ドイツ・ゴアレーベン43年の闘い 反原発闘争の出発点築く 「全原発の廃止まで闘う」

週刊『前進』04頁(3167号04面02)(2020/10/26)


ドイツ・ゴアレーベン43年の闘い
 反原発闘争の出発点築く
 「全原発の廃止まで闘う」



(写真 ゴアレーベン中間貯蔵施設への核廃棄物の鉄道輸送を阻止するため線路に座り込む人々【2011年】)

(写真 2014年3・11反原発福島行動。左から2人目がゴアレーベン反対同盟前委員長のケアスティン・ルーデックさん)


 ゴアレーベンが9月28日、ドイツの核廃棄物最終処分場の候補地から除外された。歴史的勝利だ(前々号既報)。今号ではゴアレーベン反対同盟の43年の闘いを振り返る。
 事の発端は、1977年にドイツ連邦政府(当時西ドイツ)が「核燃料サイクルセンター計画」で放射性廃棄物の中間貯蔵施設および最終処分場を国内に建設すると発表し、その第一歩としてニーダーザクセン州ゴアレーベンの地下岩塩層が適していると判断したことだ。同州政府・議会はこれを承認、ゴアレーベンでの調査に入るが、連邦政府も州政府・議会も現地住民の意思を全く聞かずに事を進めた。これに対し住民の怒りが爆発した。
 ゴアレーベンはベルリンから西へ約100㌔メートルのところにある。村の農民たちは直ちに反対同盟(リューヒョー・ダンネンベルク環境保護市民運動)を結成し、反対運動を開始した。現地の拠点としてテント村をつくり、「原子力おことわり(Atomkraft? Nein Danke)」のスローガンを太陽の周りに配したシンボルマークを旗やバッジにした。こうしてドイツ反原発運動の出発点を築き、州都ハノーバー、ベルリン、ドイツ全土の反核運動との共同行動を展開した。

搬入阻止の闘い

 79年、各地からゴアレーベンに向かって10万人が1週間をかけて150㌔を行進した。80年には現地テント村をめぐって機動隊と激突。83年にはハノーバーでの2500人集会にゴアレーベンの農民がトラクター300台で参加。同年の8・6ヒロシマデーには「東西ドイツの原発即時廃止」のスローガンを掲げて集会。84年には中間貯蔵施設への核廃棄物搬入の日「Xデー」を想定してバリケードを構築。以後90年代まで毎年、抗議行動を展開した。86年のチェルノブイリ原発事故に際し、「東西ドイツの原発廃止」を掲げた東独反核運動との合同集会を開催した。
 94年、高レベル放射性廃棄物最終処分場問題が現実となった。ドイツは現在、原発の使用済み核燃料再処理を、核兵器保有国の英仏に委託している。再処理された使用済み核燃料はキャスク(ステンレス製容器)に収納され、ゴアレーベンの中間貯蔵施設へと輸送・搬入される。これが具体的に開始されることになったのだ。現地のテント村を中心とする集会、トラクターを連ねた農民の抗議デモ、高校生や牧師も含む大衆的運動が本格的に始まった。
 95年4月、フランスで再処理された使用済み核燃料(高レベル放射性廃棄物)の中間貯蔵施設への初の搬入強行に反対して実力阻止行動が行われ、デモ隊が警官隊と激突。5月、ハノーバーでの1万5千人のデモに250台のトラクターが合流。以後、ゴアレーベン地区一帯が厳戒態勢下に置かれた。96年5月、使用済み核燃料の輸送列車の到着に対し1万人が抗議デモに立ち、500人が逮捕され、100人が負傷した。95年から2012年までの17年間でゴアレーベン中間貯蔵施設への放射性廃棄物の搬入は13回を数えたが、そのたびに実力阻止行動が闘われた。

線路上座り込み

 43年間の闘争のピークは、福島第一原発事故が起きた2011年の11月23〜28日の5日間、中間貯蔵施設への放射性廃棄物の搬入に反対して闘われた126時間の激闘である。フランスで再処理された使用済み核燃料の列車輸送はドイツのダンネンベルク郡に入るとトラック輸送に切り替わる。ダンネンベルクでの2万5千人の抗議集会に農民が400台のトラクターで登場し、阻止態勢に入った。列車が出発するフランスでは、同国の鉄道労働者がドイツの闘いに連帯して実力阻止闘争に立った。列車は100カ所を超える線路への座り込みなどによって立ち往生、ゴアレーベン到着は5日後となった。
 福島原発事故3周年の14年3月11日、「福島を忘れるな。全原発即時廃止」を掲げた集会が全ドイツ239カ所で開かれた。その後もゴアレーベンでは「福島の警告を忘れるな!月曜行動」が現在まで500回を超えて行われている。

新たな戦闘宣言

 ゴアレーベンを軸とするドイツの反原発運動は、1978年のスリーマイル島原発事故、86年のチェルノブイリ原発事故、そして2011年の福島原発事故によって巨大な衝撃を受け、そのなかから国際連帯をかちとり、前進してきた。この三つの原発事故と反対運動の爆発的展開は、ドイツ帝国主義支配階級に原発政策の修正や転換を強制した。2000年にシュレーダー社民党・緑の党連立政権は「脱原発政策」を打ち出した。だが、05年に政権に就いたメルケル・キリスト教民主同盟/社会同盟・社民党連立政権は、09年に「脱・脱原発政策」(原発推進)に転換する。しかし、福島原発事故の衝撃とゴアレーベンを先頭とする反原発闘争の爆発に直面し、「脱原発」に戻った。稼働中の17基のうちまず8基を停止し、22年に全廃する方針だ。最終処分場選定問題に関しては、「最終処分場選定法」に基づいて17年に設置された連邦放射性廃棄物機関(BGE) が今回の中間報告でゴアレーベンを候補地としないと決定したが、新たに全ドイツで90カ所を候補地に指定した。このうち56カ所がニーダーザクセン州内にある。反対同盟は候補地の住民とともに闘うと新たな戦闘宣言を発した。

国際連帯の発展

 ゴアレーベン反対同盟の前委員長ケアスティン・ルーデックさんらは、12年の8・6ヒロシマ大行動、14年の3・11反原発福島行動への参加、三里塚への訪問、毎年の3・11や8・6へのメッセージで日本の闘う人民との交流を深めてきた。日本からもゴアレーベンを数回訪問し、国際連帯を発展させてきた。ゴアレーベンの勝利は〈コロナ×大恐慌〉情勢下の国際階級闘争にとって巨大な意義を持っている。
(川武信夫)

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