安倍改憲の出発点は中曽根 新自由主義で労働者に苦難

週刊『前進』02頁(3093号01面01)(2019/12/12)


安倍改憲の出発点は中曽根
 新自由主義で労働者に苦難


 元首相・中曽根康弘の死に際し、首相の安倍晋三は、中曽根が「一貫して改憲を主張したその志を受け継ぎながら、政権与党としての責任を果たす」とあらためて表明した。2020年は、労働者階級の命運をかけて改憲・戦争を阻止し、安倍を打倒する決戦となった。

全土の軍事基地化たくらむ

改憲阻んだ闘い

 中曽根は行政管理庁長官の時の1982年5月、「生長の家」で講演し、「行政改革で大掃除をして、お座敷をきれいにして立派な憲法を安置する」と言い放った。中曽根が強行した電電、専売、国鉄の3公社の民営化をはじめとする行政改革は、労働運動をつぶして改憲を強行することに目的があったのだ。
 国鉄分割・民営化は、国鉄労働者に多大の苦難を押し付けて強行された。総評は解体され、労働運動は連合のもとに抑え込まれて、大後退を強いられた。だが、動労千葉の分割・民営化反対のストライキを機に、労働者の反転攻勢は開始され、以降、必死の反撃が貫かれる中で、改憲だけは阻まれてきた。
 安倍は今、この階級的力関係を覆そうと必死になっている。そのために中曽根の攻撃手法を踏襲して、全日建運輸連帯労組関西地区生コン支部に対する大弾圧を仕掛け、JRにおいては国鉄分割・民営化に協力したJR東労組さえ解体して、「労働組合のない社会」をつくろうとしている。その究極の目的は改憲を成し遂げることにある。
 さらに安倍は、自衛隊の中東派兵を強行しようとしている。自衛隊に実際に戦火を交えさせることを通して、一挙に改憲に道を開こうとしているのだ。
 こうした攻撃の出発点も、中曽根が敷いた。中曽根は首相就任後に初めてアメリカを訪問した83年1月、「日本列島を不沈空母のように強力に防衛し、ソ連のバックファイアー爆撃機が侵入できないようにする」と表明した。これは衝撃的な発言だった。現首相が、日本全土を戦禍にたたきこんでも、当時のソ連と戦争を構えると挑戦的に言い放ったのだ。ここから日米安保体制は、実際の戦争を射程に入れたものとして飛躍的に強化された。
 中曽根は、政治活動を始めた当初から、一貫して「自主憲法制定」を唱えていた。また、首相として初めて靖国神社に公式参拝した。そこに示されているように、中曽根の主張の根底には、強烈な対米対抗性があった。だが、現実には日米安保軍事同盟の更なる強化をもたらした。日米安保体制なしに成り立たない日本帝国主義のあり方は、今日も続いている。
 中曽根は、「防衛費はGNP(国民総生産)の1%以下」とされてきたそれまでの制約を取り払った。日本帝国主義は、そこから本格的な軍事大国化・大軍拡に乗り出していった。

あがく安倍倒せ

 その軍事費は、労働者人民の懐から巻き上げた税金によってまかなわれた。
 安倍が10月に強行した消費税の10%への引き上げは、新自由主義によって非正規職化と貧困を強いられている労働者人民の生活苦に、さらに追い打ちをかけている。
 消費税に道を開いたのも中曽根だった。中曽根は「増税なき財政再建」を叫んだ。国鉄や国家の財政赤字が国鉄労働者・公務員労働者の「高い給与」と「生産性の低さ」にあるかのように宣伝し、それを「是正」すれば赤字は解消できるかのようにうそぶいて、行政改革攻撃を強行した。だが、それはうそだった。
 中曽根は、現在の消費税とほぼ同じ仕組みの「売上税」を構想し、強行しようとした。消費税が導入されたのは竹下登政権下の1989年だが、そこに道筋をつけたのは中曽根だ。
 中曽根がやろうとし、労働者人民の抵抗によって貫徹できなかったことを、一挙に成し遂げようとしているのが安倍政権だ。だが、安倍は人民の怒りに直撃されている。改憲・戦争阻止、安倍打倒の2020年決戦に立とう。

核保有狙い原発を推進

3・11核惨事の元凶
安全神話ふりまく

 1954年3月1日、太平洋ビキニ環礁で米軍による水爆実験が行われ、ミクロネシア諸島の住民と、第五福竜丸など近海で操業中の無数の漁船が放射能を浴びた。その翌日の2日、日本では初の原子力予算案が突然国会に提出され、さしたる審議もなく成立した。その首謀者が中曽根康弘だ。これを出発点に、全国で原発の建設・運転が強行されていく。その行き着いた先が2011年の史上最悪の3・11福島第一原発大事故である。
 原発さえなければ、どれだけ多くの人の命・健康と生活が奪われずにすんだことか! 子どもの甲状腺がんの多発と検査の縮小・中止策動、「自主避難者」への住宅支援打ち切りと高線量地域への帰還強制、放射能汚染水の海への放出策動......。被曝防護とは真逆に、被曝をおし隠し、被曝を一層拡大し、3・11核犯罪の責任をとろうとしない支配階級ども。原発を導入した中曽根こそ、その最も重い責任を負っている。

電源三法つくる

 日帝の原発計画は、建設予定地・周辺住民から猛反対にあった。中曽根自身も、1966年に三重県の芦浜原発予定地を視察しようとした際、漁船350隻に包囲され、海水をぶっかけられて逃げ帰っている。
 原発政策が破綻する危機に直面した中曽根は、74年、通商産業相の時に「発電所等の立地の円滑化」を掲げて電源三法を成立させている。国家暴力と一体の金で地元を懐柔し原発建設を推し進めようとしたのだ。これに対し、「子どもたちの未来に危険なものは残さない」と、全国で実力阻止闘争が激しく繰り広げられていった。
 86年のチェルノブイリ原発事故に対し、中曽根は「わが国の原発はまるっきり構造が違っていて心配はない」と言い放った。でたらめな「原発安全神話」の毒素をばらまき、原発を稼働させて多数の労働者に被曝労働を強制し、3・11事故を引き起こして大量の放射能を放出した、その核犯罪の元凶こそ中曽根だ。

原爆製造を追求

 中曽根は根っからの核武装主義者だ。
 45年8月、高松で広島への原爆投下を知った海軍将校の中曽根は、「これからは原子力の時代だと悟った」と回想している。ここでの原子力とは原爆だ。中曽根は、53年に在米中の科学者・嵯峨根遼吉を訪ね、戦後日本の原子力計画の助言を受けたという。嵯峨根は戦時中、軍部にウラン爆弾出現とウランの日本埋蔵の可能性を教え、日帝の原爆開発計画のきっかけをつくった人物だ。
 これをもとに中曽根ら日帝支配階級は、「原子力の平和利用」を掲げて原子力技術を導入し、原爆製造の開発を追い求めていく。82年に首相に就任した中曽根は、小型核兵器用プルトニウムを製造する高速増殖炉を軸に核燃料サイクル計画を本格的に開始する。83年に「下北半島を原発のメッカに」と発言し、85年4月9日に青森県の六ケ所村への核燃料サイクル基地受け入れを決定させた。地元住民の反対を踏みにじり原発増設と同時に六ケ所再処理工場をつくり、福井県敦賀市に高速増殖炉もんじゅを建設し稼働する。だが95年のもんじゅのナトリウム流出火災事故、3・11福島原発事故と反原発闘争の大高揚が重なり、中曽根の核武装国家の野望は破綻の危機にたたき込まれる。

被爆者に暴言も

 中曽根は83年、広島の被爆者に「病は気から」と暴言を吐いた。中曽根が主導した核政策で茨城県東海村のJCO臨界事故や福井県の美浜原発事故などが発生、労働者が命を奪われ多数の住民が被曝した。中曽根こそ広島・長崎、福島、全労働者人民のかたきだ。
 中曽根の核武装にかけた野望を引き継ぐ安倍は、東京オリンピックを強行して3・11の核犯罪を消し去り、改憲・核武装へ突き進もうと狙っている。粉砕あるのみだ。東海第二原発、女川原発再稼働阻止の闘いを先頭に、全原発即時廃炉、核燃解体へ闘おう。3・11福島へ結集し、改憲・核武装阻止へ進撃しよう。

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中曽根康弘と核関連年表
1945年8月 広島への原爆投下を知り「これからは原子力の時代だ」と悟る
 53年7月 訪米し嵯峨根遼吉から原子力計画の助言を受ける
   12月 米アイゼンハワーの「アトムズ・フォー・ピース」演説
 54年3月 ビキニ水爆実験
   3月 原子力予算案を国会提出
 59年6月 岸内閣の科学技術庁長官に就任
 66年9月 芦浜原発予定地を視察しようとして地元住民から実力阻止される
 74年6月 電源三法制定
 82年11月 首相に就任(~87年)
 83年8月 被爆者に「病は気から」と発言
   12月 「下北半島を原発のメッカに」と発言
 85年4月 北村正哉青森県知事が核燃料サイクル施設受け入れを決定
 86年4月 チェルノブイリ原発事故
 93年4月 六ケ所再処理工場着工
 95年12月 もんじゅナトリウム火災事故
 99年9月 JCO臨界事故、2人死亡
2004年8月 美浜原発事故、5人死亡
 11年3月 福島第一原発事故

非正規職・貧困を拡大

派遣法で権利奪う
均等法で保護撤廃

 中曽根は、国鉄分割・民営化と同時に、1985年に「労働者派遣法」と「男女雇用機会均等法」を相次ぎ制定した。この2法の改悪がくり返されることで外注化や非正規職化、貧困が社会を覆った。労働現場での安全を崩壊させ、労働力人口を減少させ、地方を消滅の危機にたたきこんだ。その元凶は中曽根である。

間接雇用を解禁

 第2次大戦前、製造業を中心として、労働者は「人貸業」「募集人」などと呼ばれた者たちにピンはねされ劣悪な労働を強いられた。戦後、労働者の闘いによって労働者供給事業が禁止され(職業安定法44条)、中間搾取も禁止された(労働基準法6条)。
 これらを解禁したのが労働者派遣法だ。成立当初は秘書や添乗などの専門的な13業種に限られていたが、99年には製造業を除き原則自由になり、2004年には1年を上限に製造業でも解禁、07年にはその上限も3年になった。製造業への解禁は、正規職を非正規職に置き換えると同時に、賃金引き下げをもたらした。
 04年を前後して、1日単位で雇用契約を結ぶ「日雇い派遣」「スポット派遣」がいたるところで行われるようになる。前日にならないと仕事も場所も時間も確定しない。時給は最低賃金かプラス10円ほど。ヘルメットも安全靴も軍手も労働者もち。交通費が支給されるかどうかは会社次第――。派遣法が、こんな無権利・低賃金・貧困にあえぐ青年を生みだしたのだ。
 派遣法は間接雇用を合法化した。中間搾取を可能にしただけではなく、労働者の団結権・団体交渉権・争議権を奪う攻撃でもあった。中曽根が、安倍の狙う「労組のない社会」への道筋をつけたのである。

労基法解体攻撃

 1947年に施行された労働基準法は、「子どもを産む性」である女性の体を守るために女性労働者に様々な保護規定を設けた。時間外労働の制限、深夜業の原則禁止、危険有害業務の就業制限及び坑内労働の禁止などである。男女雇用機会均等法は、これら女子保護規定を、「男女差別の解消」をうたって撤廃する道を開いた。これが労基法解体の突破口だった。
 均等法は、女性ばかりか労働者全体に、人間として耐えられないほどの搾取と労働強化をもたらすてこになった。24時間フル稼働(営業)は当たり前。過労死・過労自殺、メンタルを病んで休職・退職に追い込まれる。労働者はすべて自己責任だと押し付けられながら、資本家と安倍は責任をとらない。そればかりか「働き方改革」で中曽根の攻撃を推進している。この社会が階級社会であることをまざまざと示している。
 労働者はぼろぼろになるまで搾取され、使い捨てられているだけではない。自分の生活のため、家族と友人、仲間のために闘う存在だ。青年の決起でこの社会をひっくり返そう。職場で労働条件について話し、創意工夫をこらして、労働組合を復活させよう。

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