津久井やまゆり園事件と京都ALS患者嘱託殺人 障害者の生きる権利奪うな 闘う労組の再建こそが課題 関東障害者解放委員会

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週刊『前進』04頁(3157号03面01)(2020/08/24)


津久井やまゆり園事件と京都ALS患者嘱託殺人
 障害者の生きる権利奪うな
 闘う労組の再建こそが課題
 関東障害者解放委員会


 日本帝国主義・安倍政権の「命よりカネ」の新自由主義政策は新型コロナウイルス感染症を蔓延(まんえん)させ、多くの人々の命を奪っている。新自由主義は命を選別する。生きていても資本の搾取の対象とならない高齢者や障害者は真っ先に見捨てられる。だがその新自由主義はコロナ・パンデミック(世界的大流行)と大恐慌に見舞われて大破産を遂げている。アメリカのブラック・ライブズ・マター(BLM)運動、香港の民主化運動をはじめ全世界で労働者人民が新自由主義を終わらせる闘いに決起している。闘う労働組合を軸に全世界人民が国際的に団結すれば、帝国主義とスターリン主義を打倒し、世界革命をかちとり、戦争と貧困、差別と抑圧からすべての人間を解放することができる。その闘いの重要な一環として障害者解放闘争の拠点を各地につくる実践に踏み出そう。

「価値なき者抹殺」を唱える優生思想

 第一に、2016年7月26日に津久井やまゆり園(神奈川県相模原市)の元職員が障害者施設入所者・職員あわせて45人を殺傷した事件から4年を経た今日、事件をどうとらえるのか、総括を共有したい。
 結論から言うと、これは、新自由主義が福祉や介護・介助を民営化して労働組合をつぶし、そのもとで起こる障害者と介助者(職員や親など)の分断と対立を極限的に激化させ、「共倒れ」と言ってもいいほどの虐待・虐殺に労働者人民を追い込んだ事件だ。
 「重度障害者は殺したほうがいい。生きていても仕方がない」と叫ぶ元職員・植松聖(さとし)の犯行は、決して許されるものではない。
 しかし、事件の半年前の2月から雇用主の管理者も安倍や首相官邸も植松の手紙で犯行計画を知っていた。ところが神奈川県とやまゆり園管理者は、数台の防犯カメラを設置したほか、面接に呼び出した植松を警察に通報して強権的に措置入院させただけだった。最も必要な植松本人との話し合いもおざなりで、職員間の討論の場も設けず、利用者の声も聞かないまま、安全対策をねじ曲げた。安倍や官邸、警察の政治判断、治安政策におもねったのだ。県と管理者、さらに安倍の責任はとてつもなく重大だ。
 もとより労働者階級の反乱と革命を恐れる資本家ら支配階級は、労働者階級人民の間に差別を持ち込み、分断して支配しようとしてきた。その一つとして「価値なき者の抹殺」を叫ぶ優生思想を捏造(ねつぞう)した。ナチスドイツは「優秀民族保持・劣性遺伝排除」を掲げ、戦争政策と人口調整とを一体化させた障害者虐殺政策を行った。日帝をはじめ各国も障害者敵視の断種政策を行った。こうした優生政策が帝国主義の延命の中で今日も生き残り、植松に植え付けられた。

職場環境を争点にせず下された判決

 だが、資本主義とその優生思想を指弾するだけでなく、障害者施設の雇用関係と管理者責任をも追及しなければならない。事件後に設けられた県の検証委員会は、会の趣旨で「関係者の責任を追及することを目的とするものではなく」と述べ、雇用主・管理者への責任追及をさせまいとした。
 植松に死刑判決を下した横浜地裁(青沼潔裁判長)での審理は裁判員裁判として行われたが、事実関係を争点にせず、精神鑑定論争に終始した。しかし、2020年3月16日の死刑判決は1カ所だけ職場環境に触れ、「職場は問題があったから犯行に至る植松の行動は理解できる」と述べた。裁判所は「被告は正常で病的飛躍は無い」つまり死刑判決は妥当だと印象づけるために雇用環境に触れたにすぎない。だがそこには事件を解明する重大なヒントが宿っている。
 判決文は「風呂でおぼれた障害者を被告が助けたが、親から礼も言われなかった」「他の職員が利用者に暴力を振るっていたり、人として扱っていないように感じた」「だから被告は障害者は人を不幸にする不要な存在だと考えるようになった」と記している。ここまで言い切るなら、なぜ職場環境を争点にしないのか。裁判所の黙殺は犯罪的だ。
 1964年に開設された津久井やまゆり園は、県が直接管理・運営する体制から2005年に社会福祉法人かながわ共同会が指定管理者として管理・運営する公設民営体制に移行した。県当局は県職労運動を解体し、労組なき職場に追い込んだ。退職した労組員は市民活動を継続したが、現場での労働組合の再建こそ待ったなしの課題だった。
 民営化で労働条件だけでなく、労働者間の意思疎通と意見交換、労組を先頭とした障害者・保護者・地域住民との交流も奪われた。逆に民営化で指定管理者かながわ共同会(資本)と警察、安倍政権との癒着が促進された。
 津久井やまゆり園に限らず、起きる事件のほとんどは障害者と介助職員との共倒れ的虐待だ。政府は民営化後の事件の激発に慌て、2012年に障害者虐待防止法を制定したが、職員や利用者に一方的な「通報」の義務を課し、職場からの改革運動を封じた。こうした全過程が福祉の民営化であり、ヘルパーの非正規職化・個人請負化、福祉の営利事業化を柱にした2000年介護保険制度実施であり、2005年障害者自立支援法、2013年障害者総合支援法に行き着く。
 昨年、津久井やまゆり園元入所者の告発や愛名やまゆり園(神奈川県厚木市)での虐待による園長逮捕を受けて、神奈川県は津久井やまゆり園での虐待の検証委員会を再開した。新たに同園での身体拘束や居室施錠の長年の実態が明るみに出され、殺傷事件当日の居室への外からの施錠も暴露された。さらに管理責任を問い、改革の先頭に現場の労働者と利用者が立とう。
 第二に、京都で起きたALS(筋萎縮性側索硬化症)患者への「安楽死」をかたった嘱託殺人事件についてどう考えるかである。

「介護の民営化」が自己犠牲を強いる

 これは、会員制交流サイト(SNS)で「安楽死」を依頼した51歳の女性ALS患者が昨年11月30日、金銭と引き換えに40代の2人の医師から致死量の鎮静剤を投与され死亡した事件だ。7月23日に嘱託殺人の疑いで医師2人が逮捕されて発覚した。
 殺害を行った医師2人は「神経難病は自分で死ねず生き地獄」などとALS患者らへの殺害をことさらほのめかしていた。たしかに死亡した女性はスイスの安楽死団体への登録のため渡航も準備していた。しかし女性は40代で発症した後、親元から一人離れ、障害者制度の重度訪問介護の24時間介助を受け、呼吸器を付けず、視線入力でパソコンを操作し、SNSでやりとりをしていた。「事業所やヘルパーとの相性がうまくいかなかった」などと不満をSNSでこぼすこともあったという。
 しかし本質は介護の民営化とそれを生み出す政治への不満のはずだ。そうした葛藤を含みながらも多くの障害者が施設を出て自立生活を送っている。入所だろうが在宅だろうが、障害者は家族や労働者ヘルパーとの団結の中で生活している。安楽死と結びつけることは、自己犠牲を強いる転倒した考えだ。この関係の中に2人の医師が殺害を目的に踏み込んできたのだ。 2人の殺害共犯者は断じて許されない。彼らは終末期医療の美化やそのための「人生(終わらせる)会議」の奨励、医療の営利事業化、公立病院の独立行政法人化・民営化を推進してきた新自由主義の申し子だ。新自由主義の行き着いた先、資本主義の本性のむき出しの姿が彼らだ。
 しかし、大阪・八尾市西郡では、八尾北医療センター労働組合を軸に地域住民が団結し、新自由主義と真っ向から対決して医療センターを自主管理している。 仲間と共に安心して生きられる社会をつくりだすために、新自由主義と安倍を打倒しよう。11月1日に開かれる全国労働者総決起集会(日比谷野外音楽堂)への大結集をかちとろう。
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