資本主義と黒人解放闘争 (上) 欧米諸国の繁栄と資本蓄積は、暴力・征服・奴隷制と表裏一体

週刊『前進』04頁(3144号03面01)(2020/06/29)


資本主義と黒人解放闘争 (上)
 欧米諸国の繁栄と資本蓄積は、暴力・征服・奴隷制と表裏一体

(写真   奴隷解放の記念日である6月19日【ジューンティーンス】にイリノイ州シカゴで行われたデモ)


 「私たちは401年間、首を押さえられたままだ」。米ミネソタ州ミネアポリスで白人警官に殺害されたジョージ・フロイド氏の追悼集会で、ある黒人牧師はそう訴えた。アメリカにおける黒人差別は、1619年に20人の黒人が初めて北米大陸に連行された日から今日まで続く。この全歴史に抗議する闘いが、今や世界中に燃え広がり、奴隷商人や人種差別主義者の銅像を次々と引き倒している。求められているのは、特定の人種・民族を差別し奴隷化することで成り立つ社会の根底的変革であり、その下部構造をなす資本主義に終止符を打つことだ。上下2回にわたり、資本主義とアメリカ黒人解放闘争の歴史を振り返る。

欧州・アフリカ・新大陸の三角貿易で巨額の利益あげる

 「アメリカの金銀産地の発見、原住民の掃滅と奴隷化と鉱山への埋没、東インドの征服と略奪との開始、アフリカの商業的黒人狩猟場への転化、これらの出来事は資本主義的生産の時代の曙光(しょこう)を特徴づけている」(マルクス『資本論』)
 「黒人の奴隷制......は、機械、信用などと同じように、今日のわれわれの産業の枢軸である。奴隷制がなければ綿花はない。綿花がなければ近代工業はない。奴隷制は植民地に価値を与え、植民地は世界貿易をつくりだし、世界貿易は機械的大工業の必須条件である」(マルクス、1846年12月28日付アンネンコフへの手紙)
 ヨーロッパにおける資本主義の成立は、世界市場と近代的大工業の形成を前提とし、また「資本の本源的蓄積」と呼ばれる300年以上もの長い準備期間を必要とした。この本源的蓄積を一挙に促進したのが、先住民や黒人の奴隷を使ったアメリカの金銀鉱山の採掘と奴隷貿易がもたらす巨大な利益だった。そして19世紀イギリスで典型的な産業資本が成立した後も、その基軸産業をなした綿工業は、アメリカのプランテーション(大規模農園)で生涯奴隷として働く黒人の生産した安価な原料(綿花)に支えられていた。
 奴隷貿易は、ポルトガルによる西サハラ(現在のモロッコ南部)からの「黒人狩り」をもって1441年に始まり、スペイン、オランダ、フランス、イギリスが続いた。やがてヨーロッパ諸国は、自国産の安価な製品をアフリカで黒人奴隷と交換し、その黒人奴隷を新大陸へ連行して綿花、砂糖、たばこなどと交換してヨーロッパに持ち帰る「三角貿易」を確立。これによって巨額の富を蓄積した。
 16〜19世紀にアメリカへ送られた黒人奴隷は1千万人とも1400万人とも言われる。彼らは奴隷船の甲板の下に鎖でつないで押し込められ、5人に4人は洋上で死亡し海中に投棄されたと言われる。つまりアフリカから連れ去られた奴隷の総数は5千万〜7千万人に達する。
 19世紀に至るヨーロッパの「繁栄」とブルジョアジーの発展は、彼らの勤勉の成果でもなければ「白人文化の優越性」を示すものでもない。そんな神話とは裏腹に「現実の歴史では、周知のように、征服や圧制や強盗殺人が、要するに暴力が、大きな役割を演じている」(『資本論』)のだ。

奴隷反乱・逃亡が拡大。黒人指導者、非合法組織も登場

 イギリスは17〜18世紀にかけて北米への植民を進め、先住民の虐殺、土地の強奪と並行して黒人奴隷制を確立した。そして1775〜81年の独立革命でアメリカ合衆国はイギリスから独立した。だが、独立宣言で「すべての人間は生まれながら平等である」とされたにもかかわらず、黒人奴隷の解放は進まなかった。宣言の起草者ジェファーソン(後に合衆国大統領)自身も大農園主で奴隷所有者であり、著書などで黒人蔑視を公言していた。
 だが19世紀に入ると、北部諸州では賃労働にもとづく大工業の形成と自営農民の増加が進み、奴隷労働にもとづく大農園が主力の南部とは異なる発展を遂げた。奴隷制はこうした北部の農工業の発展と矛盾するようになり、1808年には奴隷貿易が禁止された。他方で、先に見た通りイギリス綿工業の飛躍的発展に伴う綿花需要の高まりは、南部の大農園で酷使される黒人奴隷の数を爆発的に増大させ(1800年に89万4千人扌60年に395万人)、その労働もますます過酷になっていった。
 こうした中で、北部の黒人を中心に奴隷制反対闘争が果敢に展開され、南部では奴隷反乱が激増した。多くの黒人奴隷が北極星をたよりに南部の大農園から北へ逃亡し、彼らの逃亡を支援する「地下鉄道」と呼ばれる非合法組織もつくられた。この時期、「地下鉄道」を組織した黒人女性ハリエット・タブマンを始め、傑出した指導者が黒人の中から何人も現れた。

南北戦争と黒人奴隷の闘いに連帯し英労働者も決起

 南北戦争(1861〜65年)は、奴隷制に否定的なリンカーンの大統領当選に反発して合衆国を離脱した南部諸州による、「奴隷制の拡大と永遠化のための侵略戦争」(マルクス「合衆国の内戦」)として始まった。だがリンカーンは当初、南部の大農園主の反発を恐れて奴隷制廃止を掲げようとせず、ただその拡大に反対しただけだった。
 マルクスは当時、ロンドンで『資本論』の執筆作業を進めながら、アメリカの新聞「ニューヨーク・トリビューン」に外国通信員として論稿を寄せ、北部の勝利のために「革命的な戦争遂行方法」をとることを訴えた。完全な奴隷解放宣言、大土地所有の廃止、北部軍への黒人の参加を認めることなどである。
 マルクスの指摘通り、事態の推移に押されてリンカーンがようやく62年9月に出した奴隷解放令(63年1月1日に奴隷解放宣言)は戦局を大転換させた。これを受けて50万人を超える奴隷が農園から逃亡し、南部に大打撃を与えた。北部の陸海軍には総計21万6千人の黒人が参加し、おびただしい死傷者を出しながら最も過酷な戦場で戦った。
 今一つ決定的なのは、イギリスの労働者階級が、南部を支援しようとした政府の策動を阻止したことだ。「イギリスの労働者階級は......アメリカの奴隷所有者のために(南北戦争に)干渉しようとする支配階級の再三の試みを熱烈な大衆集会によって粉砕したことで不朽の歴史的名誉を勝ち得たのである」(マルクス「在ロンドン・ドイツ人労働者教育協会の声明」)
 このイギリス労働者階級の闘いは、64年の国際労働者協会(第1インターナショナル)結成の推進力となった。
(水樹豊)

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アメリカ黒人史関連年表(南北戦争まで)
1441年 ポルトガル、黒人奴隷貿易開始
1492年 コロンブス、大西洋横断
1607年 イギリス、北米に最初の植民地
1619年 北米に最初の黒人奴隷が上陸
1663年 初の奴隷暴動(バージニア州)
1775〜81年 アメリカ独立革命
1789年 合衆国憲法で奴隷制容認
1793年 逃亡奴隷取締法成立
1794年 奴隷制反対協会全国大会
1808年 奴隷貿易禁止法(1807年)発効
1820年 ミズーリ協定(北緯36度30分を自由州と奴隷州の境界とする)
1840年 ロンドンで世界反奴隷制大会
1861〜65年 南北戦争
1862年 リンカーン、奴隷解放令(63年奴隷解放宣言)
1865年 憲法修正第13条で奴隷制を廃止

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