がなければ、あのような戦争を引き起こすことも長期にわたり継続することも不可能でした。

謝罪もせず戦争責任居直り
 「国民統合の象徴」は虚構だ

 ----しかし、戦後憲法のもとで、天皇は統治権や統帥権を持たない「象徴」とされました。天皇個人も「平和を願う」と言いますし、もはや天皇制にそれほど危険性はないのでは?
 確かに戦前のような天皇制のあり方は基本的に戦後憲法で否定されましたが、そもそも昭和天皇の戦争犯罪が裁かれなかったこと、そして「象徴」というあいまいな規定で天皇制それ自体が存続したことが大問題です。つまり、戦後の「象徴天皇制」はあくまでも戦争責任の居直りの上に成り立つものなのです。前天皇アキヒトの「慰霊の旅」やエセ平和主義的な言動の数々も、実は天皇・天皇制の戦争責任には一言も触れず、「謝罪」もしていません。そして安倍政権が改憲を狙う中で、天皇の再びの「元首化」が画策され、「天皇を頂点とする戦争国家」への転換が狙われているのです。「象徴天皇制だから大丈夫」では断じてありません。
 ----では、そのような今日の天皇制に対して、労働者階級はどのように対決すべきでしょうか?
 「象徴天皇制」を規定した憲法1条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」としていますが、現実の日本社会は厳然たる階級社会であり、一握りの資本家階級が圧倒的多数の労働者階級を支配し搾取する社会です。これに対し、安倍政権は労働運動や学生運動を弾圧し階級闘争を鎮圧することで、「天皇のもとでの国民統合」という虚構のもとに全人民を組み敷こうとしています。貧困だろうが過労死寸前だろうが文句を言わず黙って働け、国を守るために命を捧げろ、という支配階級や権力者にとって最も都合のいい「滅私奉公」の精神を人民にたたき込むためのツールとして、再び天皇制を担ぎ出しているのです。
 労働者階級人民が生きる道は、「天皇のもとでの国民統合」を断固として拒否し、自分たちの力で社会を変革していくために団結して階級闘争に立ち上がることの中にあります。何よりも労働組合つぶしの攻撃を粉砕し、闘う労働組合をよみがえらせることです。11月3日の全国労働者総決起集会をその歴史的出発点としてかちとりましょう。

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